LIVE REPORT

GRAPEVINE FALL TOUR』

2020.11.3

in オリックス劇場

 

GRAPEVINEを座って観ることも、彼らを上から臨むことも、私にとっては初めての体験だった。つまりはそれがFALL TOURの意味だった事にライブが始まってから気がつく事になる。結果的にライブハウスではないという状況は、コロナ禍で生まれた副産物だったのかもしれないが、少なくとも2020年のバインを限りなくリアルに体験出来る場だった事に変わりはないだろう。

始まりは「HOPE(軽め)」から、常々、ニヒリズムホープであり続けている田中和将らしい、この状況を捉えたチョイスだったと思う。「Arma」を挟み、そこから「豚の皿」へ流れるという彼等の慣れ親しんだライブ入門の在り方だった。

おそらく現時点で、ライブを開催しようとするアーティスト、もちろんそれを目撃するオーディエンスも含め、コロナの感染対策については避けられない事象であるようで、本公演でもそれに対しては万全の態勢をとっていた。マスク、検温、手のひらの消毒はもちろん、入場前のスマホでのコロナ追跡システムの登録と、その画面の入場前確認。客席では席の左右を一つずつ空け、前後の列はその斜め前後に座る状態となっている。ステージではこれも感染対策と思われるが、各メンバーの下にはペルシャ絨毯柄の大きな敷物が広げられていた。ソーシャルディスタンス確保と、飛沫などを直接床に付けないという目的もあるのだろうか。しかしその風景は映えるのでヨシ!としよう。

序盤では「また始まるために」が演奏され、ライブが徐々にスピードを上げていく。今回ほど“新たな始まり”というニュアンスがマッチすることはないだろう。そういった選曲だったと思う。

中盤に差し掛かる頃「報道」が始まり、レコ発などのいつものライブであれば、そこからサイケデリックとダークサイドの絵巻の様な展開をする場合が多いが、それを回避し、バインの"光"2019年アップデートの「すべてのありふれた光」でポップさにシフトした。おそらくココがこのライブの変化点だったと思う。さらに「The milk(of human kindness)」でサイケに戻るという変化球を投げてきたと思ったら、また直球の過去の名曲「そら」でポップさに再帰還し、その後に佳曲「指先」が彼等のディープな歌詞とメロディのセンチメンタルさが交差し始める頃合いを告げた。そして、一つのピークの地点に「here」が披露され、カタルシスの第一波が訪れる。曲の持つエモさ以上に、今回はエンドロールでの田中和将のシャウトな歌い回しに鬼気迫るものを感じた。

この部分については、なんというか、田中和将やっぱりめっちゃ歌いたかったんやろなと、単刀直入な感想を持ってしまって、当然私たちも聴きたかったのよ、という安易な受け答えになってしまうきらいがあった。

佳境に入り、照明が落とされ、各メンバーだけに上からスポットライトを当てた状態で、そう、おわかりの通り「光について」が放たれる。この地点でのこの曲がカタルシスの第2波になることは想像に容易いだろう。

田中和将が前に発言していたようにこのバンドは、フェス等で瞬間的に盛り上げるよりも、数時間かけて見せ場を作るのが得意なのである。毎回そう想わせてくれるのだが、今回の繰り返すカタルシスの波に対しては、号泣したくなる気持ちを抑えきれない、そんな状況だった。

本編ラストへ、「CORE」で再びサイケと色とりどりの照明の乱舞が交差し、「超える」で私たちに何かを超えてきたかのような勘違いをさせ、何かしらの麻痺を残させて本編は締め括られた。

アンコールは不朽の名曲「Our Song」が炸裂して始まり、「NOS」で再々度サイケデリックに会場を揺らした後、「ミスフライハイ」でロックの縦乗りの衝動を取り戻し、「真昼の子供たち」で鮮やかな光がギターに乗り、陽光差し込むかのごとく景色を私たちに見せて終演となった。

今回の公演を目撃して、改めてこれからのライブとバインについて少し思いを馳せてみたい。

これからのライブについて。少なくとも今のコロナ禍がいつまで続くか、確実なことはわからない。東京オリンピックまでか、新聞に掲載される都道府県別の感染者数が、全てゼロになって初めて今まで通りのライブが出来るのか、今持って確証は掴めない。それについては演る側も観る側も同じように感じているはずである。もちろん前のままに戻る事が全てでは無いし、今回見えた良い点は残すべきだ。ただ私たちに出来ることは感染対策をして臨み、あとは時が解決してくれるのを待つしか無いだろう。

これからのグレイプバインについて。3.11後の時にも田中和将は言っていたが、普段はそういうのを避けてきたが、もう少し今までよりわかりやすく伝えるべきなのかもしれないというような発言があった。おそらくそれ以上の状況が2020年だろう。伝えたくても伝えられない。そんな状況下でバンドとして何が出来るか。そして、今まで当たり前のようにバンドからのメッセージを受け取っていた私たちにそれが届かない。結果的にそれは需要と供給のバランスが崩壊した地点だと言っても良いだろう。供給側のバンドが全く供給できない状態で、需要側は飢餓感と向き合わざるを得ない。私たちに残された選択肢は待つことのみだった。

そんな季節を乗り越えて、再び巡り会ったバンドと私たち。そして今回わかったことは、観る側の渇望に勝るとも劣らない演る側の渇望があったということだ。それを顕著に感じたのは、先述した「here 」で見た田中和将表現者としての在り方だった。

ざっくり言うなれば、バインは田中和将を含めてクールな佇まいでロックをよいメロディで奏でてくれれば、私は満足なのだ。しかし、そのクールさを壊してしまうほどに、今回は観る側の私たちより、バインの伝えたい思いの方が優っていたような気がする。あのクールなバインから伝えたくて仕方がないって感情が迸り、溢れた瞬間だったと思う。

これは、幸か不幸か、アフターコロナのライブで見えた、新たなる利点。田中和将、西川弘剛、亀井亨、金戸覚、高野勲たちから何かしらの解放があった。特に田中和将に新たなココロの扉を開かせたのがコロナだったのかもしれない。不謹慎かもしれないし、勘違いかもしれない。でもこのコロナ後のライブで、確かに私にはそう感じられた。何故かそう感じたのだ。相手が新たに心を開いたなら、こちらも開いてしまうじゃないですか?それが、えげつないカタルシスに繋がったことは否めないだろう。

おそらく、バインと私たちを隔てたソーシャルディスタンスによって、結果的にお互いの心のソーシャルディスタンスが近づくという結末が用意されていたのではないか。ありがちな終わりになってしまったがそういうことである。

タナソウがポップミュージックとは聴く人ごとに別々の答えを提示してくれるものだというようなことを言っていた。バインのロックも聴く人ごとに別々の答えを与えてくれる。そして田中和将が書く歌詞が、このコロナ禍ではあたかも其れに向き合うための歌詞の如く変容し、私たちに新たな感情を湧き上がらせてくれたのだ。

今回のライブが、アフターコロナによって私たちに与えられた、ひとつのサンプルだったという見方も出来る。そう言っても過言ではないだろう。