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ロック評論家 ROHITOのブログ

DISC REVIEW

上坂すみれ『ノーフューチャーバカンス』

 

-ロックは本当に死んだのか?-

 

    “あなたがもう忘れてしまったとしても、きっと、次の未来でまた出会える。

わかってしまった世界のことも、きっと散々だって、笑い飛ばすことができる。

だから、思い出して、少しでも前を向いて。

日が沈む前に、こんな夏の話を、終わらせに行こう。”

 「Summertime Record」/『Mekakucity Records』/Jin

 

 もう正直に認めた方がいい、AKB48のメンバーの水着姿はオカズになると、男子諸君は。いや、認めなくてもいいんだが、少なくとも、AKB48は嫌いだけど欅坂46は好きとかいう人を、私は認めない。そもそも欅坂はAKBあってこそのグループなのだ。例えば、AKBがロックだとした場合、けやきはオルタナティブ・ロックみたいな立ち位置だ。だからAKB聴かずして、欅好きを語る方々は、ロックンロールは嫌いだけどオルタナティブ・ロックは好きと言っているのと同じなのだ。(もちろんオルタナティブ・ロック発祥以降の音楽リスナーである私はオルタナ大好き)欅坂がAKBに比べ、アートで前衛的に見えるのは分かる。ただそれはAKBという対象物があってこそのリフレクター。けやき坂の方は音楽として分かるという人は、そもそも錯覚に惑わされているのでは無いか。


   そうそう、2018年7月6日に麻原彰晃の死刑が執行されたらしい。人々はこういう、これでオウム事件が終わった訳では無い、遺族の怒りは収まっていない。またオウムのような事件が起きるのではないかという不安があると。確かにそうだろう。事件はこれで終わりじゃないし、遺族の怒りは一生収まらないのかもしれない。ただ、オウムのような事件はもう二度と起こらないと思う。彰晃の洗脳によって、高学歴の人々が操られて、起こされた事件の数々。もちろんその洗脳の陰には麻薬が使われていたという事実もあるが。バブル景気の真只中に社会人の扉を叩こうとした才能ある若者たちが、全く才能を活かせる舞台が存在しなかった此の時の浮かれた日本に絶望し、その逃げ場としてオウムという所謂宗教団体を選択してしまった。そういう人たちだったのではないかと私は思う。何故こういう事件がもう起こらないと思うかというと、もうそんなある意味で天才たちは2018年には存在しないからだ。


先日オウムの特番がTVで放送されていた。「オウムを終わらせた男」と題して、地下鉄サリン事件の実行犯で唯一死刑判決を受けなかった林郁夫をクローズアップしたドラマだった。林被告は取り調べで、地下鉄サリン事件の実行犯たちの名前を自供し、結果的にそれが彰晃らを逮捕できるきっかけになった。


この取り調べを担当した警察が、このドラマのもう一人の主人公。取調べには長い長い時間がかかり、林被告の告白に辿り着いた。そこに辿りつくまで、この警察は林被告も実行犯の一人だとは全く思わなかったという。それ程、林被告は人間味のある全うな人物だったのだろう。そんな人も少しの過ちで罪を犯す。


林被告を死刑に出来なかったことで警察はこのとき批判を受けたらしい。取調べで手柄を上げた警察は、裁判の前に上司から「初めから林が実行犯だと疑っていたと証言するんだろう」と言われ、それに対して「あんたもオウムと一緒だな!」と答えたという。裁判でこの警察は、林被告が実行犯とは全く分からずに取調べをした、そんな人物には見えなかったと正直に答えた。その証言と、林被告の裁判での罪の告白は遺族の怒りをさらに強めるものでは無かったらしい。結果、林被告は無期懲役の判決を受けた。この警察官はその後、出世をする事無く職務を終えたという。


私は別にこの警察官の行動が正しかった事を提示したい訳ではない。ただこれがまさに日本だ、ということは言えるだろう。社会という集団から除け者にされて入ったオウム。そこから疎外される事をおそれ、起こされた事件の数々。反対に警察という集団から疎外されることになっても自分の正義を押し通した警察官。おそらく日本では前者が多いと思う。

思い返してみると日本という国では「集団からの疎外」をおそれて実行された事柄が沢山あると思う。戦時中に起きた自爆を厭わない特別特攻隊、高度成長期にkaroshiなんて気にせず働き続けた人々、そして、オウム事件の犯人。いじめの加害者たち。昨今話題の働き方改革を訴える一般市民に、話題の、監督からの指示で危険なタックルを行った大学生。


これらは全然違う事に見えて、実は一つの相似形になっている。すべてに共通する因子は、「集団心理への恐怖から起こった事例」なのだ。世間からの疎外、団体からの疎外、友達からの疎外等、集団へ帰結することへの安心感と村八分になることへの恐怖心。日本人が元来持っている特性が悪影響を及ぼし、これらの事象を生み出したと思う。


