DISC REVIEW

シャムキャッツ

『Friends Again』

 

シャムキャッツシャムキャッツでいるために―

 

 シャムキャッツってバンド名になぜ決まったのか、私は知らない。どこかのインタビューでメンバーが質問されて、答えているのかもしれないが…。それをいいことに勝手に考えてみた。“キャッツ・アイ”や“Cats”など、猫がタイトルになることは少なくない。かわいい動物の代表格である名前をバンド名につけるという案は100点満点だろう。ロックバンドのイメージから考えて尚良。


 シャムキャッツが“猫”という名前にギャップを感じる程のロック×2な人達かといえば、そうは感じない。むしろ猫っぽい4人の男と例える方が納得し易いだろう。じゃあ猫みたいなヤツらだからシャムキャッツって名前でいいじゃないか?という風にバンド名が決まったと、私は思い込むことにした。


 2015年のミニアルバム『TAKE CARE』では、さほど猫っぽさは感じなかった。ただ、猫の目線で彼等の物語は紡がれていると感じた。そのスピード感と音楽自体のテンポも含めて、同世代のバンドとはズレている。寧ろ、ずらしていることが彼等のアイデンティティであり、世間に対してのアンチになっていた。その並々ならぬ努力の結果、シャムキャッツは存在しているのだと思う。


 今作では「Funny Face」の歌詞に猫が登場した。正に猫々しい作品。シャムキャッツというバンド名に相応しいアルバムになったと思う。でも、これから猫っぽさ全開で突き進んでいくわけでもないだろう。かわいい娘を可愛い猫と喩えることは言わずもがな。彼らはいずれ、バンド名の本当の意味を語ってくれるのかもしれない。少なくともそれまでは、作品を片手に想像してみるのもいいだろう。


 “もう一回 ふざけたら ただじゃ おかないよ”と去勢された元オス猫は言う。でも彼は「元ではなく今もオス猫だ」と言い張っている。それは当たり前なんだが…。男が男でいることの難しさを抱えた同世代の想いを、このバンドは代弁できているのかもしれない。そんなシャムキャッツの戦いは終わらないし、これからが本番なんだろう。

 

DISC REVIEW

踊ってばかりの国

『君のために生きていくね』

 

―消えた玄人と増え続ける素人―

 

日本では玄人が消えていき、素人が増えてきている。それは色んな職業の人の現状を見ればわかる。汚職刑事や教師の犯罪。本来プロでなければいけない人たちが、プロとしてあるまじき行為をする。そういうのが日常の出来事になってしまった今日この頃。そしてロックミュージシャンもご多分にもれず、玄人が消えてきているようだ。職業としてのロックミュージシャンが増えてきていると思う。それも正しいし、間違ってはいない。職業の選択肢が増えることはいいことだ

 

そんな中であくまでも、生々しいロックミュージシャン像を体現し続ける一人が、踊ってばかりの国の下津光史だ。

 

今作で生々しいロックミュージシャン像が顕著に表れている曲が何点かある。まずM1「Boy」で描かれる古典的なロックの価値。“パパとママにはずっと内緒だぜ”の代名詞が消えて、幾年が経つだろう。ロックの持つ懐かしい風景を見せてくれる。M15「プロテストソング」はロックの根源的なパワーを象徴する曲だ。下津のシャンソンのような歌い出しから、一気にバンド・アンサンブルが渦巻いていく。ここで歌われている政治的抗議は、社会によって奪われた“友”への悲哀と捉えることができるだろうか。それに対して「無償の愛」をささげられるのもロックの醍醐味である。最後はボーナス・トラックでもあるM16「美しい春」。ワルツの調べと共に、ロックの究極のスタンダードであり、今なお色あせることの無い“半径5m以内に存在する人への愛”を提示する曲で締めくくられる。

いかれた奴が正しい奴だとは言わない。でも『君のために生きていくね』のような本当のロックを歌えないロックミュージシャンは、即刻リングから降りてもらいたいとも思う。

 

まあ、でも、これを書いている私も素人なので、即刻退場の憂き目に遭うことは火を見るよりも明らかだろう。

 

 

DISC REVIEW

ART-SCHOOL『In Colors』

 

―パラダイス・ロストの次の景色―

 

ふと3rdアルバム『PARADISE LOST』を思い返す。本作は、これの次に鳴るべき音だったんじゃないかと思った。2005年はアートが自身のバンド・サウンドに、音響系やダンス・ミュージックを取り入れた転換期だった。以降その側面は、オルタナティブ・ロックの一つの色として、ずっとアートに息づいてはいたが、その音楽的な傾向を活かすような、陽性でポップな作品は生まれてこなかったと思う。

 

それが、バンドが現体制なって数年が経ち、木下理樹以外のメンバーが徐々に作曲に参加し始めた結果、失われた楽園の向こうの景色が見えるような本作を生み出せたのだろう。特に作曲が共作の楽曲を見てみると。M1,2,5は戸高賢史との共作で、ポップでテンションの高い楽曲。M3は藤田勇との共作で、ダンスロックな楽曲。それに後押しされたか、元々持っていたか、木下理樹単独の曲もロックの持つ陽性なポテンシャルが感じられる楽曲となっている。

 

先日見たツアーでの演奏でも、その傾向は、はっきりと出ていた。ライブの中で、アートのメタルな部分、音響系な部分とダンス・ミュージックな部分が明確になり、バンドに多彩な色を与えていた。

まさにカラフルな楽園を描けたのだと思う。

 

COLUMN

『ネットの恩恵と代償が、僕たちと音楽の繋がりをどう変えたか』

ー 2015年6月28日 ー

先日、美容室に髪を切りに行った。その時、RADIO HEADを好んで聴いていたという店長が、「あの頃と(90年代)比べて、今の音楽って全然変わりましたよね~」とそれに対して僕は、とりあえず「そうですね、やっぱり90年代後半にロックにヒップ・ポップが取り入れられてから、ロックの形も変わってきたんじゃないですかね。」と切り返した。帰ってから、ふとその会話を思い出してみた。なんかしっくりこないのだ。何か、ロックが変わる、それ以上に音楽に変化を及ぼした何がしか。

