DISC REVIEW

RQNY
『pain(ts)』


ー片手落ちの世界で歌う意味を問い続けるアーティストたちー


今のロック・アーティストの主題とはロックを歌う意味を考察する事にある。ロック自身が歌う意味を問う必要があるという、なんだか分からない世界だが…今まさに分からない世界の入り口に立たされている私たちには、逆にしっくりくるのかもしれない。そういう摩訶不思議な瞬間にこそ、RQNYというロックに向き合う1人の音楽家の必要性を感じざるを得ないだろう。

音楽的に広義な意味での引き算の有効性が示されたのは2010年代のポップにおいてだった。その意味とは別にRQNYの音楽には引き算が存在する。この7曲を聴くと、レディオヘッドが切り開いた2000年代のロックから、その有効性を引き継いだトラップとマンブルラップの傾向。もう一つの流れはシガーロス的なポストロックのニュアンス。それらを削ぎ落とした結果の弾き語り、ピアノとダブ・ステップ。現代性を魅せる為のK-POP的色彩感。今ロックに向き合った場合の引き算の体現とは、こういう事なのだろう。

ロックがどうであれ、フェスはフェスティバル、祭典で無くてはいけない。祭りの中では、犯罪や違法行為以外であればフリーダムな場所であってほしい。つまり、日常では無く非日常であるべきなのだ。だからマスクをするフェスは日常の要素が入っているので、まだ完全な祭典とは言えず、復活に向けた助走期間と捉えたい。私たちはマスクをしない本当の意味の祭典を待っているのだ。

じわじわと痛みが世界を侵食しつつあるにもかかわらず、ロックが直接的に痛みを伝えることが難しくなってきているのではないか?そんな今を、片手落ちの世界と呼ばずして何と言おう。不完全な世界でRQNYはロックで痛みを伝える事を持続可能にしようとするアーティスト…まさにSDGs的。いや、何も今に始まったことでは無いだろう、世界は昔から不完全で、完全なのだ。ーーーもちろん、それは、これからも墨塗り教科書を真実だと信じ続けられればの話だが。

DISC REVIEW

YUSUKE CHIBA -SNAKE ON THE BEACH-
『SINGS』


ー最適化の中心でチバユウスケが叫ぶ。そのスタイルから見えてくるのは、決して死なないためのラブソングを歌う事だったー


チバが歌えばすべてチバになる事をチバニアンという。もちろん嘘だが、
「BEER & CIGARETTES 」でチバが飲み屋で語り合う会話をバックにしたインストナンバーで、地表深くについて発言していたのは単なる偶然だろうか。何れにしても、彼の音楽の無次元化係数が同じであればすべての答えは正しくなる。しかし、チバで無ければ、すべては成り立たないのは言うまでもない。

そんな、正解を導き出してきた係数に少なからず揺らぎが生じてきている。何故だ。原因はそう、最適化された世界においてロックとは?という議論はこれから必ず生まれくる。その議題において、チバのロックの係数が不正解を導き出す可能性を示唆し始めた。そんな予兆を察知するかのように本作は、冷たき格好良さを表す「ムーンライト」「星粒」「ラブレター」「M42」と、熱き格好悪さを表す「星の少年」「ベイビーアイラブユー 」とが、明確な対比構造を成して『SINGS』を形作った、まるで何かに抗うかのように。

ロックにおいてラブソングとは常に死と隣合わせなのだ。それは今作の歌詞を捉えればすぐにわかる。常に相反するものが共存し合う場所にロックとは生まれてきて、かっこよさとかっこわるさはいつも同居していることが必然なのだ。また、ダサさの極致に本音とは存在する。

先の話と矛盾するがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとはかっこよさの極致だった。かっこわるさがひとつも存在しない、そして、チバとあのメンバーでしか成り立たないものでもあった。もちろんそこにある係数もたったひとつで、変える事は許されないもの…そう、だから無くなってしまった、のだ。ーーーこの作品でチバは、チバの音楽たらしめている定数を改竄した。この最適化された世界で、無次元化の定数を変えてまで伝えたい事があった。それは何か。音楽で死に向き合ってきた、チバユウスケだから歌える、決して死なないためのラブソングを歌う事に他ならないだろう。

DISC REVIEW

カワノ
『冷たい哺乳瓶』


ー正常と異常の狭間にあるカワノ時間の正体ー


この作品はCRYAMYとカワノの間に存在している。バンドが異常を表現し、彼の中には正常な視点があるとした場合、その間の空間に位置するのがソロ時間なのだ。つまり、その狭間にある音楽を表現するために作った、とも言える。今作に「道化の歌」という曲があるが、本人名義である事で、より意識的に道化なる視点を描けたのだろう。

また本作によってバンドの音楽的な骨格が明確化されたとも言える。フォーク、ポストパンク、ロック、パンク、ネオアコ、60sポップ。ザラついたテクスチャが感じられる楽曲が並び、最終的にすべて削ぎ落とした「白旗」。ソロの特色を感じるより、むしろ、良くも悪くも結果的にミニマルなバンド感が表出したと言える。

