DISC REVIEW

アーロ・パークス

『コラプスド・イン・サンビームズ』

 

-君の瞳は100万ボルト、じゃあ~りませんか?-

 

アーロ・パークスは「BLACK DOG」でこう歌う《私は君の唇から悲しみを舐め取る》と。彼女は自身の歌で誰かが救われる事に意識的なのだ。

東ロンドン出身のSSWアーロは、ネオ・ソウル、コンテンポラリーR&Bを引き継ぐ者であるが、2000年生まれの彼女はまた違った地点に立つ。つまり、ネオ発生後に生まれた彼女には、無意識なレトロ感が根付いている。さらに、これまで白人音楽と黒人音楽をクロスオーバーし咀嚼してきた彼女の音楽には、もうその垣根が存在しない洗練された音色が鳴っている。これらの相互作用によって彼女の純真無垢なソウル・ボイスが生み出された。

アーロの歌詞にも注目してみると、

《私たちの愛をジャッジして血を求める彼らの目を感じたから/ダーリン、私は決して最愛の人を責めることはしない》

「GREEN EYES」

《君が好きなものを私も好きだと君はわかっている/私はそのクソ野郎が嫌い》

「EUGENE」

の様に身近なリアリティをしたためる。それらが皆の共感を呼び、ポップ音楽としての破壊力に繋がっている。

先述の楽曲には、黒人でバイセクシャルの視点から描かれたであろう箇所がある。「GREEN EYES」では、2か月で別れたのは相手の親が黒人との交際にNGを出したからとか。「EUGENE」では、恋心を抱いていた同性の幼馴染に出来た彼氏が憎いとか。種々のシーンにアーロの恋愛観も垣間見えた。

LGBTに生産性無し発言で炎上した方がいた。今SDGsという言葉がはやり病のように続く。全ての人に救いの手を差し伸べるための、持続可能な開発目標の一つにジェンダー平等実現も挙げられる。

「HOPE」でアーロは、《そう、自分は理解していると私はわかっていて、あなたはひとりではない》と歌う。

まさに彼女はSDGs的なアーティストと言える。

『COLLAPSED IN SUNBEAMS』という題から私は夜明け前を連想する。一筋の光はいずれ夜を切り裂く、水滴はいずれ岩を穿つ。狭い通路では人々の足は滞り、密になる。だから人間はスエズ運河を広げたいと言う。

本作が誰かを救うように、あなたの瞳の光がいずれ誰かを動かす時が来るはず。

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足立佳奈

『ノーメイク』

 

―マイクをステージに置く前に―

 

本曲にはアーティスト足立佳奈vsリアル足立佳奈という視点が存在する。『まちぼうけ』と同様に恋愛ソングで、作曲はCarlos K.との共作。90年代後期以降のソウル感をもった楽曲に仕上がった。

歌詞の中には対立する二人の彼女がいる。《ああ 何ものでもない/私になれれば…/そんな話ありえないよな》はリアルな足立佳奈視点。反対に《Baby  もう忘れて今夜は/あなたの腕の中で/眠りにつければそれでいい/思い描いてた理想と現実が違っても/あなたといられるのなら》はアーティスト足立佳奈の視点と捉えられる。つまりは、サビ自体にメイクが施されていた。

最近ミニスカートの女子が多い。不景気という説を思い浮かべたが、好景気という説も。まあ、ミニでもロングでもどっちでもいいんだろう。

アーティスト生命は長きに渡る場合も短命に終わる場合もある。どちらが正しい訳では無い。双方の足立佳奈が納得できる着地点があると思うし、そこでの彼女はもちろんノーメイクだろう。

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Port Town FM

『Jumble』

 

―バナナフィッシュにうってつけの日はまだ来ない―

 

Port Town FMは夏が似合う令和のミクスチャー・ロックバンドだ。

2000年代前半のロックンロール・リバイバルによって、古典的なロックとの近接点が生まれ、それが2010年代の日本の音楽シーンに影響を与えた。オルタナティブ・ロックを入り口に、その2010年代に培われた土壌から、ギターカッティング、16ビートが日本人にも馴染みやすい音楽的要素として機能している。そこにラップ、シティーポップ的な心地よいメロディーが混ざり合った、作品タイトル通り”Jumble”な音楽だ。

夏とロックはよく合うというのは一般論で、夏を嫌うロック少年少女もいるし、私も後者の肩を持つ。昔から夏の終わりを感じる作品に親近感が湧く。無責任な私は破滅主義者でいられるはずだった、2020年までは。破滅しない前提の元で、破滅主義者を演じられることに気が付いていたはずだ。その全てが今、否定された。

ロックは生と死、青春や刹那的な事柄を歌詞に込める。《背景は海で/ファイトクラブでヒマワリ咲いちゃうくらい》《聞いてほしいよ/あの葬式のこと》「Freaky DRV」、《ニルヴァーナ聴き直し/「ライ麦畑」読み直し/変わり行く日々を/ただ眺めてた》「辛勝」。正しいロック理論継承がこういう所にある。

ロックバンドが終末を歌える限り、私たちにまだ終わりは来ないはずだ。

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くるり

 

『I  Love  You』

 

-ラブソングはくるりんぱと-

 