そうだ、インターネットか…。Windowsが日本に上陸して、ヒジネスや人々の暮らしに入り込んできたのも90年代だった。僕の場合、その時期は小中学生の時期と重なる。小学校の卒業文集に将来の夢はパソコンを使う仕事とか適当なことを書いていたのを思い出す。それは、予言なんかじゃなく、単にそういう時代の始まりだっただけで深い意味は無かった。
そんな僕は社会人になり、ある人生先輩の言葉を聞くことになる。いわゆる、団塊の世代の方で、彼は、「Windowsに日本が侵食されたんや」と言った。まぁ、オヤジの単なる愚痴に聞こえるが、妙に僕の心に引っかかるものだった。

インターネットの普及はYouTubeを含め、音楽ビジネスに大きく影響を与えたのはもう承知の事実。そこを開けば、どんな時代のどういうジャンルのどこの国の音楽だって聞きかじることが出来る。なんて便利な時代なんだ!最高だね。
でも本当にそうなんだろうか。莫大な量の曲が詰め込まれた、おもちゃ箱とも言えるネット。その中では、ロックやポップやクラッシック、ジャズ、レゲエetc.全てが同じ枠の中に並べ連ねられている。さぁどれを聞こうか?

でも、やっぱりガイドラインが必要なってくる。選択肢が多すぎるからだ。その充足は満足に繋がらず、寧ろ満たされない、無機質感を与えてくる。昔はラジオのDJが曲を伝える一瞬が大事だった。聴き逃したり聴けたり。それは瞬間の事柄。また雑誌などは、ディテールに踏み込んだ考察。知識。その媒体は通常、月一に読者に伝わる。そんなメディアが音楽を伝えることを担ってきた。
でも時代は流れ、乗り物は電車から新幹線へ、電話はアナログから光へ。全てのスピードは速くなり、それは便利を追い求める人間にとっては当たり前の進化だったのかも。情報も遅くては意味を無くして行った。

音楽の情報サイトもネットでは次から次へ新しいものが。その中で最もネットの音楽サイトで勝者というべき、アクセス数が多いのが「音楽ナタリー」だという。最新の音楽関連情報を最速でアップする行為、それがネット上では一番有効だったということだろう。言うなれば、そこには、音楽アーティストの個性や、優秀かハイプかというニュアンスや切り口は存在しない。そのミュージシャンの情報を知りたいというニーズさえあれば、そこにニュースを流す価値があるのだ。つまりは受け手側の特異な趣味趣向やこだわりには一切配慮はしない。ある意味ボーダレスなのだ。一つの枠にアーティストとニュース内容が時系列的に流れていく。情報という無機質感、ただ知りたいことを得られるならそれで十分だとは思う。ある音楽ファンも、ナタリーには情報以外のそれ以上のものは求めていないと言っていた。

そのアーティストのディテールを深く知りたければ、ロッキング・オンを熟読すればいいのだ。そこまで探求する気が無ければ、それ以上深入りしないだろう。おそらく今は後者の人が多いのではないかと思う。でなければ、もっとロックをロックらしく捉えようとする人が増えてくるはずなのだが。
音楽ナタリーの方法論は、Amazonに似ていると僕は思っている。
Amazonがネット販売サイトで一番勝っている一つの理由は、注文してから届くまでの速さである。それを可能にしているのが、保管している棚での商品の並べかただという。通常の分類の仕方であれば、家具は家具でまとめて置くだろう。でもここでは、A、B、C…とアルファベット順に並べているのだ、例えるならアンティークでもあんこ餅でもAだから同じ列に並べるのだ。
これ、ナタリーに似ていますよね。
アイドルだろうがゴリゴリのデスメタルだろうが、自然破壊撲滅を訴える似非宣教師の歌でさえも、同じ枠の時系列の中の一行の情報として落とし込まれ流れていく文として成り立っていくのだ。

このようなネットを使用したビジネスで勝利しているシステムは、およそ海外的な方法論によって成り立っている。ISO(国際標準化機構)9001という品質マネージメントシステムがあり、今の大企業は殆どISO9001の認証を取得している。簡単に言えば、これに認定されている会社は、しっかり品質管理のされた工場から商品を出荷出来ているといえるのだ。このISO9001はヨーロッパから発祥したもので、管理方法はヨーロッパ的な思想から生まれたものだ。実はこの方法論は日本人的な感覚とは少し違っている。それがよくわかる一つの話がある。まず、ここに”牛”と”猫”と”草”を描いた紙があります。この三つをどうグループ分けしますか?という問いに対して、ヨーロッパ人と日本人では区別の違いが出てくるという。ヨーロッパ人は”牛と猫は動物だからこの2つをくっ付けます。”という。でも日本人は”牛は草を食べるからこの組み合わせだ”と考える。管理という面から考えたとき。前者の考え方がシステムとしてうまくいく。これがISO的な考え方だ。日本人が後者のような考え方をするのは、元々僕たちはそこに物語性を作り出す、日本人的な感性、侘び寂びのようなものを含め物事を捉える。それが時にビジネスの中ではネックになることがあるのだ。

何故この話を引き合いに出したかというと、僕が考えるに、ヨーロッパ的な思想の元にしたのが現在のネット音楽サイトだとするなら、日本人的な思想を含んでいるのが、ロッキング・オン(アーティストの深層に踏み込んだもの)だと言えるのではないかと思ったからだ。世間では、今ネットの音楽サイトは商業的に見て成長株だ。逆に詳細な見解や物語性を内在した雑誌は、古株扱いといえるかもしれない。
確かにそうなんだ、僕たちには時間がない。そんな悠長なことを言ってる暇もないから懇切丁寧な文に目を追わせることも億劫になるのだろう。いつの間に社会はこんなにも先を求めて速さを競い、成果主義が闊歩するようになったのだ。

でもネットという最大級のおもちゃ箱が生まれたことによる恩恵もある。音楽を演る側にとっては膨大な音楽ライブラリーは平等に与えてられているのだ。そこからの抽出する音楽エキスの組み合わせも無限だ。
またボーカロイド音声合成技術)によって、音域の範囲なども不可能を可能にした。そこから音楽活動を開始した、じん(自然の敵P)や米津玄師は、正に既存の音楽ジャンルの垣根を全く気にしないアプローチで、日本の音楽シーンに一石を投じている。つまりはネットから選びだす感性によっては、摩訶不思議な音楽を生み出すミュージシャンだって生まれておかしくないのだ。
もちろん僕はミュージシャン達の物語を、これからも深く追い続けたい。ネットの恩恵と代償を受けた音楽シーンがどの様に変わっていくか不安と楽しみがない交ぜになった状態。2015年にそんな思いに駆られている。

