DISC REVIEW

踊ってばかりの国

『光の中に』

 

―それでも音楽だけは裏切らないと言えるあなたへ―

 

《彼は光りの中に自足していた。この印象が私を搏った。春の光りや花々の中で、私の感じる気恥かしさやうしろめたさを、彼の持っていないことが、その姿を見てもわかった。彼は主張している影、というよりは、存在している影そのものだった。》(金閣寺/三島由紀夫

ジャケットからも分かるように、下津光史が今作で大層な希望の光を描こうとした訳では無い。1曲目「ghost」の“乗っ取って/僕を乗っ取って/身体はいらない”「マリブコーク」の“僕には何にもなかった/あの入道雲見て”「water」の“もうそこに僕はいない/風が稲穂を揺らすだけ”これらの歌詞から感じられるのは喪失感と共に得られた到達点だ。

下津自身が光の中に飛び込む。彼自身が誰かの灯台になる。そんな生業としての覚悟が本作には沸々と湧いている。彼が入った光の中は金閣寺のように美しいのだろうか。おそらくそれは見る側と見せる側とでは大きく変わってくるものだ。

《美は細部で終り細部で完結することは決してなく、どの一部にも次の美の予兆が含まれていたからだ。細部の美はそれ自体不安に充たされていた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いわば金閣の主題をなした。そうした予兆は、虚無の兆しだったのである。虚無がこの美の構造だったのだ。》

この文で三島が表現したものと、下津が言う“光の中”は近しいものだと思う。三島にとって金閣寺の美とは虚無の象徴だった。下津が入り込んだ光の中の美は彼にとっては虚無だった。

ロックは美しい。美しいものとは虚無だ。だから、ロックとは虚無なもの。下津が20代最後に辿り着いたロックの一つの答えはそれだったのだろう。

それに辿り着いた事=ロックを引き継いでいる、その証明でもある。