ROCK CLASSIC

ザ・ドアーズ『まぼろしの世界』
THE DOORS『STRANGE DAYS』

―それっておかしくないですか~Part 7―

 闘う理由も無いのに戦うって、おかしくないですか?だから、働かなくてもいいんですよ、別に。日本がこれ以上、上昇することはないんですから。
というSNS上のツッコミを横目で見ていた。

 アメリカ西海岸出身のロック・バンド、ザ・ドアーズのセカンド・アルバム『まぼろしの世界』。発売された1967年、その頃はまだ闘う理由があった。世界ではベトナム戦争への反対を掲げたアーティストがいた。戦争を無くせば世界は平和になるという希望を胸に。
でも、戦争は防げず完全な平和が訪れることもなかった。

    サイケデリック・ロックはこの時代を代表するロックの一つである。ザ・ドアーズの作品にもサイケデリック・ロックが溢れている。彼らの楽曲の形式から言うのであれば、レイ・マンザレクのキーボードのメロディーとロビー・クリーガーのエレクトリック・ギターとのメロディーの交差から生じる、覚醒的音楽作用がサイケというものを形作っている一つの要因だろう。結果的にだが、60年代後半のサイケデリック・ロックは、戦いの果てに訪れる心の痛みを軽減する意味を持っていたのかもしれない。だからあの時代にサイケは有効だった。

   しかしながら、私がドアーズを知ったのは「Break On Through」という楽曲で、そこで感じたのはサイケというよりもジム・モリソン過激、コワイという印象だった。だからモリソンのシャウトを伴うボーカル・スタイルから私はハード・ロックを感じていたのだと思う。

    彼の過激でエロティックな表現スタイルとサイケな世界が人々を虜にした結果、モリソンはその時代のロック・スターへと登り詰めた。この2つの部分は日本のロック・バンドの佇まいにも影響を与えているし、本作からの音楽的な引用も多数見受けられる。

 今も本当の意味で闘う必要がある時。つまり、その痛みを和らげる音楽、正にサイケデリック・ロックのような音楽が必要なはず。でも、ジム・モリソンはもういないし、いたとしてもザ・ドアーズの音楽が今の時代にそのまま機能できるわけではない。あの時代にあった音と音との行間に潜むコクーンはもう無いのだ。

 だから、どんな音楽が必要なのか。今風のサイケか、ブルースやハード・ロックか、いやレゲエ?やっぱりヒップホップなのか。その答えは1つではないと思う。 正しいことのために闘う意味があったあの時代に、勝者への賛美歌にも、敗者のための鎮魂歌としても『まぼろしの世界』は何処までも有効であった。

   でも、戦うことの正しさもなくなって、もちろん負けることの正しさなんてあるはずもない状態で、戦争を続けるなんて、おかしくないですか? もう、戦いはやめだ…ザ・ドアーズの音楽なんて必要ない!っ世界はこれからも望めそうにないのだろう。 僕たちが常に求めているのはサイケデリックという名の蜃気楼か?いや、まぼろしのように消えた、その向こうにある世界だろう。

LIVE REPORT

GRAPEVINE presents
GRUESOME TWOSOME
guest:UNISONSQUAREGARDEN
in Zepp Osaka Bayside
2017.5.28

グレイプバインバンツアーのラストは、ユニゾンスクエアガーデンとの大阪公演。

エアリアルエイリアン」から始まったユニゾンは、ポップのフォーマットでロックし続けるスタイルは変わらずだった。田淵の能のようなベースプレイと鈴木のタイトなドラミング、そして一貫してクールなギター&ボーカルの斎藤が織りなすアンサンブルは所謂踊れるロックというジャンルでありながらも、その他を寄せ付けないダンサブルさを持っている。サウンドとしてのロックを貫きつつも、歌としてのメロディアスさがユニゾンのポップ・ミュージックとしての可能性を何倍にも高めている。今回も、彼らのロック・サウンドが加速すればするほど「クローバー」が会場に鳴り響いた瞬間にガラリと空気感が変えてしまう。これはポップ・マジック以外の何物でも無いだろう。ラストの「シュガーソングとビターステップ」はまさに今のユニゾンな曲なのだか、改めてライブという場で鳴り、機能した結果、この曲にあったロックとしてのノリとダンスミュージックとしてのノリ、ベースが作り出す横ノリがすべて放出されていることを実感。彼らの現在地をしっかり確認することができるアクトだった。