杞憂かもしれないけど3.11以降、音楽ビジネスの形も大きく変わった。ポップ・ミュージックは芸術的な側面ももっているが、やっぱりモンキー・ビジネスであり、人間の関係性無くしては、いずれ何もかもが枯渇してしまうだろう。音楽だけは残るだろうが。
僕は憂いているのだ、馬鹿だからかもしれないけど。ロックのあり方、ポップ・シーンの未来とかに不安を感じている。
今僕達は、音楽といつでも繋がれるYouTubeなどを通して。友達にいつでも連絡出来る、LINEを通して。知らない誰かといつでもコミニケーション出来る、SNSを通して。
いつでも…だからこそ遠くに感じてしまうこともある。

昨年、村上春樹の『ノルウェイの森』を初めて読んだ。登場人物に主人公のワタナベ君と、直子、緑という二人の女性が出で来る。簡単にいうと複雑な恋愛を主軸に置いた物語だ。時代背景的に、そこにネットは無い。携帯電話も無い。話の中には、寮の電話にかけてくるというシーンがある。彼女の話を聞くために電車を乗り継いでまで行く。そこには繋がるために必要な圧倒的な距離がある。だからこそ、それを乗り越える意味があるとも言える。今なら、LINEで24時間、嫌でも繋がれる可能性だけは落ちているのだ。
僕たちと音楽の関係もそうなってきてるんじゃなかろうか?ネットを開けば1日中音楽と繋がれる。でもそれが本当に自分にとって必要なのかはわからないわけだ。無い物ねだりだとあなたはいうのか?
”僕は今どこにいるのだ。”ワタナベ君がラストシーンで心の中で呟く言葉。正に僕たちは今この主人公と同じ状況じゃないだろうか?
ネットという音楽の樹海に僕たちはただ立ち竦むしかないようだ。少なくとも、飽きるほどに聴ける音楽は泉のように湧き出ている。それはあなたが望むポップ・ミュージックであるかはいざ知らず。

ネットが与えた恩恵は選択の自由だ。僕たちは沢山ある音楽の中から自分の感性で、選び聞くことが出来る。だからこそ人に合わせるのでは無く、自分で選ぶことが一番大切なのだ。一方でネットが与えた代償は莫大な量の音楽を一つのハコに入れジャンルや有効性の区別などせず、横一列に並べ、平準化し区画整理したこと。その中から自分だけの希望を見つけださないといけないことだ。

どんな音楽とでも、ずっと繋がっていられる、確かに嬉しいことだ。でも音楽だろうが何だろうが、瞬間の巡り合わせっていうのも大事だと僕は考える。人との出会いだってそうだ。出会い系サイトというのがあるが、それについてアホなことを想像したことがある。この人工的な出会いが増えることによって、超自然発生的な出会い少なくなる説を唱えていたのだ。若気の至りだと思うが、それと同じようなことを音楽との出会いにも当てはめて妄想してしまうのだ。
いつでも出会えるなら、ずっと出会わなくてもいい、そんな選択肢だって出来てしまう。
でも、どんな状況になろうと音楽が好きなら、その運命的な出会いを模索し続けるだろう。この人間味のない密林地帯で。そうするしかない。

あなたはこう言うかもしれない。「音楽だけは生き残ると」
それだけが救いなのかもしれない。

COLUMN

BUMP OF CHICKEN
『世界でひとつだけのRAY』~バンプから貴方へ~

ー2014年7月6日ー

すべての始まりには闇がある。その闇か抜け出す為には、道標となる光が必要になり、人によってそれは音楽だったりする。思春期特有の絶望感は、誰でも少しは体験するもので、それが公私共に含まれることであれば尚更どんよりとした大きな雲が心の中を覆っていく。僕はもがき続け、抜け出そうとする中で、バンプの「ランプ」という曲に出会った。音楽が好きであれば、誰でも一つはそういうバンドがいると思う。僕にとってそれは、バンプだった。言うなれば、社会人になる前に出会った最大のバンドだ。

こういう時期は、「夢を追う」ことについて、誰もが一つのターニングポイントを迎えると思う。僕は、バンプと出会ってからずっと夢を追い続けている気がする。その行為は自然と彼らの音楽を聴く行為とリンクしてしまう。否が応でもそうなってしまうのは皆さんも分かって頂けるとは思う。でも、その行為を永く続けていくと、少し怖くなってくる。なぜかとうと、

「魔法の料理~君から君へ~」の

“君の願いはちゃんと叶うよ 怖くても よく見て欲しい これから失くす宝物が くれたものが今 宝物”

という歌詞が、僕の心に深く突き刺さる。夢を叶えるということ、願いを叶えるとうことは、それと同じくらい大きな何かを失うことでもある。それを受け止める覚悟があってこそ、夢を叶えられる。というメッセージになっているからだ。おそらく夢をあきらめたくない人はバンプを聴くと僕は思う。この構造は、いうなれば「正のスパイラル」だと思う。夢から逃げない姿勢がバンプを聴くという行為に向かわせ、バンプを聴くとやっぱり夢を追いたくなる。それが良いのかどうかは別だが、僕はバンプとそんな関係を続けてきた。

彼らと出会ってから、14年が経った今年、通算7枚目のアルバム『RAY』が届いた。(希望などの)光、という意味をもつタイトル。今作は今まで彼らが提示していた光とは一線を画する「光」が提示されている。

表題曲「RAY」の
“大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない”“大丈夫だ この光の始まりには君がいる”

という歌詞から、僕はすぐに「天体観測」の一節を思い出した。

“そうして知った痛みが 未だに僕を支えている” “ 「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている ” 

こう歌った藤原基央、彼自身の中にも痛みの根源があったのだろうし、もちろんそれは僕にもあった。すべての出発点には、その痛みがあった。そう、バンプと出会った僕たちは、この最初の代表曲と共に光を探す旅に出たのだ。それは同時に涙の根源「涙のふるさと」を探す旅でもあった。 

