DISC REVIEW

米津玄師『BOOTLEG

―オッケ〜 J-POP!―

 「こんな日々すら万が一夢幻ならどうしようか。まあそんならそれで大歓迎、こんにちは元の鞘」―――そんな風に毎日考えてみる。そもそもこんな日常で満足していいの?いや、お前は恵まれているからそんなことが言えるんだよ。そうやって二人の自分が言い争っていく。“爱丽丝”において、米津玄師の思いと共に、日本の都市の現状に対しての皮肉が伝えられる中、つぶやいてみる。「こんな日々すら万が一夢幻ならどうしようか。まあそんならそれで大歓迎、こんにちは元の鞘」―――そして、今もそんな状況に疑問を持ちながらも、のうのうと生きている自分自身に向き合いながら、このアルバムを聴く。そして、こんな風に吐き捨てるのだ。「いや、いま世界が終わっても構わないから」―――そう、米津玄師の通算4枚目のオリジナル・アルバムに当たる本作『BOOTLEG』は、一度終わってしまった日本でまともに生きる術と失われた本当の愛を見つけ出す方法を、どこまでも追い求めようとするアルバムだ。そして、それはどこまでも絶望的で、同時に、どこまでも希望に満ち溢れている。10年代末期に後世まで深く刻まれるだろう、海賊版という名の傑作の誕生である。

   『BOOTLEG』を日本語にするなら当然、海賊版ということになるだろうか。よく言われるブートレグはアーティストが公式に発売するそれもある。ただ、殆どは一般人がアーティストの曲を集めて売ったものや、ライブ音源を非公式に入手してそれを売りさばくという所謂本当の海賊版になろう。ならば本作を米津がBOOTLEGと名付けた真意とはどこにあるのか。そこは、この作品を聴いていけばおのずと理解出来ていくのだが。まず面白いと思ったのは、このアルバムをアップル・ミュージックに取り込んだ時に分かる仕掛けだろう。通常、アルバムを取り込んだ場合、ライブラリに同アーティストの既発作品があれば、同じカテゴリーに含まれるのが通常である。しかしこの『BOOTLEG』を入れたあと当然のごとく米津玄師の項目を見に行くと、以前の作品は表示されているのに、本作だけは無い。おかしいなと思い、最近追加したものを見ると確かにある。よくみるとBOOTLEGの下には“V.A.”と表記されていた。Various Artists(様々なアーティスト)という意味だが、つまりこの作品には色々なアーティストが参加していて、その中の一人が米津玄師ですよということになっていた。しかし、確かにコラボ曲はあるにしても、彼自身のオリジナルな作品であることには変わりない。にもかかわらずV.A.としたことからも、この『BOOTLEG』というタイトルに並々ならぬ思いが込められていると思わざるを得ない作品だ。
    前作『Bremen』は米津にとっての新たな旅立ちを意味する作品だった。ボーカロイドを用いた楽曲クリエイター「ハチ」として活動をスタートした彼が再び自身の声で歌うと決意したとき米津玄師というアーティストが生まれた。そして本当の愛を探すために旅立つのだが、それは同時に「ハチ」の死を意味していた。2012年5月1stアルバム『diorama』は米津が全曲のボーカル、ソングライティング、サウンドメイキング、トラックダウン、アートワークを手掛けた作品で、そこにはロックと童謡が同居するような音楽があった。作品タイトルとリンクする様に、宅録におよそ近しい形で作られた米津のジオラマのような音世界は、小さな規模でありながら、とてつもなく大きな愛を叫ぶ渇望が存在していた。言うなれば、それは「若者」らしい全盲的な愛を求めた出発点だった。2014年4月、2ndアルバム『YANKEE』はメジャーレーベルのユニバーサルシグマからリリースされた。ここから、外部のミュージシャンが演奏やアレンジに参加し、音楽として生のテクスチャが加わり始める。結果として、米津の作る音の「異常なポップネス」と世の中への「穿った視点」を持つ歌詞が強調されることとなった。この都市の中で本当の愛を探し求めるような粗々しくも美しい表現は、いい意味で米津の「バカ者」さ加減を象徴するものであった。2015年10月にリリースされた3rdアルバム『Bremen』は先述の通り、タイトルとも重なるように「愛のある場所」を探すための「旅立ち」を象徴する作品となった。米津がライブで発言していたように「間違った音楽」を作っていた頃の彼は、音楽シーンでの部外者だったのかもしれない。そして今度は、自身がいるオルタナティブ・ロックという安住の地から離れ、「よそ者」になる決意をした瞬間だったと言える。
