DISC REVIEW

RADWIMPS『人間開花』

 ―10年前から咲いていた花。―

 ドモホルンリンクルのCMで「女性は花に例えられるけど、その美しさは花とは違い、すぐに散ったりはしない。いくつになっても、何度でも、自分の意思で、自分を輝かせることが出来る。」というナレーションがある。
 確かに女性の肌という点では、そうなのかもしれない。美魔女という言葉もあるくらいだから。しかし、それは過去にあった最高の瞬間に対しての抗いでしかないとも言える。絶対的に戻れない瞬間に対して、少しでも抵抗して、改善して、最大瞬間風速を取り戻そうとするのだ。それが希望的観測だとしても。
    すべての人間は開花する。誰でもそんな瞬間が訪れると思う。ただそれは、その人の才能や力量とは全く関係なく、意図していない場面で突然訪れる。勿論それを拒否することはできない。しかもそれが最高到達点であると思えるかどうかは、人それぞれなのである。
 今作の『人間開花』でRADWIMPSが提示したかったことは何なのか。音像的には変わらず、いつものラッドの音楽が鳴っている。ダンス・ロック的「Lights go out」で始まり、ダブ・ステップな「AADAAKOODAA」、ミクスチャー・ロックの「‘I’ Novel」、ビック・ビートの「アメノヒニキク」等、2016年の時代性に即しながらも、お馴染みのラッドのオルタナティブ・ロックがこの作品を形作っている。
 前作『×と〇と罪と』から大きな音楽的変化や冒険があるわけではない。ただ、この2作には共通点と、大きく異なる点がある。まず、共通点は“花”である。今作は『人間開花』というタイトルに花が含まれている。そして前作は、その当時私が感じたのだが、ジャケットの絵は悲哀を帯びつつも美しい花の開花だと思える。     逆に大きく異なる点は、その花の意味合いである。前作は、ラッドが全身全霊を込めて現状肯定の花を咲かせようとした作品であるからこそ「五月の蝿」や「会心の一撃」の様な過激な歌詞の楽曲を含め、正にロックらしいアプローチとなっていたと思う。それに比べて今作は、言うなれば、咲いている花を冷静な目で静観しているような、俯瞰的な視点でフォローしているような作品となっている。ともすれば、『RADWIMPS 4~おかずのごはん~』以前の彼らのようなフラットなラッドとも言えるかもしれない。特に、「Bring me the morning」からの「O&O」、「告白」では、ニュートラルな野田洋次郎の歌が聞こえてくるのだ。
 本作で開花している花は、いつどこで咲いたものだろう?と考えたとき、もうずっと昔からそこで咲いていたのだと思う。そのことに野田洋次郎は気が付いた。でもそれと同時に、その花はもう見ることは出来ないし、まだ咲いているかも、枯れているのかも分からない。何故ならそれは、過去の時間軸に咲いていたものだからだ。この作品は、あの時咲いていた花をもう一度具現化させ、私たちに見せるためのものである。その意味が『人間開花』に込められているのだと思う。
 アインシュタインの脳を保存出来たとしても、アインシュタインを二度と生み出せないのは、その人と完全に同じ人生を歩むことが出来ないからだと聞いたことがある。それと同じように、本当に素晴らしいことは体験できたとしても、保存することは出来ないのだ。
 でも、人はその素晴らしき開花の瞬間を記憶の中で保存している。だから人間は、それを反芻し、再び開花しようと努力することが出来るのだ。