DISC REVIEW

テイラー・スウィフト

フォークロア

 

―ロックは本当に死んだのか?〜in America〜―

 

2014年の『1989』は完璧なポップ・アルバムだった。それは今聴いても変わらない。そして2015年5月5日「THE 1989 WORLD TOUR LIVE IN JAPAN」の東京ドームで観たテイラー・スウィフトは、ポップ・アイコンとして完成されたステージを見せてくれた。この時の彼女を時代の寵児だと言っても過言では無いだろう。特にここでのポップ・アイコンとして、という意味は、彼女のアーティストとしての文脈を事前情報として知らずとも、関係なく、ここ日本にて楽しめるものであったということでもある。

テイラー・スウィフトは母国ではカントリー・ミュージック歌手としてそのキャリアをスタートさせたとなっているが、カントリー・ミュージック自体が米国の母国ソングに近いものなので、日本人的な感覚で聴くと、フォーク・ソング、ロック・ミュージックを歌う、実力派女性シンガーという印象を受ける。米国のそういった方向性の女性シンガーは今までも多く存在していた。しかし、その空気を一変させたのが『1989』だったと思う。元々あった彼女のシンガーとしての才能と、時代が求めていたEDMというムーヴメントが交差したことで、結果的に彼女がこの時代のポップ・アイコンとして選ばれることになった。その後の作品『レピュテーション』と『ラヴァー』は、『1989』の傾向を引きつぎながらも、その時代の要素をうまく取り入れ進化したものになっていた。そして今やアメリカの大統領、トランプ氏に対して、はっきり自分の意見を明言するフィメール・シンガーとなった。

トランプ政権という点から見ると、現政権が発足したのは2017年1月20日であるので、『1989』と『レピュテーション』の間で政権が変わったことになる。このことが彼女の作品に影響を与えた部分もあるのだろう。書籍『2010s』でも、アメリカでは大統領が変わるとその影響がポップ・カルチャーにも及ぶ旨が書かれていた。日本ではわかりづらい点なのだが。

同書籍でテイラー・スウィフトのことも書かれているのだが、そこでは“テイラー・スウィフトがインディロックを殺した?”とのこと。色々な捉え方ができるが、彼女がインディロックっぽいことをすれば、彼女のセンスにすべてのバンドが白旗を上げるということも言えるのではないかと思う。日本ではインディロックは死んだが、アメリカでも死んだのだろうか。いや、まだ日本でも死んでないだろう?いずれにしても今のテイラー・スウィフトを日本ではどう聴けばいいのか、少し考えてみた。

今作のタイトルは『フォークロア』で民話などの意味がある。簡単に考えれば、彼女のキャリアがスタートしたカントリー・ミュージックという意味のフォーク・ソングを根っ子として、そこから脈々と流れる道をつなぎ、今新たなストーリーを作り上げたと捉える事が出来るだろうか。本作を聴いて3つのポイントが私の中で浮上してきた。まず一つは、このザ・アメリカといえる物語が内在している作品に、日本のリスナーはどう向き合ったら良いのかということ。二つ目は『1989』から『フォークロア』に至った意味とはなんだったのか。三つ目は本作がテイラー・スウィフトにとってどういった位置づけになるものなのか。一つずつ考えていきたい。

まず一つ目は今作を日本のリスナーがどう聴くべきかについて。そこで『プライベート・ライアン』という作品を引き合いに出してみたい。この小説のエピローグの場面でライアンが墓の前で妻にこう聞く「わたしは、それだけのことに見合う、ひとかどの男だったろうか?」と。その当時の私にはニュアンスがイマイチわからなかったのだが、最近少しわかってきた。これはアメリカ人特有の感覚だということが。アメリカ人は人にどう見られる、どう評価されたかという基準で自身の満足感は変わらない。あくまでも、自分の中で納得できたかどうかにかかっている。逆に自分で満足できていれば、人からどう見られているかは問題ではない。自分がひとかどの男になれたか?という問いが全てを物語っている。反対に日本人なら、他人にどう見られるか、世間体がどうかに全てがかかっている。それが日本人の満足度に関わってくる。よく見られるスポーツの世界大会でのスタジアムのゴミ拾い。これについて日本人は素晴らしいと評価されているが、はて、これが見られていない場所ならどうだろう。おそらくゴミ拾いをする絶対数は減るのでは無いか?また、ネットイジメや炎上。世界的にあるものだが、逆の理論でいくと、誰にも見られていない、特定されない、つまり世間体が関係しない地点では日本人の醜さが特に顕著に露呈してしまう気がする。痴漢も日本が特に多いらしく、アメリカではほとんど無いらしい。