ーーバンプのインディーズ時代のアルバムに『FLAME VEIN』と『THE LIVING DEAD』の2作がある。この作品は、当初バンプの強い部分と弱い部分を表したものであるといわれていた。前者が強い部分、後者が弱い部分を映し出している。後者の作品の歌詞に含まれる物語には、涙の音を探す旅人が登場するが、これは当時の藤原基央が求めていたアーティストとしてのあり方、悩み葛藤する人たちを救う為のロック、その全てを体現する人物像として描かれた偶像だったと思う。それと相反する人物は「Ever Lasting lie」の曲中にいる「夢を掘る人」だろう。夢という見えない何かを掘り続けるバンプの4人と、それに共感した僕らリスナーは、ひとつの大きな渦となっていった。それでも僕らは「それ」を探す旅をやめることは出来なかったのだ。

その後、バンプはメジャーデビューを果たした。それは一つの光を手にする行為だったと思う。でも彼らは彼らのまま、変わらず、染まらず、「イマ」というほうき星を探し続けていた。それは何故か、理由は彼らが歌っているように「ここで手にした“輝かしいどうのこうの”」よりも「それよりも輝かしい あの日」が圧倒的に藤原基央を支えていたからに他ならない。後年、バンプは『COSMONAUT』で、その追憶について歌ってくれている。

メジャーファーストアルバム『jupiter』でバンプという存在を知らしめた彼らはその後、少しの模索時期に入っていたと思う。そう、「オンリーロンリーグローリー」に辿り着くまでに。自分たちだけが掴むことの出来る栄光を目指す旅が新たな始まりになった。大作『ユグドラシル』の中で、マスターピースといえる名曲「ロストマン」は藤原基央の現在地が色濃く反映された曲で、そこで歌われた~失ったもう一人の自分~について、彼の物語で最も重要なことが語られたと僕は感じた。

バンプは突き進みながらも、彼はずっと、もう一人の自分との距離を確認しながら歩み続けていた。
そして、長い叙情詩が最後の1ページを刻んだのが『Orbital period』だった。「メーデー」で歌われるように、彼らはひとつの存在になった。つまりそれは、強い自分と弱い自分が、遂にひとつになることが出来たということなのだ。これは、前作にある「太陽」という曲でお互いの繋がりを拒んだ光と影、つまり2人いた自分が、ようやく結合することが出来たのだと思う。

彼の歌詞をずっと追ってきたひとは、すぐに察しがついたかもしれないが、メジャーデビューシングル
「ダイヤモンド」で歌われた
“弱い部分 強い部分 その実 両方が かけがえのない自分”

という歌詞に繋がっている。この曲はある意味、藤原基央が彼自身の言葉として訴えたかった、所信表明のような歌詞であるが、ここに、そこから始まるストーリーのハイライトが紡ぎだされている。
物語は名曲「涙のふるさと」に戻り、涙の音を探して旅を続けてきた旅人は最後に自分の涙の音に行き着く。そこで彼は過去の自分と向き合い、交わることができた。この瞬間、物語はエンドロールを迎えた。

涙で始まり、涙で終わる物語。その中で最も重要な曲は、このアルバムの実質的なラストの曲「arrows」で繰り広げられる、リュックサックのとりかえっこだ。ここで表されているのは、今の自分と一度は引き裂いたもう一人の自分が、お互いの距離をおきながら、旅を続けて行く中で、背負ってきたもの、それを交換したとき、初めてそれが価値のあるものであることがわかる。そこにバンプの哲学が生きているのだ。

これは、「ここで手にした“輝かしいどうのこうの”」と「それよりも輝かしい あの日」が常に天秤に掛けられ、シーソーゲームを繰り返してきた事柄に最終的なピリオドを打った藤原基央の人生訓だともいえる。

壮大な物語が、エピローグを迎えた後、届いた「宇宙飛行士への手紙」

最初の歌詞にある 、
”踵が2つ 煉瓦の道 雨と晴れの隙間で歌った 匂いもカラーで思い出せる 今 が未来だった頃の事”

最後の、
”踵が4つ 煉瓦の道 明日と昨日の隙間で歌った 全てはかけがえのないもの 言葉でしか知らなかった事”

これは、確かにいたもう一人の自分と、 途方もない距離をとっていた、今の自分が交わり、一人の自分になった事、そういったことについて、現在の藤原基央が自身に向けた、アンサーソングだったのだと思う。

それを含めた『COSMONAUT』過去にあった色々な物事が描かれ、そのすべてが藤原基央の過去を彩るものへの答えになっていた。それを聴いた僕の中にも自分自身の思い出があり、それとリンクしていったとき、どうしようもない気持ちと溢れ出す感情が抑えきれなくなる。そこに僕は、幾億年も続く、宇宙を感じていた。

それから3年の月日が経ち、リアルな僕らの世界にも色々な変化があった。そんな中届けられた『RAY』、バンプのひとつの物語が終わったあと、彼らは何を伝えようとしたのか。それはBUMP OF CHICKENが一つの光そのものに、つまり闇の中の道標、灯台になることを決意した、そんな作品だ。当然これまでも、バンプは僕たちにとっての光のような存在だった。しかし、彼ら自身は、バンプバンプである理由をずっと探していたようだ。そんな結実したテーマがバンプを、ロックバンドとして今までの何倍にも、飛翔させているのだ。本作でもやはり印象的なのは、「ゼロ」だろう。

”迷子の足跡消えた 代わりに祈りの唄を そこで炎になるだろう 続く者の灯火に 七色 の灯火に”

ここまで圧倒的な決意の言葉を僕は聞いたことがないと感じた。迷子だった彼らは、何かを見つけ、迷子じゃなくなった。その彼らが今、迷子だと感じている人たちを救える”七色の灯火”になろうというのだ。それがバンプ藤原基央のゼロ地点、新たな出発点を示している。貴方が望みさえすれば光る。

「ランプ」で
”君が強く望みさえすれば 照らしだそう 温めよう 歩 くタメの勇気にだってなるよ”

と歌われる。そう自分自身に問いかけ、進んできた今、バンプがその予言通り、情熱のランプ、ハートのランプそのものになった。
~情熱は約束を守る~FLAME VEINのCDの帯に書かれたこの言葉を皆さんご存知だろう。バンプはその言葉通り約束を守った。それはもちろん自分のタメでもあったと思う。

生あるものは、いずれ死ぬ。ひげじいは、いなくなり、王様は動かなくなり、ガラスの眼をもつ猫は☆になった。「花の名」の歌詞にあるように、

”生きる力を借りたから 生きている内に返さなきゃ”