   前作『Bremen』のオープニング・ナンバー"アンビリーバーズ“と同様、ダンサブルな楽曲"飛燕"で開ける、全14曲。全編を通して過去の優秀なJ-POPの引用と編集により形作られたサウンドとなっている。つまり、今作で米津が意を決して飛び込んだ世界は、J-POPという荒地の、ど真ん中と言えるだろう。奇しくもJ-POP誕生から30年を迎えようとする節目に、彼はその荒廃した高層ビルや朽ち果てた宮殿然となった現在の日本の音楽シーンに足を踏みいれようとしているのだ。この時点でいわゆる"オルタナティブ・ロック"というシェルターは売り払って、今ここに立っているのであろう。
 言うなれば本作は、元ネト民の米津がJ-POPという日本の音楽シーンのレガシーをインターネットという大層高級なフィルターを通し、そこから流れてきたものを再構築したというプロダクションになっている。だいぶ前から言われている日本の産業の空洞化と日本の音楽のガラパゴス化を横目で追いながらも、世界のポップ・ミュージックの歴史から切り離されつつあるJ-POPとJ- ROCKの、ど真ん中に敢えて飛び込んだ。その結果、米津には新たなシュノーケリングの旅が待っていたのだ。彼が選んだ深海だからこそ生まれた多様なコラボレーションもあった。M4“砂の惑星”での敢えて(+初音ミク)との表記を入れたコラボからは、米津玄師の立ち位置が明確に分かる。M9“fogbound”ではファッション・モデルの池田エライザがコーラスで参加。そしてM14“灰色と青”では若手俳優菅田将暉との共演を果たしている。オルタナティブ・ロックのアーティストとして、J-POPの中では自身が「よそ者」であることを認識しているからこそ、マジョリティを代表するDTMキャラクター、モデル、俳優と共演することが米津にとってのニヒリズムを象徴しているのだ。
 そして、今作全体を貫いているテーマを解く鍵は、M7“Moonlight”にある。R&Bで、特にダークでシリアスな展開を持つこの曲は、日本のアーティストで表すなら、UA的な印象の強い曲と言える。反復される歌詞「本物なんて一つもない でも心地いい」は彼の既発曲“再上映”にも共通している。ボカロ・アーティストだったころの自分をニセモノとい言い切った上で、本物を求めた彼が立った本当の世界。現時点ではそれがJ-POPの世界ということになるが、そこでも同じように本物は無かった。つまりすべては何らかの真似だったのだ。それはもちろん自分自身も何らかの真似であることを再認識することでもあった。しかし、その状況ですら、彼は心地いいと歌う。なぜなら自分自身が常にアウトサイダーであったから、その状態も問題ないという逆説的な批評性が込められていると感じた。ブックレット内にある本曲の歌詞の横に、後ろ姿の人物がバックから光を当てられて、その影が幕に映されている挿絵がある。“Moonlight”とリンクするその絵は、月の光に照らされた影の様に、自分たちの音楽は、何がしかの模倣でしかない。だからこそ最後の「鳴り止まないカーテンコール そこにあなたはいない/鳴り止まないカーテンコール そこにわたしはいない」という部分には、ネット上の自身を称賛するリスナーの声もニセモノであるなら、そこに立っている米津玄師も本当はニセモノなんだよというメッセージでもあるのだろう。
 これまでの米津玄師には「本当の愛は何処にあるのだ!」という思いが溢れ出していた。辺り構わず手当たり次第に求める愛への渇望。完全に愛が失われて、売り物になってしまった現在の都市社会に対しての怒り。そして、「ぼくも同じだ」というすべてのブルーにこんがらがった同胞者たちへの共感性が存在していた。しかし、それは前作で一つの区切りを示した。「本当の愛」が無いと嘆いていた米津自身が遂に「ならば、本当の愛のある場所を探してやろうじゃないか!」と重い腰を上げた瞬間だった。本物の愛が失われた世界で本当の愛を見つけるためにはどうすればいいのか。方法は一つしかない。ニセモノの愛で溢れた世界の、ど真ん中に飛び込むことだ。言うなれば、“虎穴に入らずんば虎子を得ず”に近しいだろう。結果的にそれは、オルタナティブ・ロック・アーティストの米津玄師がJ-POPという世界に入り込んだ瞬間でもあった。
