COLUMN

『ネットの恩恵と代償が、僕たちと音楽の繋がりをどう変えたか』

ー 2015年6月28日 ー

先日、美容室に髪を切りに行った。その時、RADIO HEADを好んで聴いていたという店長が、「あの頃と(90年代)比べて、今の音楽って全然変わりましたよね~」とそれに対して僕は、とりあえず「そうですね、やっぱり90年代後半にロックにヒップ・ポップが取り入れられてから、ロックの形も変わってきたんじゃないですかね。」と切り返した。帰ってから、ふとその会話を思い出してみた。なんかしっくりこないのだ。何か、ロックが変わる、それ以上に音楽に変化を及ぼした何がしか。

そうだ、インターネットか…。Windowsが日本に上陸して、ヒジネスや人々の暮らしに入り込んできたのも90年代だった。僕の場合、その時期は小中学生の時期と重なる。小学校の卒業文集に将来の夢はパソコンを使う仕事とか適当なことを書いていたのを思い出す。それは、予言なんかじゃなく、単にそういう時代の始まりだっただけで深い意味は無かった。
そんな僕は社会人になり、ある人生先輩の言葉を聞くことになる。いわゆる、団塊の世代の方で、彼は、「Windowsに日本が侵食されたんや」と言った。まぁ、オヤジの単なる愚痴に聞こえるが、妙に僕の心に引っかかるものだった。

インターネットの普及はYouTubeを含め、音楽ビジネスに大きく影響を与えたのはもう承知の事実。そこを開けば、どんな時代のどういうジャンルのどこの国の音楽だって聞きかじることが出来る。なんて便利な時代なんだ!最高だね。
でも本当にそうなんだろうか。莫大な量の曲が詰め込まれた、おもちゃ箱とも言えるネット。その中では、ロックやポップやクラッシック、ジャズ、レゲエetc.全てが同じ枠の中に並べ連ねられている。さぁどれを聞こうか?

でも、やっぱりガイドラインが必要なってくる。選択肢が多すぎるからだ。その充足は満足に繋がらず、寧ろ満たされない、無機質感を与えてくる。昔はラジオのDJが曲を伝える一瞬が大事だった。聴き逃したり聴けたり。それは瞬間の事柄。また雑誌などは、ディテールに踏み込んだ考察。知識。その媒体は通常、月一に読者に伝わる。そんなメディアが音楽を伝えることを担ってきた。
でも時代は流れ、乗り物は電車から新幹線へ、電話はアナログから光へ。全てのスピードは速くなり、それは便利を追い求める人間にとっては当たり前の進化だったのかも。情報も遅くては意味を無くして行った。

音楽の情報サイトもネットでは次から次へ新しいものが。その中で最もネットの音楽サイトで勝者というべき、アクセス数が多いのが「音楽ナタリー」だという。最新の音楽関連情報を最速でアップする行為、それがネット上では一番有効だったということだろう。言うなれば、そこには、音楽アーティストの個性や、優秀かハイプかというニュアンスや切り口は存在しない。そのミュージシャンの情報を知りたいというニーズさえあれば、そこにニュースを流す価値があるのだ。つまりは受け手側の特異な趣味趣向やこだわりには一切配慮はしない。ある意味ボーダレスなのだ。一つの枠にアーティストとニュース内容が時系列的に流れていく。情報という無機質感、ただ知りたいことを得られるならそれで十分だとは思う。ある音楽ファンも、ナタリーには情報以外のそれ以上のものは求めていないと言っていた。

そのアーティストのディテールを深く知りたければ、ロッキング・オンを熟読すればいいのだ。そこまで探求する気が無ければ、それ以上深入りしないだろう。おそらく今は後者の人が多いのではないかと思う。でなければ、もっとロックをロックらしく捉えようとする人が増えてくるはずなのだが。
音楽ナタリーの方法論は、Amazonに似ていると僕は思っている。
Amazonがネット販売サイトで一番勝っている一つの理由は、注文してから届くまでの速さである。それを可能にしているのが、保管している棚での商品の並べかただという。通常の分類の仕方であれば、家具は家具でまとめて置くだろう。でもここでは、A、B、C…とアルファベット順に並べているのだ、例えるならアンティークでもあんこ餅でもAだから同じ列に並べるのだ。
これ、ナタリーに似ていますよね。
アイドルだろうがゴリゴリのデスメタルだろうが、自然破壊撲滅を訴える似非宣教師の歌でさえも、同じ枠の時系列の中の一行の情報として落とし込まれ流れていく文として成り立っていくのだ。

このようなネットを使用したビジネスで勝利しているシステムは、およそ海外的な方法論によって成り立っている。ISO(国際標準化機構)9001という品質マネージメントシステムがあり、今の大企業は殆どISO9001の認証を取得している。簡単に言えば、これに認定されている会社は、しっかり品質管理のされた工場から商品を出荷出来ているといえるのだ。このISO9001はヨーロッパから発祥したもので、管理方法はヨーロッパ的な思想から生まれたものだ。実はこの方法論は日本人的な感覚とは少し違っている。それがよくわかる一つの話がある。まず、ここに”牛”と”猫”と”草”を描いた紙があります。この三つをどうグループ分けしますか?という問いに対して、ヨーロッパ人と日本人では区別の違いが出てくるという。ヨーロッパ人は”牛と猫は動物だからこの2つをくっ付けます。”という。でも日本人は”牛は草を食べるからこの組み合わせだ”と考える。管理という面から考えたとき。前者の考え方がシステムとしてうまくいく。これがISO的な考え方だ。日本人が後者のような考え方をするのは、元々僕たちはそこに物語性を作り出す、日本人的な感性、侘び寂びのようなものを含め物事を捉える。それが時にビジネスの中ではネックになることがあるのだ。