バインはいつもの大阪ならではのノリで登場。「ふれていたい」から始まった。バインはロック・バンドであるからこそ、レコ発公演で無い場合は、既発曲を織り交ぜたセット・リストでアレンジも変化していく。2曲目は「Golden Dawn」昨年は4つ打ちがよもや、はやり言葉となってしまったが故。ニヒルなバインはそこから、テクノな展開を見せてくれた。今回は、そこまではいかなかったが、音響系とサイケデリックの間を行き来しつつ。そこからは彼ら得意の長く粘つく世界観を曲を重ねるごとに構築していった。そして”デビューから20年を経て、ついに武器を手に入れた”という冗談のようなMCをはさみつつ、新曲「Arma」が放たれた。楽曲はバイン王道のロック・チューン。歌詞には”武器”もでてくるが”あなた”という歌詞も対比されている、田中らしい詩になっているようだ。今回、バインの演奏を聴いて感じたのは、どうも奇妙に完璧なノリが渦巻いているということ。20年を経てたどり着いたと言えば安易だが、それもあるかもしれない。とにかく今のこの5人の響演はサイケデリックや音響系が渾然一体となった異常な高揚感を有している。つまりそれが2017年のバインのノリなのかもしれない。

アンコールの最後、グレイプバイン&斎藤のメインボーカルで「光について」が演奏され、終演した。

一夜にして、ユニゾンスクエアガーデンとグレイプバイン、2組の現在地を見ることが出来た貴重な対バンライブだった。

ROCK CLASSIC

ザ・ビートルズリボルバー
The Beatles『Revolver』

―33回転目の真実―

 “今、何回転目?”
 “そうね!だいたいね~”


    レコードの針は降りたままだった。今日はビートルズのメンバーに、「リボルバー」についてインタビューをする日。緊張が徐々に高まってきていた・・・


    ―――まずは、リンゴからインタビューをさせて頂いた。
私「初めまして、リンゴ」

リンゴ「やあ」

私「リボルバーは最高のアルバムですね」

リンゴ「ありがとう」

私「あなたが歌っている“イエロー・サブマリン”もポップで気持ちイイですね」

リンゴ「あれは、ポールが書いた曲なんだ」

私「そうなんですね。あなたのボーカルがすごくマッチしていると思います」
リンゴ「それは、よかった。あ、ちょっと用事を思い出した。すまないけど先にほかのメンバーの処へ行ってくれないか?僕はまた後で、いつでもいいからさ」

私「あ、わかりました。じゃ後で!」


 次はジョージのもとに向かった。
私「こんにちは!ジョージ。初めまして」

ジョージ「こんにちは。初めましてだね」

私「今作にはあなたの楽曲が3曲も入っていますね。今、かなりノッテいますか?」

ジョージ「いや、いつも通りだけど。まぁ、たまたまだよ」

私「“タックスマン”はすごくファンキーでノれる曲ですし。“ラブ・ユー・トゥ”はインド風と言われているようで、この曲は60年代後半のプログレッシブ・ロックにも繋がる構成になっていると思います。“アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー”は70年代のグラム・ロックにも通ずるというか、そのままいけば煌びやかな80年代への系譜にもなっているかと思いました」