 では、ざっと全体を見ておこう。M1“飛燕”はエレクトロニカでダンサブルな楽曲だが、前作の始まりがオーガニックで原始的なテクノ・サウンドを感じさせるものだったのに対して、今回はアーバンな匂いのするもので、TM NETWORKの電子サウンドを彷彿させる。M2“LOSER”は米津玄師の踊るPVが印象的なダンス・チューン。R&Bなビート感で、デビュー当時の宇多田ヒカルをイメージしてしまう。M3“ピースサイン”は日本のオルタナティブ・ロックの父ともいうべきアジカン的な楽曲。日本の00年代を象徴するギターロックと言える。M4“砂の惑星”は初音ミクとのコラボで米津の得意分野ともいうべき楽曲。よりコミカルさを増したサウンドメイキングとヒップホップ的な曲展開はJ-POP内でヒップホップを浸透させたともいうべきRIP SLYMEな色彩を見ることができる。M5“orion”はJ Soul Brothersに匹敵するように、米津の歌の艶やかさが光る楽曲。M6”かいじゅうのマーチ“は王道のポップソング。その王道感は米米CLUBを思い起こさせる。歌唱や旋律からはミスチルの桜井や DEENなど90年代の優秀なポップ・ロックの特徴が見られるが、やはり「レディオヘッド以降」の日本のロックといえるサウンドに仕上がっている。M7”Moonlight“を挟み、正に春真っ盛りで花吹雪が見えるようなポップな楽曲M8”春雷“、00年代の日本のヒップホップシーンで限りなくJ-POPらしいケツメイシのように、メロディアスな嵐が吹く曲。M9”fogbound“は、ダブ・ステップが移りゆく海の風景を写し出すような表現を見せる。その景色はフィッシュマンズの死と隣り合わせなシリアスさに近いだろうか。そこに純音楽界出身でない池田エライザのコーラスをフィーチャーリングしたことで、コンテンポラリーな仕上りになっている。M10"ナンバーナイン" 10年代のEDMを象徴するような楽曲から見えるのは弾けるような海辺の景色。J-POP界でいうなら、00年代の歌姫、浜崎あゆみを想像せずにはいられない展開を持つ曲。後々、本曲で歌われる歌詞は、"Moonlight"と“爱丽丝”の歌詞にリンクしていることに気がついていく…
そして、ここからラストまで怒涛の曲展開が見られる。M11"爱丽丝"はJ- ROCK界、オルタナの申し子と言うべき、RADWIMPS並にバウンズ感が疾走する楽曲だが、マーガレット廣井のベースの毒々しさが歌詞のテーマにはマッチしている。M12“Nighthawks”はバンプ以降の日本のロックの文学性を経た上で、4つ打ちビートに展開した楽曲。タイトルはジャケットのデザインや、“LOSER”のPVの被り物からして、今の米津自身を表すことのようだ。続くM13"打上花火"は若手女性シンガーDAOKOに提供した楽曲のセルフカバー。ニュー・ミュージックというより松任谷由実の様な、日本的な色彩が感じられるメロディに現代的なビートが乗った楽曲。最後を飾るM14"灰色と青"は若手俳優菅田将暉とのコラボ曲。日本の80年代の懐かしの風景が広がるフォークソングの旋律から、サビで一気に強く昇天した瞬間は、情熱と繊細さを兼ねそろえていた90年代のB’z稲葉浩志並みに力強いものに感じられた。過去から現在へタイムスリップさせてくれる楽曲となっている。
 “Moonlight”で「本物なんて一つもない でも心地いい」と歌われる。今のポップ・ミュージックは、過去の音楽を真似ることから逃げる事は出来ない。オリジナルな音楽を作ることを目指したであろう、米津玄師はそこに戸惑っていたのかもしれない。それは音楽に限ったことではなく。今、つくられているすべてのモノは過去の何かを真似ている。だから、僕達は過去の遺産を引き継いで何かを作りだしているだけなのか、と時々空虚な気持ちにもなるのだ。米津もそんな思いをもっていたのかもしれない。でも、この歌詞ですべては吹っ切れたかのようだ。