オウム事件がここまで混迷を極め、今だに解決できないしこりを残したまま終わってしまった。その要因の一つに、この事件の本質的な部分を解決しようとして、奥深く追及しようとすればするほど、人間が本来持っているどす黒く、悪い部分に向き合わないといけなかったからだろう。それは警察、メディア、被害者を含め、すべての人たちがそう思ったのではなかろうか。オウムの悪い奴らを追い詰めようとすればするほど、その裏には私達が常に抱えている人間の弱さという異物がほろりと転がり出てしまったりして、それに目をそむけたくなる。きっとだれもが信じたくないのだ、自分がどれだけ汚れているかということを。


    その解決の糸口として、どうしても、戦後以降の高学歴主義がとか、高度成長期以降のとか、バブル以降のとか、言い訳がましくなる、私自身そう思ってきた。でもなんだか最近そういい難くなってきた。というのもそういった恩恵を受けながら30年以上生きてきた身としてはどうしても申し訳なさが後を引くようになってきたのだ。なんだかなぁ。もちろん集団心理によって引き起こされた事件の首謀者全員を否定するつもりは無いし、集団心理は使い方を間違えなければ、それによって日本の良さが存分に発揮されることも理解している。しかし、日本のいつ頃からか分からないが、“どす黒い渦巻くソレ”が存在して、今もってそれが何なのか分からないみたいな状態が続いている。もちろん目を背けて、見ないようにすれば、別段生活に支障は出ないのだが。でもやはりそれは戦後以降に生まれたものでは無いかという強い確信、戦前も戦争直後も知らない私が言える身分ではないかもしれないが。そういった得も言われぬ違和感のようなものを、色んな著名人の方が言葉にし、表現の中に含めたりしている。


例えば、養老孟司氏が著書で言っていたが、オウム事件が起こる少し前位から、養老氏が相手していた大学生の様子や発言がどうもおかしいという違和感を持っていたという。オウムの事件が発覚して、その犯人たちが何れも高学歴の大学生だったことを知って、その違和感の理由が分かったというようなことが書かれていた。

また、日本のバブル景気の時、小澤征爾氏が海外の飲食店で日本人に会った時の話が新聞に掲載されていた。その当時の海外に居た日本人は自分の自慢話をする輩ばかりだったという、彼はその時このままでは日本はヤバいぞと思ったらしい。


こういった方々の体験からも“ソレ”の存在を感じることが出来る。さらに、“ソレ”自体を表現しようとした作品もあると思う。

まずは、言わずと知れた庵野秀明監督の「エヴァンゲリオン」、また浦沢直樹氏の「20世紀少年」そして、宮部みゆき氏の「ソロモンの偽証」。

これらの登場人物を順に見ていくと。

エヴァそのものが実態の見えない“ソレ”に対しての怒りの象徴のようなものだろう。

20世紀少年に出てくる“友達”というモノ自体が彼等に付きまとっていた訳の分からない闇であり、具現化できない“ソレ”だったのだろう。

ソロモンの偽証の冒頭で自殺した少年、この物語で唯一答えが示されずに残っているのが、この少年の自殺した理由である。それこそが日本が戦後以降ずっと解決できていない問題であり、“ソレ”そのものなのだ。

この三者はいずれも、戦後以降に生まれた、ほぼ同世代の表現者であることも特筆すべき点だろう。この3人が作品で提示した“インテロゲーションマーク”こそが、今も私たちの周りに浮遊している“ソレ”に対しての、表現者としての小さな抵抗、石つぶてだったのではないかと思う。


 “ソレ”に惑わされずに生きればいい。そもそも、“ソレ”は存在しないのかもれない。と思ったりもするが、それでも私は“ソレ”が存在すると思っている。そして、それに対峙するための武器がロックだったらいいなと思うが、そんなきれいごとが通じる世の中はもう存在しないのだろう。特に日本では。

もちろんそれに対峙できるのはロックじゃなくて別の音楽だとは言わない、どこまでいっても、その閉塞感を打破できるのはロックだと思っている。かといって、今の閉塞感を打破できるようなロックが日本の中に存在して、機能しているかと聞かれれば、答えに困る。でも悲嘆はしていない、何故ならロックは何処まで行っても自由であることがロックの大前提だから。今の状態がロックとしてはごくごく普通なのだ。


 冒頭のAKBの水着が云々という発言が今更ながら恥ずかしくなってきたが、もう戻れないだろう。男の性でしょうかという発言するとACのCMか?絶滅危惧種の発言か?と思われてしまうのがオチだろう。そこにLGBTの権利がとかが入ってくるともう訳が分からなくなる。絶滅危惧種の発言として言わせてもらうが、私はリケジョというキャッチコピーがすきじゃない。また林先生が驚く初耳学のコーナー「初耳ピーポー」での新たな女性像的な紹介の仕方も好きじゃない。そもそも女性という部分にフォーカスを絞り過ぎていることに違和感がある。もちろん男女平等であることは正しいのだが、今の状態では日本はまだ男性優位社会であることがまるわかりだからだ。昔、谷川俊太郎氏が言っていたように「本当の平和は平和って言葉が疎ましくなるくらいになってやっと平和と言える」平和にしようと宣言しなくも良い世界が本当の平和だというのだ。だから敢えて女性をクローズアップしなくてもよくならないと本当の男女平等は実現しないだろう。