哺乳瓶の適温は36〜40℃らしい。タイトルの冷たいという表現から、冷たい哺乳瓶で育った人=異常というロジックを作りたかったのかもしれない。カワノはというと、抜群のバランス感覚で異常と正常を渡り歩く。《わけアリの人らを慰めるためだけに産み落とされた歌が砂の粒ほどある》「僕たちは失敗した」と《止まったらちゃんと殺してね》「道化の歌」の歌詞から、カワノが如何に自己批評性を持ったアーティストであるかが分かるのではないか。

正常と異常の狭間にあるカワノがここで歌うモノゴトは、実は色んなところで同時多発的に存在している。正義と悪、性差、希望と絶望、成功と失敗etc.ーーーその間にある圧倒的なグレーゾーン。つまりどちらかを選ぶ事も出来ず、選んだところで、正解不正解を受け取れるはずも無い。そんな不条理な世界で、カワノは二項対立を真っ向から否定し、完全無欠な正解を手に入れる。その是非など知らん…。それが此処に存在するカワノ時間の正体だ。

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汐れいら
『タイトロープ』


ー 一筋縄ではいかない承認欲求SSWとは誰? ー


汐れいらが目指すSSW像っなんだろうかと考えてみると…やっぱりグラマラスなSSWという例えしか思いつかない。佇まいはグラマラスから離れてはいるけど。『タイトロープ』の歌詞に桑田佳祐的方法論が潜んでいる事も関係しているかな。これを女性が歌う事に意味があると言っていられたのは、少し前の事で。それさえ多様性の中では普遍の渦に飲まれていく。では、彼女がこれを歌うのは、彼女がアイコンの対象になる為だけのものと言えるだろうか。

昨今、J-POPに足し算し続けるネオSSWという視点が出てき始めている。彼女のこれまでの楽曲も、ソウル、ヒップホップ、ブルースの要素を足し算している。そこにK-POP的なポップさを盛り込んだりも。曲が良くなる為なら方法を問わず盛り込み、行間を埋めていく。それが彼女の曲の美しさを際立たせている事は確かだ。

美しい世界は何処だ。スピッツ症候群を引きずるSSWたちはそう呟く。彼女もおそらく、スピッツ症候群のひとりだと思う。美しさを追求する為、スピッツ的な美しさを模索し続ける。果たして追いつけるのか、いや、その前に草野マサムネの中にもわだかまっているだろう…美しい世界とは何処に?そんな届かない美しさの捜索は、もしかしたら徒労に終わるのかもしれない。90年代に存在していたスピッツの美しき楽曲達はもう届かない墓標と化してしまったのか。もちろん彼らが悪い訳では無い。そもそも、美しい世界は死んだ、のだ。

私たちは承認欲求から解き放たれる事が出来るか、まずそれが問題だ。世界は今、承認欲求を満たせる者と満たそうと努力する者、それとは別に承認欲求自体から逸脱する者の三様に分かれている。そして、今私たちが目の当たりにしているのは、承認欲求を満たせる者を満たせない者が罰するという構図。そんな中で、汐れいらの役割とは…もちろん、いま出来る最適解をポップに落とし込む事だろう。少なくとも彼女は、一筋縄ではいかない承認欲求SSWという偶像を既に背負ってしまったのかもしれない。

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ART-SCHOOL
『Just Kids .ep』


ー柔らかい君の音とは木下理樹自身の声だった。それは新たなループの始まりになるだろかー


唯一欠落したものは何だろうか。今作に置いて、アートスクールの過去と現在とのリンク点を抽出すると「Just Kids」には初期のパンクさと後期のBPMの傾向があり、「柔らかい君の音」には初期のメロディアスさと後期のポップなリズムが混じり合っている。はたと気がつく、木下理樹の喪失感自体が喪失していることに。

これまでのアートを振り返ると、初期のハードロックやメタル、USインディーロックをギターロックに昇華したもの。第2期のテクノ、ダンスミュージックやファンクな要素を取り入れた1番コンテンポラリーだった時期。現体制になって、改めて木下理樹の原点に帰るようにグランジロックの体現。その後バンドとしての継続を占うようにメロコアエモコアのポップさを纏う方向にシフト。ようやく今作で、過去と現在を繋げて循環したのだと思う。つまり、アートは変わり続けてきたけども、またもとのアートに戻ってきた、音楽的には。

無次元化すると、ある係数を入れれば自ずとアートになる。アートは自身を無次元化し、存続してきた。その係数とは喪失、ずっとそう思っていた私。何故なら「In Colors」の無次元化の数式は、明らかな間違いだった、もちろん駄作という意味では無く。公式の係数が過剰だったのだ。おそらく係数に入れたポップさの程度が甚だしく、継続的使用は不可。その代償により木下理樹は休養せざるを得なかったのかもしれない。