    この『BOOTLEG』の清々しさが全てを物語っている。そして彼の立っている地点を証明しているのだ。そんな米津自身がとても高い地点に辿り着いたことを証明するかのように“爱丽丝”の「こんな日々すら万が一 夢幻ならどうしようか/まあそんならそれで大歓迎 こんにちは元の鞘」という歌詞が存在している。ボカロ民から遂に「青い顔のスーパースター」になった。そのことは彼も認識している。しかし、この事実が夢幻だったとしても、彼は元の鞘、例えばボカロ民に戻ったって構わないと言いたいのかもしれない。それは、今の日本に通ずることでもある。3.11ですべての幻想が崩れ去った日本。僕達は本当に元の鞘に収まることへの覚悟が出来ているのだろうか。そして、この事実は“ナンバーナイン”の「何千と言葉選んだ末に 何万と立った墓標の上に/僕らは歩んでいくんだきっと 笑わないでね」の歌詞に連なっていく。僕達が選んだ言葉も、選んだ行動も、選んだモノもすべて昔誰かが使用済のアクションなのかもしない。でも、その選んだ先人はもう天に召され、墓標の下に眠っている。だから僕達は、その上を進んでいくしかない。猿真似と言われようが、ニセモノと罵られようが、オリジナルをつくりだすために。同様に戦後の日本は高度成長し、今の平和に辿り着いた。すべての恩恵を受けて、僕達はこの場所に立っている。だから、その先を描くしかないのだ。この「ナンバーナイン」が昔の米津玄師を表す「ハチ」の次の番号だと言いたくなるのはいけないことかい?
 もう一度つぶやいてみる。「こんな日々すら万が一夢幻ならどうしようか。まあそんならそれで大歓迎、こんにちは元の鞘」3.11以前の僕らの世界はニセモノだったか?いや少なくとも本物だろう。あれから、戻ることもできず、進むことも満足にできない僕達の世界。
「爱丽丝」の、もうこの世界は終わっているんだから、明日のことは考えずに踊ろうぜという“絶望”からの開き直りは、僕達に安心感を与え、じゃー失敗してもいいよね?という逆説的な“希望”に繋がってもいく。反対に「ナンバーナイン」の過去の栄光が失われた町で、それでも、この広大な土壌の下に埋まっている芳醇な英知を借りて、パクリながらも、僕達は生きていけるんだよね。というある種の“希望”は、この壊れた世界でやはり生き延びなくてはいけないという“絶望”でもあるのだ。
 いずれにせよ、世界はつづく。僕達は進まなくてはならないのだろう。なにぶん愛が足りない。だから、米津玄師はそれを探す旅に出た。『diorama』は“若者”らしい貪欲なまでに愛を求める叫びだった。『YANKEE』は“ばか者”に見えるほどの、愛が失われた都市への怒りだった。『Bremen』は“よそ者”になっても構わないという覚悟の上に、愛を探す未知なる世界への旅立ちだった。そして、『BOOTLEG』では、米津玄師が過去の遺産で溢れかえる荒廃した未来都市で、偽物という名の本当のアイを見つけたところまで描かれ、一先ず物語は終わる。

    もう一度つぶやいてみる。「こんな日々すら万が一夢幻ならどうしようか。まあそんならそれで大歓迎、こんにちは元の鞘」「毎日休まずに会社に行くのが正しい、毎日休まず学校に行くのが正しい、LINEで四六時中トモダチとトークするのが正しい、LGBTの人を全然理解できるのが正しい、農業に精を出す若者は正しい、地方都市を復活させることが正しい、もう一度高度成長期のような日本に戻すことが正しい、働き方改革は正しい、差別はしないのが正しい、日本の産業を復活させることが正しい」いや。正しくない。絶対的に正しい訳じゃない。僕達はこんな偽りの正しさの中で生きていたくはない。僕達は絶望的な世界を尻目に、虚無の現実の真只中を、こんがらがった気持ちをSNSに吐きだす術しかないまま、無表情に生きるしかないのか。「こわくはないの?」と聞かれれば「こわいって何?と答えるだろう」だって、我々の傍には「一つの嘘と一つの本当」を見破った米津玄師がいる。偽りの本当を信じていた方々にはいずれ時が来れば、こう言ってやればいい。「あんたが本物だと思っている俺はニセモノだよ」とね。