これ程ま でに尊く、同時に重い思いを、僕だったらどこまで保つことが出来るだろうか?わからない、としか今は言えない。

大切な人が死んだ時、星になったと喩える。誰かを救うためには、何かを代償にしなくてはうまくいかない、それがこの世界だろう。
だからこそ僕らは自分自身のタメに望んだ方向に進まなくてはいけない。僕だけが見える光の方向へ。バンプはその大切さをいつも気付かせてくれる。

今こそ自らが望んだ ”RAY”に向かって進むしかない。
いつか、貴方自身が誰かにとっての『それ』になり得るまで。

LIVE REPORT

BUMP OF CHICKEN

『TOUR 2017―2018 PATHFINDER』

inさいたまスーパーアリーナ

 2018.2.11

―4人が探検者になった日と私たちがそれを目撃した日―

 2017年から2018年にかけて行われたBUMP OF CHICKENのツアー『FATHFINDER』ファイナルを観た。チャマの発言にもあったが、今回のツアーはメンバー言い出しっぺのツアーだった。アルバムを出したからツアーを行うという、いわゆる定例的なものでなく、彼らが今この時にツアーを行いたいと思ったことが出発点だった。おそらく彼らはこのツアーをする必要があると感じたのだろう。そして、それは必然的でもあったと私は思う。
    いうなれば、このツアーは彼等の歴史を遡る意味もあった。藤原基央がMCで連発していた発言「チャリンコに乗っていた時代から」。そう、藤原がチャリンコに乗って、メンバーが集まって、バンド活動を始めた、その瞬間がすべての始まりだった。

    たまアリ当日。開演前のBGMはトラップミュージック、そして、ケンドリックラマーのラップが選曲されていた。こういった曲たちも今のバンプの音楽に影響を与えていると言える。正に今のアメリカの中心的な音楽、つまりアメリカの王道と言ってもいい。そしてバンプも、もう日本のロックの王道に至ったと言ってもいいのではないかと思う。
    彼等のアルバムを簡単に振り返ると、インディーズ時代の2枚。強い自分を表したと言われている『FLAME VEIN』と弱い自分を表したと言われている『THE LIVING DEAD』。メジャー1stアルバム『Jupiter』は彼らの原点。コンパスの北の印と同じく、どの方向に向かおうがその位置だけは変わらない、くさびのような作品。2ndアルバム『ユグドラシル』はその時の彼等の現在地を示すもので、“旅人”が失われた思い出と、もう一人の自分を探す旅を予兆する作品だった。3rdアルバム『orbital period』は“旅人”が失われた思い出への帰還と、もう一人の自分との再会を描いた作品であった。4thアルバム『COSMONAUT』は彼等のアルバムの中で最も特異な作品で、藤原基央自身の追憶と共に『ユグドラシル』や『orbital period』の物語が始まる前を語ったエピソード1的な側面を持ち、それを現在地と繋げる意味を持つ作品だったと思う。5thアルバム『RAY』は藤原基央が一つの結論に至った作品。バンプの音楽が誰かのための灯台になると宣言したアルバムだった。そして、6thアルバム『Butterflies』は、その誰かのために光になったバンプ自体が藤原基央たちの元を巣立った瞬間を描いた。その時パンプというバンドは名実ともにみんなのバンプになった。そして長年描かれてきた“旅人”の存在もこの時消えたのだと思う。おそらくこの瞬間、バンプという存在を作り上げてきた、fuji×CHAMA×HIRO×HIDEの4人がその世界の新たな探検者となったのだろう。

     このツアーファイナルと『Butterflies』の時との違いが一つ感じられた。前者は、もちろんレコ発ツアーだったという側面もあるが、「虹を待つ人」「ray」「Butterfly」をハイライトに持ってくる事で、歌詞と旋律の持つエモーショナルな側面、体にモーションを駆けてくる電子音と祭典を彩るレイザービームが、幸福感を与える空間を作り上げていたと言える。
    おそらくこれらは、光を待つ人のためにバンプが光になり、巣立っていった瞬間を演出したものだったと思う。つまり、そこには闇が確実に存在していて、だからこそバンプという光が見え、それを私たちは希望だと感じることが出来た。結果、感情を動かされっぱなしにされるのだ。
    後者では、エモーショナルな側面が少し影を潜めていた。彼等が作り上げた演出は、それよか力強いものにすら感じられ、選曲もその特長が出ていた。ラスト前の2曲が顕著に表していたと思う。藤原基央が発言していたように「今までは自分自身の曲を書いてきた、自分のために曲を作ってきた。他の人のための曲なんて作る必要はなかった。でもバンプにも誰かのための曲が出来た、みんなに歌ってもらうための曲ができた。一緒に歌ってほしい」という風な力強いMCと共に「虹を待つ人」が演奏され、サビでのコール・アンド・レスポンスが生まれた。続く「fire sign」でもバンプ4人の演奏とオーディエンスの合唱が続き、その対話は長丁場になった。紛れもなくそれは、この会場で4人と私たちがバンプの曲を作り上げていった瞬間であったことは確かだろう。
    本編ラストは「リボン」。“嵐の中をここまで来たんだ”という歌詞が歌われる。だからこそ、ここまで来れたのかもしれない、とふと頭をよぎる。
    アンコール途中のチャマの発言が興味深いものだった。彼はこのツアー前、もの凄く調子が悪かったらしく、そんなときもメンバーやスタッフの励ましで何とか前に進めたという。たぶん、今回のツアーの意味は、ありふれた言葉になってしまうが4人の絆を再確認するためのものだったと私は思う。えっ。いまさら?ってなると思うが。だって「リボン」もそんな曲だった。この曲が出来たことがバンプの新章の始まりで、その続きがこのツアーにあったのだろう。
    冒頭にも、パンプはもう王道のロックバンドになったと言った。しかし、彼等はずっと王道でない自分たちと向き合ってきたバンドだったと思う。でも藤原基央が作り出す美しい曲たちによって、自ずとバンプという存在は巨大化していき、王道というのに相応しいバンドに至った。いうなれば、今回のツアーは、その巨大化したバンプという存在自体に4人が向き合い、対峙していくためのツアーだったのではないだろうか。この日がツアー最終日で、バンプ結成22周年目のまさにその日だったということもあるかもしれないが。メンバーが抱き合ったり、スキンシップしたり、お互いを確かめ合う仕草がいつもより多かった気がする。
    音自体は、エモーショナルより力強く。その反面、メンバーMCでの本音っぽい吐露は、いつもより多めだった気がする。チャマの最後らへんの発言で他にも興味深いものがあった。このツアー前にもうほんとライブやりたくない!って時があったという。でもツアーが始まるとやっぱり音楽の素晴らしさや奥深さにまた気付かされたとのこと。そして、こうやってライブのステージに立てていることや、リスナーがバンプの音楽を聴いてくれることや、ツアーにこうやって足を運んでくれること。そのすべてが“あたりまえ”には思えなくて。という感傷的な発言をしていた。