何故この話を引き合いに出したかというと、僕が考えるに、ヨーロッパ的な思想の元にしたのが現在のネット音楽サイトだとするなら、日本人的な思想を含んでいるのが、ロッキング・オン(アーティストの深層に踏み込んだもの)だと言えるのではないかと思ったからだ。世間では、今ネットの音楽サイトは商業的に見て成長株だ。逆に詳細な見解や物語性を内在した雑誌は、古株扱いといえるかもしれない。
確かにそうなんだ、僕たちには時間がない。そんな悠長なことを言ってる暇もないから懇切丁寧な文に目を追わせることも億劫になるのだろう。いつの間に社会はこんなにも先を求めて速さを競い、成果主義が闊歩するようになったのだ。

でもネットという最大級のおもちゃ箱が生まれたことによる恩恵もある。音楽を演る側にとっては膨大な音楽ライブラリーは平等に与えてられているのだ。そこからの抽出する音楽エキスの組み合わせも無限だ。
またボーカロイド音声合成技術)によって、音域の範囲なども不可能を可能にした。そこから音楽活動を開始した、じん(自然の敵P)や米津玄師は、正に既存の音楽ジャンルの垣根を全く気にしないアプローチで、日本の音楽シーンに一石を投じている。つまりはネットから選びだす感性によっては、摩訶不思議な音楽を生み出すミュージシャンだって生まれておかしくないのだ。
もちろん僕はミュージシャン達の物語を、これからも深く追い続けたい。ネットの恩恵と代償を受けた音楽シーンがどの様に変わっていくか不安と楽しみがない交ぜになった状態。2015年にそんな思いに駆られている。

杞憂かもしれないけど3.11以降、音楽ビジネスの形も大きく変わった。ポップ・ミュージックは芸術的な側面ももっているが、やっぱりモンキー・ビジネスであり、人間の関係性無くしては、いずれ何もかもが枯渇してしまうだろう。音楽だけは残るだろうが。
僕は憂いているのだ、馬鹿だからかもしれないけど。ロックのあり方、ポップ・シーンの未来とかに不安を感じている。
今僕達は、音楽といつでも繋がれるYouTubeなどを通して。友達にいつでも連絡出来る、LINEを通して。知らない誰かといつでもコミニケーション出来る、SNSを通して。
いつでも…だからこそ遠くに感じてしまうこともある。

昨年、村上春樹の『ノルウェイの森』を初めて読んだ。登場人物に主人公のワタナベ君と、直子、緑という二人の女性が出で来る。簡単にいうと複雑な恋愛を主軸に置いた物語だ。時代背景的に、そこにネットは無い。携帯電話も無い。話の中には、寮の電話にかけてくるというシーンがある。彼女の話を聞くために電車を乗り継いでまで行く。そこには繋がるために必要な圧倒的な距離がある。だからこそ、それを乗り越える意味があるとも言える。今なら、LINEで24時間、嫌でも繋がれる可能性だけは落ちているのだ。
僕たちと音楽の関係もそうなってきてるんじゃなかろうか?ネットを開けば1日中音楽と繋がれる。でもそれが本当に自分にとって必要なのかはわからないわけだ。無い物ねだりだとあなたはいうのか?
”僕は今どこにいるのだ。”ワタナベ君がラストシーンで心の中で呟く言葉。正に僕たちは今この主人公と同じ状況じゃないだろうか?
ネットという音楽の樹海に僕たちはただ立ち竦むしかないようだ。少なくとも、飽きるほどに聴ける音楽は泉のように湧き出ている。それはあなたが望むポップ・ミュージックであるかはいざ知らず。

ネットが与えた恩恵は選択の自由だ。僕たちは沢山ある音楽の中から自分の感性で、選び聞くことが出来る。だからこそ人に合わせるのでは無く、自分で選ぶことが一番大切なのだ。一方でネットが与えた代償は莫大な量の音楽を一つのハコに入れジャンルや有効性の区別などせず、横一列に並べ、平準化し区画整理したこと。その中から自分だけの希望を見つけださないといけないことだ。

どんな音楽とでも、ずっと繋がっていられる、確かに嬉しいことだ。でも音楽だろうが何だろうが、瞬間の巡り合わせっていうのも大事だと僕は考える。人との出会いだってそうだ。出会い系サイトというのがあるが、それについてアホなことを想像したことがある。この人工的な出会いが増えることによって、超自然発生的な出会い少なくなる説を唱えていたのだ。若気の至りだと思うが、それと同じようなことを音楽との出会いにも当てはめて妄想してしまうのだ。
いつでも出会えるなら、ずっと出会わなくてもいい、そんな選択肢だって出来てしまう。
でも、どんな状況になろうと音楽が好きなら、その運命的な出会いを模索し続けるだろう。この人間味のない密林地帯で。そうするしかない。

あなたはこう言うかもしれない。「音楽だけは生き残ると」
それだけが救いなのかもしれない。