ジョージ「ふーん。まぁ君の言っていることが正しいのかよくわからないが、クールに決まっていればOKだよ」


 その時、部屋のドアが開き、ポールが顔を覗かせた。

ポール「いつまでジョージと話をしているつもりだい?もういいだろ。はやくこっちに来なよ」

私「あ、でもまだ…」

ジョージ「いいよ、別に。ポールのとこ行きなよ」

私「あ、ありがとうございます。ではまた」

ジョージ「オッケー。バイバイ!」


私「どうも。初めまして、ポール」

ポール「ハーイ!元気にしていたかい?」

私「はい。げ、元気ですよ!」

ポール「そうか!また日本に行くからね!」

私「それはどうも、ありがとうございます。それで、リボルバーの話なんですが」

ポール「うん」

私「ポール、あなたの書いた曲は、とても泣けます」

ポール「ほんとかい?まあレノン・マッカートニーなんだけどね」

私「あ、まぁ。あなたがリード・ボーカルの曲ですね」

ポール「ありがとう、どんどん泣いてくれ。沢山ハンカチを用意しなくちゃ」

私「あなたの歌う曲には、アメリカン・ポップスに影響を受けた部分もあるように思います。ただ、やはりジャズを感じられる“グッド・デイ・サンシャイン”や、モータウン・サウンドを感じられる“ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ”など、黒人の音楽に思いを馳せることもできる気がします。聞くまでもないかもしれませんが、ブラック・ミュージックは好きですか?」

ポール「もちろん。当り前さ!」

私「それと、あなたの歌詞は女性への思いをストレートに書き綴ったものが多いですね。やっぱり女性は好きですか?」

ポール「笑。言わせないでくれ!君も同じだろう?」

私「えぇ、まあ笑」

私「ありがとうございました」

ポール「どうも、サンキュー!」


 最後はジョンのところに。
私「ハイ!ジョン。初めましてです」

ジョン「やぁ」

私「本作を聴かせてもらいました。素晴らしいですね」

ジョン「うん」

私「あなたが歌う曲は、フォーク・ロックを感じさせる“アイム・オンリー・スリーピング”、サイケデリックな“シー・セッド・シー・セッド”、ぐるぐる回り続ける感覚が心地いい“トゥモロー・ネバー・ノウズ”とか。これらの楽曲は、まさにアメージングです!」

ジョン「うん」

私「いうなれば、音楽があなたを選んだかのようですね!」

ジョン「うん、うん。そうだね。でも、今の君は音楽の事をとんと分かってないようだね!音楽とはそういうものではないのだよ」


 その後のジョンとの会話をほとんど覚えていない。何故なら、私は打ちのめされていたからだ。でも最後のやり取りだけは覚えている…それが、本当に大切なことだったことには、後から気が付いたのだが。
 最後に4人が集まって来られた時に、最近の時事問題について聞いてみた。
私「あの、イギリスのEU離脱問題についてはどうお考えですか」
ジョン「僕は反対だ!人類は皆家族なんだよ。ほんとに今の国民はイマージネーションが足りないんじゃないかな?」
ポール「うーん。難しい問題だね。でも、ジョンがいつも言っているように愛こそすべてだから。まあそういうことだよ」
ジョージ「僕も一応反対だね。金に取りつかれた政治家は血祭りにあげるに越したことは無いよ。うん」
リンゴ「・・・・今は何とも言えないね。でも、人々が幸せでいることが一番大切だと思う」
私「わかりました。今日はお忙しいところ、お時間をいただき有難うございました。」
最後にポールだけ私に「じゃーね。また来なよ」と声をかけてくれた。


 それから少し経って「リボルバー」を聴きながらジャケットをしげしげと見ていた時に、ジョンから受けた質問の意味がようやく理解できた。ジョンはこう言った「君はいま何回転目なんだい?」僕はどういうことですかと尋ねた。するとジョンは「人生は何回も回り続けるものだよ。でも、突然終わってしまうことだってある。それを肝に銘じて生きていかなきゃだめだよ」と言った。
 ジャケットに記載された“LONG PLAY 33 1/3R.P.M”きっとジョンはこの回転数と年齢のことをかけていたのだろう。
 回り続ける「リボルバー」の盤の内側で、針がカタカタと規則的な音を立てていた。
 その時、声が聞こえてきた気がした。「今、何回転目?」私は「33回転目」と答えた。そして、「なにか分かった?」と声は聞いてきた。私は、こう答えるしかなかった。
 「いえ、今はまだ何も。」