    そうなのだ。すべて、普通でない事が奇跡的に繋がり、続いてきたのがバンプの物語なのである。そしてそれが続いていることの幸福感を携え、私たちはツアーに足を運ぶのだ。
   4人はこのツアーでお互いの気持ちを確認し合えた。そして私たちはそれを目撃できた。それが最大級の収穫であり、その記念撮影の行われた日付の一つが2018年2月11日だった。
 チャマが語った弱音のような思いは、巨大化したバンプの物語を続けるという、とてつもなく大きなプレッシャーを跳ねのけようとしていたメンバー4人共通の想いだったのかもしれない。
    藤原基央自身も、バンプが次に進む事が出来るかを、このツアーで確かめていたのかもしれない。インフルにかかってしまったのも、そのプレッシャーが原因だったとか。杞憂だが。最後に彼は「バンド続けていてよかった」というアンサーを口にした。その答えが全てだった。バンプの物語はまだまだ続く。そう思わせてくれる瞬間だったのだ。
    最後に藤原基央がギター1本で聞かせてくれたワンコーラスだけの新曲。「手」や繋がりを彷彿させる歌詞。そこには音楽を続ける理由のようなものが滲みでていたように感じた。彼の息づかいにはエモーショナルな響きが消えないまま残っていたように思う。

DISC REVIEW

米津玄師『BOOTLEG

―オッケ〜 J-POP!―

 「こんな日々すら万が一夢幻ならどうしようか。まあそんならそれで大歓迎、こんにちは元の鞘」―――そんな風に毎日考えてみる。そもそもこんな日常で満足していいの?いや、お前は恵まれているからそんなことが言えるんだよ。そうやって二人の自分が言い争っていく。“爱丽丝”において、米津玄師の思いと共に、日本の都市の現状に対しての皮肉が伝えられる中、つぶやいてみる。「こんな日々すら万が一夢幻ならどうしようか。まあそんならそれで大歓迎、こんにちは元の鞘」―――そして、今もそんな状況に疑問を持ちながらも、のうのうと生きている自分自身に向き合いながら、このアルバムを聴く。そして、こんな風に吐き捨てるのだ。「いや、いま世界が終わっても構わないから」―――そう、米津玄師の通算4枚目のオリジナル・アルバムに当たる本作『BOOTLEG』は、一度終わってしまった日本でまともに生きる術と失われた本当の愛を見つけ出す方法を、どこまでも追い求めようとするアルバムだ。そして、それはどこまでも絶望的で、同時に、どこまでも希望に満ち溢れている。10年代末期に後世まで深く刻まれるだろう、海賊版という名の傑作の誕生である。