再びアートは二周目に向かうが、そこに喪失というキーワードは欠落し、ポップさの多用も危険ときている。では、これからのアートはどこへ向かうだろう。少なくとも本作が生まれたことで、バンドは新たなループを描き始めている。そして、その円環の終焉を防いだのは紛れもなく木下理樹の歌唱。唯一なんの喪失も無い、そのまんまの彼の歌声が、このバンドの存在意義でもあるのだ。

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tacica

『singularity』

 

ー不確かなものを確かにするためにtacicaが選んだ10年後の景色とはー

 

悔恨からの懺悔、そして贖罪へ。『Jacaranda』から受け取った、その想念こそ、カタルシスの要因であった。00sの日本のギター・ロック、その1ピースとして、私にとってtacicaは必要不可欠な存在だった。しかし、出会いがあれば別れもある。『Sheeptown ALASCA』以降、彼らと距離を置いたのは確か。理由は私個人の飽き性か、時代の必然なのか…。言い訳をしておこう。正しいものであればあるほど、好きなものであればあるほど、人はそこから一度、離れなくてはいけなくなるのだ。

時代のせいにするなら、日本のロックの価値観は3.11で一度分岐点を迎える。それによって陽性判定となったバンドは方向転換を余儀なくされた。だが、彼らは陰性だった。では、何故。強いて言うなら、正しすぎる事は時に罪になるという事だろうか。その後の十数年は、猪狩翔一のメロディメーカーとしての力量を武器に、J-POPをパンクに消化し続ける事で、バンドとして生き残ってきたと言える。

屯田兵の末裔はカムイに背き続ける。無駄にこじつけてみた。十数年前、彼らは北のバンプと呼ばれていた。今、敢えて共通点を探すなら、どちらも無神論的な思想を持っているという事だろうか。一つの正しさにこだわり、神を信じず、tacicaはサバイブしてきたのかもしれない。

tacicaが語る話には常に救いがあった、それが懺悔から始まるものであっても。だからこそ、逆に息苦しくて一度離れてしまった。絶望的なものをパンクで表現するバンドには短命が付き物だが、彼らはまだ延命し続けている。十年余りが過ぎ去って、懺悔から始まった景色は今、何処に到達したのだろう?ーーーいや、そうじゃないのだ。それが“デッドエンド”の歌詞でわかってきた。《来た場所へ帰ろうとして辿り着いたのがこの場合だっただけ》これを、受け手側の視点と捉えてみると。そもそも、彼らは何処にも旅立ってなどいなかったという説が私の中で浮上してくる。彼らがずっと続けてきた定点観測、そこにこそtacicaが掴んだ確かな景色があるのだと。

DISC REVIEW

DIR EN GRAY
PHALARIS


ー過去のDIRの住人が求める答えと世界がDIRに求める答えが遂に交わる時ー 


ーーー世界がDIR EN GRAYに追いついた…と先ずはパロってみよう。そんな常套句を使うまでも無く、本作が彼らの最高傑作である事については露程も疑いは無いのでは。特に、アルバムとしての完成度が過去最高という意味に比重を置きたい。低音と高音及び強弱、BPM、曲とトータルの長さ、そういった音楽を司る全ての要素がフィットしている。DIRがこうあるべきという姿と完璧に合致し、且つ2022年の時代性に即したポップとして鳴るべき音が体現されている。

何故そこに至ったかと考えてみると、やはり、V系へのラブソング作『ARCHE』とロックな肉体性の解放作『THE INSULATED WORLD』を経た事が重要だったのだと、今更ながらひしひしと感じている。簡単に言うと、前者は昔からのDIRの住人に渇望される音で、後者は世界がDIRに求める音である。つまり、その行程を終えた事で、どちら側も満足出来る折衷案というべき答えが提示できた。それが本作だ。

神回を作るべからずと言っていたのは、松本人志である。音楽家も同じ運命なのは言わずもがなかな。しかし芸術家たるもの、そうは問屋が卸せるはずもない。DIRの神回は『UROBOROS』を最大瞬間風速とする前後の作品辺りだと私は考える。遂に今回、それを更新したと言っていいだろう。神回を作ることほどアーティストが自身の首を絞める罪深い事はないというのに。

10年に一度の傑作を作る罪と罰とは…
もちろん罰は、敢えなく昇天してしまう事への恐れ。しかし、もちろん彼らもわかっているのだろう。バンドとして長くサバイブする方法は色々ある。自身のパロディ化や自身を批評対象化するなどなど…。今回、彼らが罰をすり抜けるために選んだ方法とは、DIRの音楽自体を様式化し、今、求められる音に最適化すること。ロックの様式美は罪深いが、処世術であれば必要悪なのである。幸か不幸か、先住民と開拓者の双方が許せる答えが最適化されたDIRだったのだ。結果的に、彼らの音楽の蘇生法にもなっているという、個人的に一番嫌いな言葉だが、三方にとってWin-Winな答えなのだろう。本作が最高傑作である一番の理由、実はコレだったりする。