DISC REVIEW

GRAPEVINE『ROADSIDE PROPHET』

グレイプバインという名の進化論―

    不確かな記憶だが、田中和将はフランス映画とか渋谷系が苦手だったそうな...。私はそれに対してツッコミたい。グレイプバインほどフランスっぽい日本のバンドはいやへんし、渋谷系以上に渋谷系やわ!と。
 カッコよさだけをとるなら彼らの右に出るものはいないと思う。そこは20年経っても変わらない。また、バインほど海外のバンドたちに近づこうとした日本のロックアーティストはいないだろうし、ここまで近づけたバンドもいない。
 デビューから20年たった今。海外のロックのクオリティーやスキルに追いつこうとしていた彼らが結果的に辿り着いた場所は、幸か不幸か、最も日本国的な地点だったのではないか。
 最も海外的であるという一つの例で、私は映画監督の伊丹十三を引き合いに出したい。伊丹十三監督作品の「お葬式」を観ればわかるのだが、完全に日本的な葬式が描かれているにも関わらず、随所に見られるのが海外映画的なカットなのである。最も日本的な風景を描き切った中で、やっぱり制作者自身の嗜好が明らかになる、そういった一例になるのではないか。
 このグレイプバイン 20周年に生み落とされた『ROADSIDE PROPHET』は、彼らが洋楽的であることを追求していった結果、遂に隠しきれなくなった日本人としてのアイデンティティーが明らかになったもの。そして、遂にそれに向き合おうとしていく、田中和将のパーソナルな視点が新たに更新された作品である。

   日本芸術“能”などにある型の進化に、“守破離”という過程がある。守は古典的な型を守りそれを表現していくこと。破はその古典的な型を破り、新たなものを作りだそうとする行為。そして離は古典から自身のオリジナリティーなものを生み出した後、型から徐々に離れ、そこから自由自在になっていくこと。
 また、ニーチェの哲学にもこれと同じようなものがあり、人間の進化の過程を表現したもので、駱駝・獅子・子供の3つである。最初、人は先人の知恵や方法論を駱駝の様に背中に背負って進む。あるとき今まで踏襲してきた方法論の殻を壊す獅子の如く、新たな価値観を作りだそうとする。そして最終的にそのすべてを悟り子供のような心に戻った時、全く新しいものを創造できるというのだ。

   この二つの進化は、芸術作品の変化にも同じように見受けられることがある。無論、バインも然りである。彼らのデビュー・ミニアルバム1997年の『覚醒』から、ファースト・アルバム『退屈の花』、特にプロデューサー根岸孝旨を迎えたセカンド・アルバム『Lifetime』から同氏が参加した最後の作品『another sky』迄が、能でいう“守”、ニーチェの哲学でいう“駱駝”だ。名プロデューサーの元で、洋楽の古典的なロック、ポップを踏襲しつつも、GRAPEVINEというバンドの色を確立していった時期だったと思う。
 彼らが俗に言う“根岸塾”を卒業した後、セルフ・プロデュース作6枚目のアルバム『イデアの水槽』と、翌年のミニアルバム『Everymen, everywhere』が分岐点となり、続く7枚目の『déraciné』以降が、能での“破”、ニーチェの哲学でいう“獅子”に当たるだろう。7枚目で数曲プロデュースを手掛けた長田進を、8枚目『From a smalltown』以降、アルバムのトータル・プロデューサーに迎えた。そこから9枚目『Sing』と10枚目『TWANGS』が、バイン史上最も洋楽的な部分に向き合った時期だと言えるだろうし、冒険していた時期でもある。歌詞の部分では田中が英語で歌う部分が顕著にみられたり、音楽的には、いわゆる音響系を取り入れたり。同時期の洋楽にビビットに反応した結果、バインとしてのサイケデリック感が徐々に確立されていった時期だったと思う。この時生じたバンドの変革によって、バインは新たな破壊性を手に入れたのではないか。
 11枚目のアルバム『真昼のストレンジランド』を最後に長田進の元を離れた彼らは、ミニアルバム『MISOGI EP』、そして12枚目、久々のセルフ・プロデュース作『愚かな者の語ること』を経て、2014年にデビュー以降在籍していたレーベルを移籍した。
 移籍後初のアルバム、通算13枚目の『Burning tree』は過去最高に内省的な作品だったの思う。そして、14枚目の『BABEL,BABEL』でロックと日本語歌詞のマッチングの問題に対して、新たなバイン言語を作りだした彼らは、15枚目になる『ROADSIDE PROPHET』に辿りつくのだ。この作品が、能でいう“離”、ニーチェの哲学でいう“子供”への、いうなれば狼煙になっている予感が沸々と湧いてきている。