   『BOOTLEG』を日本語にするなら当然、海賊版ということになるだろうか。よく言われるブートレグはアーティストが公式に発売するそれもある。ただ、殆どは一般人がアーティストの曲を集めて売ったものや、ライブ音源を非公式に入手してそれを売りさばくという所謂本当の海賊版になろう。ならば本作を米津がBOOTLEGと名付けた真意とはどこにあるのか。そこは、この作品を聴いていけばおのずと理解出来ていくのだが。まず面白いと思ったのは、このアルバムをアップル・ミュージックに取り込んだ時に分かる仕掛けだろう。通常、アルバムを取り込んだ場合、ライブラリに同アーティストの既発作品があれば、同じカテゴリーに含まれるのが通常である。しかしこの『BOOTLEG』を入れたあと当然のごとく米津玄師の項目を見に行くと、以前の作品は表示されているのに、本作だけは無い。おかしいなと思い、最近追加したものを見ると確かにある。よくみるとBOOTLEGの下には“V.A.”と表記されていた。Various Artists(様々なアーティスト)という意味だが、つまりこの作品には色々なアーティストが参加していて、その中の一人が米津玄師ですよということになっていた。しかし、確かにコラボ曲はあるにしても、彼自身のオリジナルな作品であることには変わりない。にもかかわらずV.A.としたことからも、この『BOOTLEG』というタイトルに並々ならぬ思いが込められていると思わざるを得ない作品だ。
    前作『Bremen』は米津にとっての新たな旅立ちを意味する作品だった。ボーカロイドを用いた楽曲クリエイター「ハチ」として活動をスタートした彼が再び自身の声で歌うと決意したとき米津玄師というアーティストが生まれた。そして本当の愛を探すために旅立つのだが、それは同時に「ハチ」の死を意味していた。2012年5月1stアルバム『diorama』は米津が全曲のボーカル、ソングライティング、サウンドメイキング、トラックダウン、アートワークを手掛けた作品で、そこにはロックと童謡が同居するような音楽があった。作品タイトルとリンクする様に、宅録におよそ近しい形で作られた米津のジオラマのような音世界は、小さな規模でありながら、とてつもなく大きな愛を叫ぶ渇望が存在していた。言うなれば、それは「若者」らしい全盲的な愛を求めた出発点だった。2014年4月、2ndアルバム『YANKEE』はメジャーレーベルのユニバーサルシグマからリリースされた。ここから、外部のミュージシャンが演奏やアレンジに参加し、音楽として生のテクスチャが加わり始める。結果として、米津の作る音の「異常なポップネス」と世の中への「穿った視点」を持つ歌詞が強調されることとなった。この都市の中で本当の愛を探し求めるような粗々しくも美しい表現は、いい意味で米津の「バカ者」さ加減を象徴するものであった。2015年10月にリリースされた3rdアルバム『Bremen』は先述の通り、タイトルとも重なるように「愛のある場所」を探すための「旅立ち」を象徴する作品となった。米津がライブで発言していたように「間違った音楽」を作っていた頃の彼は、音楽シーンでの部外者だったのかもしれない。そして今度は、自身がいるオルタナティブ・ロックという安住の地から離れ、「よそ者」になる決意をした瞬間だったと言える。
   前作『Bremen』のオープニング・ナンバー"アンビリーバーズ“と同様、ダンサブルな楽曲"飛燕"で開ける、全14曲。全編を通して過去の優秀なJ-POPの引用と編集により形作られたサウンドとなっている。つまり、今作で米津が意を決して飛び込んだ世界は、J-POPという荒地の、ど真ん中と言えるだろう。奇しくもJ-POP誕生から30年を迎えようとする節目に、彼はその荒廃した高層ビルや朽ち果てた宮殿然となった現在の日本の音楽シーンに足を踏みいれようとしているのだ。この時点でいわゆる"オルタナティブ・ロック"というシェルターは売り払って、今ここに立っているのであろう。
 言うなれば本作は、元ネト民の米津がJ-POPという日本の音楽シーンのレガシーをインターネットという大層高級なフィルターを通し、そこから流れてきたものを再構築したというプロダクションになっている。だいぶ前から言われている日本の産業の空洞化と日本の音楽のガラパゴス化を横目で追いながらも、世界のポップ・ミュージックの歴史から切り離されつつあるJ-POPとJ- ROCKの、ど真ん中に敢えて飛び込んだ。その結果、米津には新たなシュノーケリングの旅が待っていたのだ。彼が選んだ深海だからこそ生まれた多様なコラボレーションもあった。M4“砂の惑星”での敢えて(+初音ミク)との表記を入れたコラボからは、米津玄師の立ち位置が明確に分かる。M9“fogbound”ではファッション・モデルの池田エライザがコーラスで参加。そしてM14“灰色と青”では若手俳優菅田将暉との共演を果たしている。オルタナティブ・ロックのアーティストとして、J-POPの中では自身が「よそ者」であることを認識しているからこそ、マジョリティを代表するDTMキャラクター、モデル、俳優と共演することが米津にとってのニヒリズムを象徴しているのだ。
 そして、今作全体を貫いているテーマを解く鍵は、M7“Moonlight”にある。R&Bで、特にダークでシリアスな展開を持つこの曲は、日本のアーティストで表すなら、UA的な印象の強い曲と言える。反復される歌詞「本物なんて一つもない でも心地いい」は彼の既発曲“再上映”にも共通している。ボカロ・アーティストだったころの自分をニセモノとい言い切った上で、本物を求めた彼が立った本当の世界。現時点ではそれがJ-POPの世界ということになるが、そこでも同じように本物は無かった。つまりすべては何らかの真似だったのだ。それはもちろん自分自身も何らかの真似であることを再認識することでもあった。しかし、その状況ですら、彼は心地いいと歌う。なぜなら自分自身が常にアウトサイダーであったから、その状態も問題ないという逆説的な批評性が込められていると感じた。ブックレット内にある本曲の歌詞の横に、後ろ姿の人物がバックから光を当てられて、その影が幕に映されている挿絵がある。“Moonlight”とリンクするその絵は、月の光に照らされた影の様に、自分たちの音楽は、何がしかの模倣でしかない。だからこそ最後の「鳴り止まないカーテンコール そこにあなたはいない/鳴り止まないカーテンコール そこにわたしはいない」という部分には、ネット上の自身を称賛するリスナーの声もニセモノであるなら、そこに立っている米津玄師も本当はニセモノなんだよというメッセージでもあるのだろう。
 これまでの米津玄師には「本当の愛は何処にあるのだ!」という思いが溢れ出していた。辺り構わず手当たり次第に求める愛への渇望。完全に愛が失われて、売り物になってしまった現在の都市社会に対しての怒り。そして、「ぼくも同じだ」というすべてのブルーにこんがらがった同胞者たちへの共感性が存在していた。しかし、それは前作で一つの区切りを示した。「本当の愛」が無いと嘆いていた米津自身が遂に「ならば、本当の愛のある場所を探してやろうじゃないか!」と重い腰を上げた瞬間だった。本物の愛が失われた世界で本当の愛を見つけるためにはどうすればいいのか。方法は一つしかない。ニセモノの愛で溢れた世界の、ど真ん中に飛び込むことだ。言うなれば、“虎穴に入らずんば虎子を得ず”に近しいだろう。結果的にそれは、オルタナティブ・ロック・アーティストの米津玄師がJ-POPという世界に入り込んだ瞬間でもあった。