日本で、日本人にしか歌えない世界水準のポップソング=ラブソングを歌うのがくるりだ。

本曲は「2034」や「Liberty&Gravity」の傾向を引き継ぎながら、『songline』でのくるり節復活を経て、未発表音源集『thaw』で過去曲の再定義がなされた結果、彼らの中で今までで一番プログレで、サンプリングミュージック的思想を含んだ楽曲となった。

『thaw』で岸田繁が既発曲と邂逅し、生まれたであろう今回の見逃せない点は、《ほら なんの足しにもなりゃせんよ/ほなせんど 食い散らかせよ》という歌詞が、《子供だましで/ええじゃないか/死ぬまで続く暇つぶし/何も肥やしにせんまま/おいらに続けよ》「石、転がっといたらええやん」の歌詞にリンクしている部分。2010年と2021年の岸田繁が繋がっている。

件のコロナ過の中、数年前に過労死で亡くなった某有名広告代理店の女性が2020年をもし体験していたらという思いが頭をよぎる。無意味なifだとは承知している。ただもっとおそれているのは、感染が終息すれば、また元の世界に戻ろうとする事。彼女の一生懸命は意味があったのか無かったのか、その答えが出ないまま変わらない朝を繰り返す。

《杯になる/灰になれ/I LOVE YOU》絶対的だったものが崩壊し、新たな矛盾が私たちに突き付けられた中でも、くるりは変わらずラブソング歌う。杯になろうが、灰になろうが、実は何の足しにもならない事を知っているから、どちらにも愛していると言う。絶望に振れようが希望に振れようが、最後にはラブソングという真ん中に戻ってくる。何故ならそれがポップソングの歌い手としての宿命だから。

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GRAPEVINE

『Gifted』

 

―悪乗りジョニーは死んだ―

 

是迄の世界は例の件で唐突に幕を閉じた。可能性の光は幾つも消え、SNSは偽りの絆を示したまま明滅している。世界を嘲笑した悪乗りジョニー、バインはここにいたはずなのだが。

冷や水をかけるような田中和将の歌詞と亀井亨のエモーショナルな旋律が交わる鉄板のスタイルで、音数の引き算に即した近年のバンドアンサンブルとは異なり、2008年頃の彼らを彷彿させる密に徹した音像のロックを繰り広げる。

宮崎駿は90年代に、世相の動きに追いつけるよう、自身の映画作品の中でより難解なモチーフと対峙していった。2020年、表現者は自ずとコロナというモチーフに向き合わざるを得なくなった。バインはどうか。もちろん向き合っていた。しかし、《ここでそれを嗤っている者/どれもこれももういい》の歌詞で、何かが終わった事を知る。

松本人志は、罰ゲームはパワハラではないという。何故なら自身も罰ゲームを受ける側に立つ事があるからだ。戦う人の横で笑っていたいと言った田中和将がついに自らにも冷や水をかけた。バインはこの曲で、バイン自体を対象化し、過去のバインを否定する。恵まれていた世界は終わりを告げるのか?それでも、僕らなら。

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CRYAMY

『CRYAMY-red album-』

―最期はロックに救われたと言って死にたい―

ロックはまだ生きている。

20年代の日本で酒と女とロックンロールを体現出来る若手バンドがCRYAMYだ。

荒くれた事を歌っている訳ではなく、たわいもない事をサラッと歌詞にして結果的にそれがロックとして響く。これはカワノと類は友を呼ぶ三人が必然的に鳴らした結果だろう。そしてロックの宿命か、触れれば一瞬で崩れてしまう危険性を内包し、少し未来にはもう存在しない様な儚さを醸し出し進んでいる。

しかし意外にクレバーなカワノも存在し安心も出来る。《くだらないことを歌にする愚かさだけがこれから先の生きる道》「兄弟」。この歌詞から彼のブレない軸を感じる。

この赤盤でクレイジーでクレバーなカワノが歌う事は世界平和ではなく、目の前にいるあなたを救うために変わりたいという事だ。

《昔褒められた「優しさ」は/つけこまれるだけの欠点にしかならん》「鼻で笑うぜ」そうなってしまった日本が「完璧な国」になるまで、彼等には歌い続けてほしいのだ。

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佐藤 千亜妃

『声』

―タイムライン・タイムラグ―

名曲の定義の一つは時間を止める力がある事だ。音楽を聴いていると時間は永遠に感じる。それは何故かというと時間が止まっているからなのだ。

きのこ帝国の「東京」は名曲だった。改めて何故名曲なのか考えると、ポップさと夏の息苦しさと胸を締め付ける切なさが、時間を止めていた。まるで名曲の性であるかのように止まった時間はそのままに。

その時間をもう一度進められるのは言うまでもなく佐藤 千亜妃で、「声」はその為の曲になりえる。

《いつもより寒いのは/春の夢を見たから/モノクロの温もりに/ゆらゆら揺れてた》というブリッジの歌詞。希望的な“春の夢”を寒いといい、“モノクロ”に温もりを感じるという逆説的視点は、彼女のアイデンティティを表す。

名曲であれば、また時間を止める。でも大丈夫。この曲も“声が聞こえていた頃”を歌っている。彼女は常に“~前”のことを歌う。そのタイムラグがまるでクロノスタシスのように存在し続けている。