ROCK CLASSIC

ザ・ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』
The Beach Boys『Pet Sounds』

―密室トリックの謎―

    三十路を過ぎてから、白髪がちらほらと出始めて、あぁもう年だなと思う今日この頃。しかし、こういう発言は後期高齢者に中指を立てるような発言になるので、差し控えよう。でも、なんだかなぁ...。


    世の中のすべての謎が解き明かされる中。ホームズやポアロにも解けない謎がまだ残っている。それは、1966年に米国のロックバンド、ザ・ビーチ・ボーイズによって生み出されたアルバム『ペット・サウンズ』の中での密室トリックだ。いや、本当にトリックを使っている訳では無い。ただ、安易な言い方をすれば、あまりにも美しいこの作品はその鮮度を保ったままで2017年に存在している。今回はその謎を少しでも解ければいいなと考えている。
 バンドの中心人物ブライアン・ウィルソンは部屋に籠って一人でこの作品を作った。これは密室と言っていいだろう。現在でいう引きこもり状態。いい意味での。そして、大抵こういう方に「孤独を感じたか?」と聞くと答えはNo.だ。なぜなら彼は音楽家として孤独を愛していたからだ。でないとここまで常軌を逸した名作を一人で作る気なんて起きないだろう。でも、だからこそ、孤独を感じているリスナーへ突き刺さる音楽に成り得たともいえる。孤独を愛した芸術家が孤独な人々を救う作品を作り出したのだ。本作は発売当時、ブライアンの母国ではあまり評価されなかったという。独り相撲な論争になるが、おそらく、この当時のアメリカ国民は孤独では無かったに違いない。
 まさに、ブライアン・ウィルソンこそ孤独の代弁者たる人物だろう。特に本作に溢れるメロディー・ラインは何人をも救ってきたのではないか。そして後進のアーティストたちに影響を与え続けていることも明白である。それは日本のミュージシャンも然りで、この作品からの参照点が多数見受けられる。しかし、本家である彼の作る旋律、その異常な美しさは誰にも凌駕されていないと思える。
    日本のロックシーンの孤独の代弁者たる人物をあげるなら、BUMP OF CHICKEN藤原基央を差し置いて語る訳にはいかない。おそらく彼に孤独を愛しているかと聞けばYES.と答えるのではないか。
    孤独を愛しているが故に、生み出された曲がある。それがよくわかる部分が「太陽」という曲の歌詞。”もう一度 朝と出会えるなら 窓のない部屋に 人間が一人/ドアノブが壊れかけていて/取れたら最後 もう出られはしない/出れたら最後 もう戻れはしない” 孤独を愛しながらも外界と接することを求めていた人物は、あと一回しか使えないドアノブを握り、葛藤する瞬間を描いている。孤独を愛する者はいつもその地点で揺れ動いているのだろう。藤原基央、そしてブライアン・ウィルソンも。
    この『ペット・サウンズ』は彼が孤独を愛し続けた果てに、生まれたものなのだ。そして、作品は1966年のリリースからずっと、密室の中に幽閉されたままなのである。何故ドアが開けられなかったのか?
    その後、彼は『ペット・サウンズ』が当時のファンに評価されなかったことや、次作『スマイル』が完成まで行き着けなかったことをきっかけに精神を病み、本当の引きこもりへ。以後20年近く音楽シーンの最前線から遠ざかってしまう。
    ひいては、この究極のマスターピースが彼自身を苦しめる結果となったのだろうが。僕はもう一つの意味として、『ペット・サウンズ』をずっと閉じ込めておくために必要な年月だったと考える。それには、ブライアン自身も一緒に寄り添って、再春館製薬所のように見続けなければいけなかったのだ。
    謎はすべてとけただろうか。幽閉され、閉じ込められたこの作品は、成熟し遂に発酵して始めた。それは今も続いている。
    ブライアンは自分の身をもって、『ペット・サウンズ』を発酵させた。そして今の僕達に発酵物たる本作を届けてくれたのだ。
    しかし、何故今になっても孤独の代弁者たるブライアンの作った作品が僕たちを揺さぶり続けるのだろう。でも今だからこそ、なのだ。所謂、ネットで繋がり分断された世界は新たな孤独を生み出した。それを少しでも救うために孤独の代弁者が歌う音楽が必要なのだ。“I Just Was Made For These Times”と言って欲しい。