AKBの話に戻るが、女性にとっての同性のアイドルはどういった位置づけになるのか分からないが、男にとってアイドルとはいつの時代もそういう位置づけになってしまうのではないかという通念が頭の中にこびり付いている。

例えば、戦隊モノを男の子は好きだ。そして、大人になっても観る人はいる。でも成人してずいぶん経つ私はもう観ていない。それにはきっかけがある。大人への階段を上る途中で、ふと、女性の悪役を女として観てしまった時が来た。私はそれが戦隊モノ卒業の契機になったと思っている。もちろん大人になっても全然観て良いものだし、子供と一緒になってみるのは正しい。ただ、漠然としてあるのだ、私の中では。戦隊ものはこういう視点で見るべきだという基準が。

男にとってそういった視点は絶対に消えないし、だからアイドルに対してもそういった視点は消せないと思う。これが芸術性と男の性との戦いでもある。だから私はアイドルの音楽を100%芸術作品としてしか見ていないという男を信じていないし、私は絶対そうなれないと思う。だから、ロックの代りをアイドルは出来ないし、アイドルの代りをロックはしちゃいけないのだ。(ビートルズは最初アイドルみたいなものだったという話は置いといて)ロックにはロックとしての可能性があって、アイドルにはアイドルとしての可能性がある。決してロック=アイドルにならない。弁証法的にロックでも正しくて、アイドルでも正しいなんてことにはならない。


 弁証法的。そういえば弁証法唯物論とか小難しい歌詞を歌っている、上坂すみれの『ノーフューチャーバカンス』という作品を先日聴いてみたのだが...


2018年の日本の音楽シーンには、アイドルと女性声優、アニソンがクロスオーバーしたアーティストの市場がある。その中の一人、上坂すみれの本作は、コンセプトとしては「未来形少女」といったところだろうか。

近年の日本の音楽シーンとつながっている点としては、中田ヤスタカが仕掛けたテクノ・ポップ グループ Perfume以降を感じさせる「POP TEAM EPIC」。初音ミク以降のボカロ、歌い手シーンを、声優という本業色を最大限にマッチングさせた「恋する図形(cubic futurismo)」などだ。

それにしても、語弊のある言い方になるかもしれないが、彼女のようなアーティストは他にもいるはず?と思った。それでもなぜ、上坂すみれでないとダメだったかを考えてみた。


1つ目は、上坂すみれが1991年生まれという点から考察してみると。昔ネットで知り合った17才の女子高生(1992年生まれ)に、平成生まれイイよね。と言ったとき、彼女は「よくないですよ。昭和の方がいいです。平成生まれやからな〜って言われるんですよ、結局。」みたいな返され方をした事を思い出す。

おそらく、個人差はあるだろうが、平成なりたて頃の生まれは、そういう皮膚感覚を持ち合わせているのかもしれない。最近の若者の中には昔の歌謡曲を好んで聴く人が多くいるらしいし。そんな価値観が「平成生まれ」の歌詞にうまくリンクしてしまっている。作詞の松永天馬はそれを知ってか知らずか…

2つ目は、アルバムの全体的な基調になっているダンス・ミュージック。10年代のコンテンポラリーな色を出すためのEDM、トラップなどへの傾倒はあえて避けて、80年代を思い起こさせるようなビートを使うことで、いわゆる昭和的な匂いを彷彿させている。おそらく、そのように狙ってプロデュースしているのだろうが、これが自ずと上坂すみれの昭和への憧れとマッチングしている。

3つ目は、今作の、アイコンとしての上坂すみれのコンセプトは「未来形少女」と言った。しかし蓋を開けてみれば、"昭和育ち"やら古典を好む歌詞やら、80Sのビート感、ニューウェーブなど。歴史的なものへの恋慕に溢れた作品になっている。


近未来の少女という佇まいと倒錯し続けた結果、おぼろげに「ノーフューチャーバカンス」という言葉がステンシルシートを使って書いた文字のように浮かんでこないだろうか。つまり未来に希望を抱きまくっているからこそ近未来少女は生まれ、だけど、もう終わろとしている平成の世に本当の希望は見えなくて、だから昭和に憧れて。でも、そんな自分の時代を愛したいからこそ…

"私たちに明日は無くとも。だから、今こそバカンスなのだ!"

と、そんなことを言いたいのではないか。

ラストのシティーポップなタイトルソング「ノーフューチャーバカンス」は上坂すみれの作詞。そこには彼女の内面の吐露も見られるような気がする。

 

"光 窓辺に 身をゆだねたら

本当の自分が 見える気がするmoonlight  "

" ha 綺麗な時間だけを集めて 閉じ込めたい…

すべては消える砂糖(シュガー)の幻想(ドリーミン)"

 

闇の中だからこそ、光が見えるなんて、耳にタコが出来るほど聞いてきたかい?

歴史上からは昭和も消えない、平成も消えない。       

でも次の未来は、もっと希望が見える世界だったらイイね。