こういった観点から今回のテイラーの作品は、ザ・アメリカ人たる意味に溢れたストーリーを含んだ歌詞に満ちている。「ディス・イズ・ミー・トライング」の訳詞《ただ知ってほしかった/こうして私なりに努力していると/少なくとも頑張ってはいるから》という部分。この歌詞を歌おうと思う、日本人歌手がいるだろうか?おそらく難しいと思う。単にかわいいアイドルが歌うならまだしも、批評を受ける可能性のある一介のポップ・アーティストが、日本の風土ではこの歌詞をポップ音楽では歌わないと思う。やっぱりアメリカ人の感覚からしか出てこない。周りの評価は全く関係なく、まず自分の中に正解というコアを持ち合わせている人種からしかこぼせない歌詞だと思う。つまり今作の歌詞の意味を理解するには、アメリカ人的な感覚を踏まえた上で捉える必要があると思うのだ。

二つ目は『1989』から『フォークロア』に至った意味について。繰り返すが『1989』は最高のポップ・アルバムだった。そしてそれ以降のテイラーは、その成功によって生じた軋轢との対峙や、ポップ・アイコンとしてでは無く、プライベートな自分のリアリティから生まれた愛を育もうとする努力など、本来の人間として人生を謳歌する姿を作品に投影してきたと思う。そうした“狂騒の20年代”を、30才になったテイラーは、弔う意味も込めて総括する必要があると考えたのだと思う。そういった意味で今作では『1989』をレクイエムするかの様に、その作品を追憶する歌詞が見られる。例えば「ミラーボール」《だって私はミラーボールだから/私はミラーボール/あなたの色んな面を残さず映し出してあげる/今夜は》という部分。『1989』の景色が脳裏に描かれないだろうか。さらに、「ホークス」の《私が自分の一部をニューヨークに置いてきたのは知っているでしょ》という歌詞。この二つの歌詞にテイラーにとっての、あの作品に対しての栄光と喪失が描かれていると言えるのではないだろうか。

三つ目は本作がテイラー・スウィフトにとってどういった位置づけのものかについて。これは映画作品とその俳優を引き合いに出すとすると。トム・ハンクスにとっての『フォレスト・ガンプ/一期一会』であり、ブラッド・ピットにとっての『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』のような作品だと言える。これらの作品は、その後の俳優人生を決定づける意味を持つもので、登竜門といってもよい。しかし能動的なものでなく、アメリカの映画業界の大きな何者かによって提示される、良い表現ではないが赤紙ともいえるものだ。つまり、それを演じれば、今後の俳優人生は保証されるぞ、さあどうするという啓示を受けて、それを受け入れた瞬間だったのである。テイラーもその啓示を受け入れて、今作を作ったと考えられる。成功と敗北を同時に体験した『1989』を繰り返すことはアーティストとしては出来ない。何がしかの勢力と対峙して戦うにはもう若くはないし、かといって、ジョン・レノンが求めた普通の人生にも、もう戻れない。ならば、アメリカの音楽業界の何者かが提示する保証とやらを手に入れられるのであれば、ここで、今後の歌手人生を決定づけるような、名作を生み出してもよいのではないかとテイラーは考え、そこにはもちろん全力を尽くした結果がこの『フォークロア』と言えるのではないか。

今作は全体的にみて、フォーク・ミュージックが主要な要素となっている作品といえる。こういうと初期のテイラーを想像するかもしれないが、今回は、作品を一つの物語として伝えるという意味が強く出ているためか、「 ディス・イズ・ミー・トライング」や「エピファニー」の歌唱にみられる、ウィスパー・ボイスによって柔らかに伝えられ、それがメロディーと相まって感動の最大瞬間風速が何度も到来する。まだこう言うのは早いのかもしれないが、今回のプロデューサーを含めたチーム力と共に、テイラー円熟の技が感じられる音楽作品となっている。

ロックは本当の死んだのか?という問いには、今回も答えられそうもない。この問いは同時にポップ・アイコンとしてのテイラー・スウィフトは死んだのかという問いに重なるのかもしれない。ボーナス・トラックの「ザ・レイクス」の訳詞の最後はこう締めくくられる。《凍てついた大地から芽を出して咲いた赤い薔薇/周りにはそれをツイートする人は誰もいない/災いをもたらす愛と、打ち勝ちがたい悲しみを抱え/岸壁のプールに私が身を浸していても/そう、あなたがいてくれないと》ポップ・アイコンとしてのテイラーが死んだかどうか私たちに知るすべは無いし、その答えはテイラーしか知らない、ましてや、周りの人たちの答えなど、アメリカ人たるテイラーにとっては、まったく無意味の産物なのだろう。

最後にテイラー自身が書いた、プロローグの末文に戻ろう。

《今度、それを語り継ぐのは皆さんです。》

少なくとも、この作品は語り継がれていく、これだけは確かな事実だ。