    謎と言える程の事ではなかったが。本作の密閉トリックの謎は、作品を発酵に導くための過程だったということで解決した。
―――しかし、まだ解決してない謎が残る。仮にこの長い時間の刻印無しに、『ペット・サウンズ』の封を開けた場合はどうなっていたのか?クソみたいな作品だったか?そんな訳はないはずだ。
    その答えは君が解いてくれ。ただヒントをやろう。つまり、時間は一瞬に過ぎるということ。待つことほど楽しい事はない。まだ死んじゃだめだ。まだ出しちゃだめだ。まだ、オルガズムに達しちゃだめだ!
最高の瞬間はもうそこまで来ている…
    さあ、君も覚悟が出来たかい?
じゃあ、そこの玉手箱を開けてみなさい。
それでは、私はこのへんで。ではまた。

ROCK CLASSIC

ボブ・ディラン 『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』
BOB DYLAN『BRINGING IT ALL BACK HOME』

 ―見える化のススメ―

    どうもきつねに抓まれたような、たぬきに騙されたような気になってくる。人口知能が現れてから、それに拍車が掛かってきた。現実社会で騙されるのはしょうがない。ネットで詐欺師に騙されるのは、まだマシだし。出会い系でさくらに騙されるのは寧ろ面白い。でも、せめて相手は生物であってほしい。血の通った生身の人間であってほしいと思う。目に見えない恐怖とアホらしい戦いをしている、今はそんな気分だ。
 見える化が善、という思想が当たり前になった今日。どうも無理な態勢を保ったままでいる方が多い。“スケルトン”なんてものが流行った時代はまだかわいいものだった。それで思い出すのがアイドルグループの嵐がデビュー曲で身に着けていたスケルトン衣装。あれ以降、徐々に見える化見える化と騒がれだした…なんてことはないか。そんなに見えたっていい事ばかりではない。本当にこわいモノを見た時、私たちはどうするのだろうか。
    反対に見えないものを見せてくれるのが、ミュージャンだろう。そして、ボブ・ディランもその一人である。現代ロックの創成期1965年の作品『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』は、ロックのスタート地点の一つでもある。
    ロックン・ロールが始まり、そう年月の経っていない60年代。黒人音楽として生まれた事を匂わすように、この時代のロックには、ジャズ、ブルース、そしてリズム・アンド・ブルースをベースとしている事がよくわかる音作りとなっている。
    元々フォーク・シンガーだったボブ・ディランが、本作で初めてロック・サウンドを自身の音楽に取り入れたと言われている。レコードの場合にA面となる7曲目迄が特にロックン・ロールらしい楽曲となっていて、ここから、フォーク・ロックの歴史が始まったという。
    同時代の日本の歌謡曲でディランの本作とリンクするものがあった。それは、坂本九の「上を向いて歩こう」や「明日があるさ」。この時のディランと坂本九の曲はベース・コード、リズムに類似点がある。それで調べてみると、坂本九の曲は、ジャズピアニストの中村八大が作曲者だった。両方とも根っこでは黒人音楽と繋がっていた、という事。
    ロックとは見えない敵と戦い続ける姿を見せる事でもある。この作品の中で見えない敵とは人種差別のことである。それが顕著に現れているのは、「オン・ザ・ロード・アゲイン」。和訳歌詞にて、 ”で、あんたはどうしてぼくがここにいないのか尋ねるが” と全小節に渡って繰り返される。この意味は、本当にいないのではなく、相手が黒人だから見えないと言い張っているのである。
    もう一つ、ボブ・ディランがアメリカを歌った、「ボブ・ディランの115番目の夢」。この和訳で冒頭の “「これがアメリカなんじゃない」” と、最後の “オレの名はコロンブスだ、とぬかしたので「ほんじゃあね」とだけ答えてやった” という部分から、ディランのアメリカに対しての皮肉が滲み出ている。本当のアメリカは見つかったのだろうか?この歌では明かされていないと思う。
 本作リリースから50年以上たったが、アメリカ国民はここで歌われた人種問題と共に、本来のアメリカを見失ったままなのかもしれない。2016年ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞した。しかし、彼の歌詞の意味に込められた物語はまだ継続したままだろう。
 私たちも日々見えない敵と向き合っている。そして見えない敵に傷つけられ、その相手を探している。誰?誰?誰?
なんだ、やっぱり見える化を求めているのね、私たち。
 「アウトロー・ブルース」の和訳で最後、こう歌われる。“ジャクソンで女と知り合った/名前はいいたくない/褐色の肌の子だけど/好きだというのに変わりはないよ”
 坂本九は“あの娘の名前はなんてんかな”と歌う。
 そして、私は「君の名は?」と聞く。
 すると彼女は、こう言った。
 「りんなだよ。」

