DISC REVIEW

CRUNCH『てんきあめ』

―take care.ー

    “はやりやまいはやはりやばい”
    とある駅舎で、綿矢りさの『蹴りたい背中』がすごいと友達が勧めてきた。この冒頭の一文が韻を踏んでいるところ。まずそこが凄いと熱弁してきた。当時は00年代初頭、海外ではロックにヒップホップが取り入れられたり、日本でもお茶の間にヒップホップ・アーティストが進出してきたり、韻を踏むという行為が巷でも流行り出したころだった。
 当時その一文の何がすごいのか分からなかったのと、はやりものには手を出さない意固地さがあった私は「ふーん、そうなんや。」程度の受け答えをしていた。それから約10年後に著者が同世代だと知り、彼女の作品を読んで良さを認識することになるとは、当時の私には知る由も無かった。
 ―――2014年にCRUNCHのファースト・ミニ・アルバム『ふとした日常のこと』について書いた時、このバンドはもうガールズ・バンドではないと言った。そのとき確かにそう思ったのだが、ガールもボーイもないという世相が影響していなかったと言えばウソになるだろう。そのあとBUMP OF CHICKENの『Butterflies』について書いた時は、変化球的な視点でLGBTを引き合いに出した。その時も世論が軒並みLGBTについて明言し始めたころ。はやりに乗ってしまったのだ。昔話になるが私のリアルな体験として、男女平等宣言の最たるものは小学校時代に起こったこと。時期は曖昧だが、ある時から男女で出席番号が混合になり、体操服は男子が青で女子が赤だったものが、共通で水色になった。当時は気にもしなかったし意識もしてなかったが、それくらいから男女平等という波が学校生活にも浸透し始めていた、90年代中期の話である。
 CRUNCHの話に戻り、2014年から約3年後の今年、ファースト・アルバム『てんきあめ』が生まれた。『ふとした日常のこと』をオルタナティブ・ロックと形容するが適しているのであれば、今作はポスト・パンク、ドリーム・ポップと表すのが良いかもしれない。高音のボーカルとシンセサイザーがその傾向を強めている。そこにドラム・パッドも取り入れられた結果、レディオ・ヘッドの『KID A』時代へのオマージュも感じられる。
 しかしもっと重要なのは、そういった音楽的な変化もさることながら、スリー・ピースというバンド形態が織り成すアンサンブルから、より音数が少ないプロダクトにシフトした結果。いうなれば今まで埋没していた、歌詞の持つ荘厳さが浮き彫りになったことではないだろうか。
 歌詞の中で、端々に引っかかるような言葉がちりばめられている。二つの意味がシンメトリーの様に存在しているかと思えば、時に対称となる言葉を示さずに孤立していたり、それらは、お互いの矛盾点を明滅させているかのように響いてくるのだ。

    順を追って紹介すると、まず「Simple Mind」の“でも会えなくなるの 少し凄く寂しくて”ここでは、少し寂しいという感情と凄く寂しいという感情が相反している。「Blue」の“私の望む未来も きっと 君が望まない未来も”で、二つの望む未来が対立し、“寂しいくらいに自由さ”と“誰かが居る不自由さを 今は懐かしく思うよ”の歌詞で、自由そのものの再定義をしている。「通り雨」では“早すぎた昨日と 遅すぎる今日の 行ったり来たりを 繰り返して”と、真逆の時間を対比させる。「Holiday」では、“二人で いつか来た道 行くなら今日はふさわしい日と思うの”という、一度二人で来た過去と、もう一度そこに行く現在。この過去と現在には、違った二つの感情が交差しているようだ。
 そして「人魚と海」では、ここにいる意味と正しさに疑問を持つ感情を、魚として海で生きるのが正しいのか、人間として陸で生きるのが正しいのか悩む人魚に喩えて、気持ちの揺らぎを描いている。
   「ウタカタ」は『ふとした日常のこと』にも収録されているが、今回はドラム・パッドが導入され、打ち込み系のサンプリング音源の様にツイン・ボーカルがより独立して歌唱した構成になっている。この歌詞でも、“あと少し 何もかも 思い出せそうで”と“何もかも忘れていない 私が居る不思議”で、忘れている自分と忘れていない自分が対比されている。
  「Sunny」では、シンセの点滅音のようなメロディが時としてSOSのモールス信号に聞こえてこなくもない。切なさを孕んだ旋律と共に“まだ誰のものでもなかった まだ誰でもなかった”と歌われる。ここでは相反する歌詞は存在せず孤立している。しかしその先には、誰かのものになり、何者かになっている未来を予兆しているのだろう。「君からの合図」では、“的外れな愛情 見当違いの方向/見ているようで見てなくて 知っているようで知らない”と、愛情が正しく注がれていたとして、その対極にあるものが、的外れな愛情になる。相反する言葉が乱立し、正しい愛情を求めてさまよい続けるかのように響く。   

    ラストの「Eternal」では“永遠と瞬間の夢の途中”と究極的な対極が歌われて幕を閉じる。これほどまでに対極の言葉が示され、矛盾点をミッシングリンクの様に紡いでいった結果、美しいメロディの中にも常に緊張したシリアスさを内在した楽曲群になっていると感じた。

    ふとアルバムを閉じて、ジャケットをもう一度見てみる。赤い花と、茶色い茎と葉っぱが輪郭をつくり出し、まるでハートマークの様にシンメトリーになっている。でもよくよく見てみると花々自体は左右対称ではなく、もっと自然的な概念で咲き誇っていた。
 結局、対極の言葉、その二つが矛盾していようとも、実は私たちがいつも体験していることなのだ。所謂ふとした日常のことである。そんなフッとこわくなる言葉がポップな音に包まれていたのだろう。
 三度ジャケットの絵を観察しているとどうしてもシンメトリーだと思いたくなっていた。背反する言葉は実は左右対称を形作るものなのかもしれない。嘘とほんと、光と影、生と死、それらはいずれも、お互いが相反する真実でもあるのだ。
 そうこうしているうちに、この絵に引き込まれて行って何かしらのひっかかりが解けた。これはどうやら、ロールシャッハテストの絵なのでは無いのか。この花の絵と「てんきあめ」は私たちを診察しようとしていたのかもしれない。そして、それは殆ど成功した。
 今は、晴天でも雨でもどちらでもいい。
とりあえず、私はそうとう病んでいるみたいで、内側にどんな障害があるかはわからない。ただ一つ言えることは、少なくとも皆さま"はやりやまい"には気を付けなはれや。