                                           §

    本作のポイントとなる部分は3つある。
まず一つ目は過去の作品があったからこそ故、そこからの延長線上の進化が発見できる曲があること。例えば、前作での楽曲「Golden down」にて日本で熱を帯びていた4つ打ちビートを取り入れたが、それを経たことで今回の「Shame」が生まれたと思う。エレクトロニカを背景に、そこにファンクなベースとアフリカ系のパーカッションを取り入れたソウルフルな楽曲に仕上がっている。
 また『Sing』や『TWANGS』にて、エレクトリック・ギター以上にアコースティック・ギターと田中自身の歌を追求した結果、その進化系として、シンフォニックな装飾でウェストコースト・ロックをベースにした「これは水です」が生まれたと思う。
   二つ目は、日本のロックバンドでブルースを奏でる意味という、抗えない血との向き合い方について、新たに生まれた答えだろう。
 あの「ナポリを見て死ね」の歌詞“えせブルースにしてうたう”という歌詞に込められたものはバイン史上一番心に残る皮肉だと私は思っていた。それについて17年たった今の、ありがちな言葉を使うならアンサーソングと言えるだろう、それを歌ったのが「楽園で遅い朝食」だと言える。この曲ではサイケデリックでブルースな楽曲を真正面から奏で、それに恥じない直球の歌詞が乗った、田中のパッションが垣間見えるものとなっている。
 三つ目は、田中の私的な内面を捉えた曲の新たな更新についてだ。バインの楽曲でも、なかなか田中の本心や心境の吐露と言えるものに踏み込んだ曲は少ないと思う。彼自身がそういった面では恥ずかしがり屋なのかもしれない。その中でも、既発曲で自分自身に踏み込んだと言われているのが「少年」である。あるインタビューで田中自身がこれはすごく僕だと言っていたこともあるし、田中の少年時代の思いを徐々に歌詞にし、歌い始めたのがこの頃からだと思う。その次の更新が「smalltown, superhero」、自身の思いが周りの風景と交差して描かれた歌詞になっていた。今作で、それをまた更新したのが「Chain」だろう。自分自身の思い含めた、そういった感情を“エコー”と表現し、身近な人たちへの思いと伝わってほしかった感情が少しずつだが明らかになってきた。そういった歌詞をオーソドックスなフォーク・ロック・スタイルで歌いきっている。

   “土から離れては生きられない”『天空の城ラピュタ』の名場面のセリフだが、それと同じように、どれだけ母国から離れても、血の流れを断つことは出来ないのではないかと思う。本物に近づけば近づくほど偽物になる。そんな地点が存在し得るのではないか。逆に言えば、洋楽のバンドに近づけている段階では、まだまだ遠い場所にいるのだと思う。
 私たちは母国である日本の本当の良さを理解することは難しいだろう。だから、ドナルド・キーンの方が日本の良さを理解出来ていたりする。日本から少し離れてみると日本の良さを再認識出来たりすることもある。
 ずいぶん日本から遠いところに来たものだ。グレイプバインもずいぶん海外バンドに近いところにきたものだ。彼らは遂にゼロ地点に辿り着こうとしているのではないか。海外バンドに近づこうとして、実際に近づけたものしか見ることのできない風景を見ている。探していた洋楽バンドに肩を並べたとき、グレイプバインから滲み出しつつある日本的な色彩、それこそが本当のロックバンドの証なのかもしれない。あれから物凄く遠い処までやってきて、ようやく気づいたのかもしれない。本当に必要なものは近くにあったことを…

 ―――ずいぶん前になるが、道端の預言者に“I Heard It Through The Grapevine”という言葉を言い渡されたことがある気がする。人は誰でも訳の分からない噂に苦しめられるようだ。でも、今更だがこの歌詞を見て理解した。
 “君や家族を/傍にいる彼等を/あの夏を そういう街を/愛せる事に今更気付いて”
《here》
 結局真実はいつもここにあるのだろう。