DISC REVIEW

ザ・チェインスモーカーズ 『コラージュ』
THE CHAINSMOKERS『COLLAGE』


チェンジ・ザ・ワールド
―Change the World-

 

    音楽とは、人と人とを繋げるもので無くてはならない。改めてそう思った。SNSで世界は繋がったというが、そんなのは嘘だ。ネットでつながって新たな人間関係が出来たから故、そこにはまた、不謹慎狩りや、LINEの友達グループ外しなど、不毛な論争や抗争が生まれた。つまりそれは、現実世界と同じ人種差別や部落差別的なことを仮想空間で繰り返してしまうという結果だったのだ。私たちはただ繋がりたかっただけなのに。ネットでつながったからこそ、世界はまたバラバラになった。今、新たに繋げるための何かが必要だ。
 音楽は人々を繋げられる。ダンスも人々を繋げることが出来る。ならばEDMも人を繋げることが出来るだろう。だとするなら、ザ・チェインスモーカーズの『コラージュ』という作品も人々を繋げることが出来るはずだ。   
   特に昨年あたりから、EDMが世界のポップ・ミュージック・シーンを席巻し尽くした感がある。猫も杓子もEDMかよ。でも、EDMが伝播した理由など考える必要はないだろう。乗れて、楽しくて、ハッピーでちょっぴり切ない。こんな音楽は誰もが好きになって当たり前なのだ。そう考えるとEDMをやれば売れるということになる。確かに今なら売れ時かもしれない。でも、だからってすべてのアーティストがEDMをやるというのはどうもリスナーに迎合してしまう行為なんじゃないかと。そうやって妄想していくと最近どこかで聞いたキーワードだ。
 第45代米国大統領ドナルド・トランプ氏が行う政策がポピュリズム大衆迎合主義)だと称されている。一般市民が求める利益や願望を利用して、大衆の支持を得る。つまり、目先の利益を餌にして、人々の票を得る、人気を勝ち取る行為とのこと。何となく似ているような気がしてならない。今、アーティストが安易にEDMを取り入れることはポピュリズムだと言われる、なんてことも…(いや、ポピュラー音楽なんだからいいじゃん)
EDMをすることの是非が今問われているのではないか。
 といっても、ザ・チェインスモーカーズがそんなシリアスな思いでEDMをやっているわけではないらしい。二人は軽いノリでEDMをやっているという。しかし、彼らの楽曲のセンスや、フィーチャリング・アーティストのチョイスが、2016年全米チャート10週1位という結果を残すに至ったことは事実だろう。
 逆にこの現代に、EDM然りテクノやエレクトロニカが無かったらどうだろう。きっとつまらないだろう。音楽で伝えられる楽しさも、その反対の悲しさも表現出来る幅が狭まっていたと思う。音楽的には別だけど、同じダンスという点では星野源の“恋ダンス”もダンス・ミュージックがあればこそ、なのだと思う。
 本作楽曲の歌詞は、五十年前と変わらず、愛や恋などで綴られている。造詣が深い訳ではない。三文小説だよ三文小説!
 それで?だからどうだというのだ。下らなそうに見えた歌詞世界。軽いノリのハイテンションなEDM。そこに見え隠れする喜びと悲しみ。それこそがポップ・ミュージックの原風景なのだ。
 ポピュリズムだかポリリズムだか知らんが、アメリカは、再び多民族をサラダ・ボールに収める準備をする必要があるだろう。
 そして、もしかしたら、EDMはバラバラになった世界の景色をもう一度“COLLAGE”して私たちに見せてくれるのかもしれない。
THE CHAINSMOKERSの『COLLAGE』を聴いてそんなことを思ったのだ。