 では、ざっと全体を見ておこう。M1“飛燕”はエレクトロニカでダンサブルな楽曲だが、前作の始まりがオーガニックで原始的なテクノ・サウンドを感じさせるものだったのに対して、今回はアーバンな匂いのするもので、TM NETWORKの電子サウンドを彷彿させる。M2“LOSER”は米津玄師の踊るPVが印象的なダンス・チューン。R&Bなビート感で、デビュー当時の宇多田ヒカルをイメージしてしまう。M3“ピースサイン”は日本のオルタナティブ・ロックの父ともいうべきアジカン的な楽曲。日本の00年代を象徴するギターロックと言える。M4“砂の惑星”は初音ミクとのコラボで米津の得意分野ともいうべき楽曲。よりコミカルさを増したサウンドメイキングとヒップホップ的な曲展開はJ-POP内でヒップホップを浸透させたともいうべきRIP SLYMEな色彩を見ることができる。M5“orion”はJ Soul Brothersに匹敵するように、米津の歌の艶やかさが光る楽曲。M6”かいじゅうのマーチ“は王道のポップソング。その王道感は米米CLUBを思い起こさせる。歌唱や旋律からはミスチルの桜井や DEENなど90年代の優秀なポップ・ロックの特徴が見られるが、やはり「レディオヘッド以降」の日本のロックといえるサウンドに仕上がっている。M7”Moonlight“を挟み、正に春真っ盛りで花吹雪が見えるようなポップな楽曲M8”春雷“、00年代の日本のヒップホップシーンで限りなくJ-POPらしいケツメイシのように、メロディアスな嵐が吹く曲。M9”fogbound“は、ダブ・ステップが移りゆく海の風景を写し出すような表現を見せる。その景色はフィッシュマンズの死と隣り合わせなシリアスさに近いだろうか。そこに純音楽界出身でない池田エライザのコーラスをフィーチャーリングしたことで、コンテンポラリーな仕上りになっている。M10"ナンバーナイン" 10年代のEDMを象徴するような楽曲から見えるのは弾けるような海辺の景色。J-POP界でいうなら、00年代の歌姫、浜崎あゆみを想像せずにはいられない展開を持つ曲。後々、本曲で歌われる歌詞は、"Moonlight"と“爱丽丝”の歌詞にリンクしていることに気がついていく…
そして、ここからラストまで怒涛の曲展開が見られる。M11"爱丽丝"はJ- ROCK界、オルタナの申し子と言うべき、RADWIMPS並にバウンズ感が疾走する楽曲だが、マーガレット廣井のベースの毒々しさが歌詞のテーマにはマッチしている。M12“Nighthawks”はバンプ以降の日本のロックの文学性を経た上で、4つ打ちビートに展開した楽曲。タイトルはジャケットのデザインや、“LOSER”のPVの被り物からして、今の米津自身を表すことのようだ。続くM13"打上花火"は若手女性シンガーDAOKOに提供した楽曲のセルフカバー。ニュー・ミュージックというより松任谷由実の様な、日本的な色彩が感じられるメロディに現代的なビートが乗った楽曲。最後を飾るM14"灰色と青"は若手俳優菅田将暉とのコラボ曲。日本の80年代の懐かしの風景が広がるフォークソングの旋律から、サビで一気に強く昇天した瞬間は、情熱と繊細さを兼ねそろえていた90年代のB’z稲葉浩志並みに力強いものに感じられた。過去から現在へタイムスリップさせてくれる楽曲となっている。
 “Moonlight”で「本物なんて一つもない でも心地いい」と歌われる。今のポップ・ミュージックは、過去の音楽を真似ることから逃げる事は出来ない。オリジナルな音楽を作ることを目指したであろう、米津玄師はそこに戸惑っていたのかもしれない。それは音楽に限ったことではなく。今、つくられているすべてのモノは過去の何かを真似ている。だから、僕達は過去の遺産を引き継いで何かを作りだしているだけなのか、と時々空虚な気持ちにもなるのだ。米津もそんな思いをもっていたのかもしれない。でも、この歌詞ですべては吹っ切れたかのようだ。
    この『BOOTLEG』の清々しさが全てを物語っている。そして彼の立っている地点を証明しているのだ。そんな米津自身がとても高い地点に辿り着いたことを証明するかのように“爱丽丝”の「こんな日々すら万が一 夢幻ならどうしようか/まあそんならそれで大歓迎 こんにちは元の鞘」という歌詞が存在している。ボカロ民から遂に「青い顔のスーパースター」になった。そのことは彼も認識している。しかし、この事実が夢幻だったとしても、彼は元の鞘、例えばボカロ民に戻ったって構わないと言いたいのかもしれない。それは、今の日本に通ずることでもある。3.11ですべての幻想が崩れ去った日本。僕達は本当に元の鞘に収まることへの覚悟が出来ているのだろうか。そして、この事実は“ナンバーナイン”の「何千と言葉選んだ末に 何万と立った墓標の上に/僕らは歩んでいくんだきっと 笑わないでね」の歌詞に連なっていく。僕達が選んだ言葉も、選んだ行動も、選んだモノもすべて昔誰かが使用済のアクションなのかもしない。でも、その選んだ先人はもう天に召され、墓標の下に眠っている。だから僕達は、その上を進んでいくしかない。猿真似と言われようが、ニセモノと罵られようが、オリジナルをつくりだすために。同様に戦後の日本は高度成長し、今の平和に辿り着いた。すべての恩恵を受けて、僕達はこの場所に立っている。だから、その先を描くしかないのだ。この「ナンバーナイン」が昔の米津玄師を表す「ハチ」の次の番号だと言いたくなるのはいけないことかい?
 もう一度つぶやいてみる。「こんな日々すら万が一夢幻ならどうしようか。まあそんならそれで大歓迎、こんにちは元の鞘」3.11以前の僕らの世界はニセモノだったか?いや少なくとも本物だろう。あれから、戻ることもできず、進むことも満足にできない僕達の世界。
「爱丽丝」の、もうこの世界は終わっているんだから、明日のことは考えずに踊ろうぜという“絶望”からの開き直りは、僕達に安心感を与え、じゃー失敗してもいいよね?という逆説的な“希望”に繋がってもいく。反対に「ナンバーナイン」の過去の栄光が失われた町で、それでも、この広大な土壌の下に埋まっている芳醇な英知を借りて、パクリながらも、僕達は生きていけるんだよね。というある種の“希望”は、この壊れた世界でやはり生き延びなくてはいけないという“絶望”でもあるのだ。
 いずれにせよ、世界はつづく。僕達は進まなくてはならないのだろう。なにぶん愛が足りない。だから、米津玄師はそれを探す旅に出た。『diorama』は“若者”らしい貪欲なまでに愛を求める叫びだった。『YANKEE』は“ばか者”に見えるほどの、愛が失われた都市への怒りだった。『Bremen』は“よそ者”になっても構わないという覚悟の上に、愛を探す未知なる世界への旅立ちだった。そして、『BOOTLEG』では、米津玄師が過去の遺産で溢れかえる荒廃した未来都市で、偽物という名の本当のアイを見つけたところまで描かれ、一先ず物語は終わる。

    もう一度つぶやいてみる。「こんな日々すら万が一夢幻ならどうしようか。まあそんならそれで大歓迎、こんにちは元の鞘」「毎日休まずに会社に行くのが正しい、毎日休まず学校に行くのが正しい、LINEで四六時中トモダチとトークするのが正しい、LGBTの人を全然理解できるのが正しい、農業に精を出す若者は正しい、地方都市を復活させることが正しい、もう一度高度成長期のような日本に戻すことが正しい、働き方改革は正しい、差別はしないのが正しい、日本の産業を復活させることが正しい」いや。正しくない。絶対的に正しい訳じゃない。僕達はこんな偽りの正しさの中で生きていたくはない。僕達は絶望的な世界を尻目に、虚無の現実の真只中を、こんがらがった気持ちをSNSに吐きだす術しかないまま、無表情に生きるしかないのか。「こわくはないの?」と聞かれれば「こわいって何?と答えるだろう」だって、我々の傍には「一つの嘘と一つの本当」を見破った米津玄師がいる。偽りの本当を信じていた方々にはいずれ時が来れば、こう言ってやればいい。「あんたが本物だと思っている俺はニセモノだよ」とね。