DISC REVIEW

長澤知之 『GIFT』

 ―開けて閉めて、開けて閉めて、開けて閉めたら…―

     虚無僧(こむそう)が放送禁止用語だと知ったのは、中島らもエッセイ集『こらっ』の文中からだった。昔々、深編傘を頭からかぶり、顔を隠し、尺八を吹きながら諸国を回る人たちがおったんじゃとさ…。2016年の今、これと似たような人がいる。それは、風邪でもないのに年中マスクをしている若者たちだ。なぜずっとマスクをしているか聞かれると、人と話をするときも、安心感がある。友達と喧嘩した後の気まずさを紛らわす役目もあるという。コミュニケーション過多な世界の中で私たちは、また一つ大切なものを失ってしまったのかもしれない。結局、頭隠して尻隠さずになっちゃっているのよ。
 いくら隠しても無駄!ってことが言いたいのでは無いけど。長澤知之の『GIFT』という作品は、もちろんそんな大昔の話を歌っているのではなく、かといって、バリバリの今を切り取りたいという風でもない。言うなれば、今年32歳の長澤の視点は、少し前の時代を知る者が見据える、現在への冷めた視点と虚無感、そして、ある意味の開き直りから生まれてきた音楽だと言える。
 今作の全体像は、今まで以上にロックなテンション、いつになく陽性な和音が垣間見える。(少し含みのあることばとして言っておく)また、7曲中1曲「風鈴の音色」では、自身がボーカルをとらず、という衝撃点もあった。この曲こそ、CDの帯のコピーにある“かつてないスタンダード”に当てはまる曲だと思うが、あえてこの曲を歌わないのが長澤らしい。
 今年の動きとして、もう一つのキーポイントは、ex. andymoriメンバーとタッグを組んだ、ALでの活動。おそらく小山田壮平が発起人だったのであろうバンドだが、少なからず長澤にも良い影響を与えたことは言わずもがな。その一つは、先述した彼の陽性な側面をもう一度煽ったという言い方が正しいかは分からないが、それに引きずられる形で、柔和な攻撃性を取り戻した気がする。
 歌詞についてはいつもの長澤節ではあるのだが、少し気になるところもある。それは1曲目「時雨」の“帰り道決意を迷いながら/次の家路をさがしてる”や「風鈴の音色」の“ああ ふるさとよ この胸に還る場所/ああ なにもかもが おしまいにかわる場所”という部分。一つのプラットホームに立ち、行き先を思案している。そんな心の揺れ動きを表現しているかの様な言葉。デビュー10周年を迎え、彼自身もまた転換期に立たされているのだろう。
 どれだけ隠そうとしても、隠せないもの。例えば、長澤知之の音楽はロックだけど、やっぱりなんやかんやいうて、彼はフォーク・シンガー。音の端々から滲む悲哀を隠すことは出来ないのだ。それが長澤の音楽の素晴らしさでもある。これからもエレジー続けましょう。