LIVE REPORT

GRAPEVINE
「GRAPEVINE SPRING TOUR」
@Niterra日本特殊陶業市民会館ビレッジホール
2026.5.5
LIVE REPORT

私がこの会場でバインを観るのは2021年7月3日以来。個人的にはその土地ごとのバインのライブの違いみたいなものを掴んでいく事をテーマに2026スプリングツアーを観てきた訳なのだが、5年ぶり位に同じ場所でバインを見ることと共に今回の名古屋でのライブの特色をお伝え出来ればと思う。

定刻通りにステージに登場したGRAPEVINE。こんちはー!名古屋ぁー!と田中和将が挨拶し(まだ、こんばんは!では無いだろって事を後のくだりで話す)このツアーのお馴染み「いけすかない」からスタートした。このスプリングツアーはレコ発とは違いセトリには殆ど変更がないからこそ、その場所なりの特色を見つけていくことに意味合いを感じていたりしていた。

名古屋でのライブという点だけにフォーカスして言うならば。名古屋でのロックのライブは盛り上がる、と個人的には思っている。何組かのロックバンドのライブを名古屋で観てきたけど、関西とも関東とも少し違ってて、実はロックへ向き合う姿勢みたいなの、その熱量が一番大きいのでは?と感じていたり。言うまでもなく、バインも御多分に洩れず盛り上がるのであった。

今回、各ツアーでの最初のMCは「天使ちゃん」終わりだった。田中はいきなり"Kinki Kidsと同期のGRAPEVINEです"みたいなボケをかましてきた。デビューが同じらしく、同日同じ建物の別ホールでENDRECHERIの公演が行われていたのでそれをネタにしていた模様。そんな大したことのないMCの一場面だった。しかし、それがこの日のライブのキーワードになっていたみたく。そんな安易な捉え方と思われるだろう。普通のロックバンドならあえて触れないだろう。しかしGRAPEVINEというバンドはそんな安直なネタを主題に置いたとしても最高のライブをしてしまう。そういう稀有なロックバンドなのだ。

この日のアクトの特筆すべき点としては、やはり「猫行灯」終わりからの「411」、「青い魚」、「ドスとF」、「Gifted」この流れに組み込まれたチルアウトを含む。がハイライトと言えるだろう。しかしながら東京公演と比べ重すぎなかったような、そんな印象を受けた。なんとなくだが、こどもの日に即したバインなりの配慮があったような気がする。その配慮が結果的にこのパートをロックに振れ過ぎず、古典にも触れ過ぎない展開を作り上げていく。今回のチルアウトは東京公演とは少し異なり、電子音が水音といったイメージでなく、吹きすさぶ風の音となっていたよう。それがこの流れの世界観のディープさを軽減し、その先の展開への伏線になっていた気がする。

先に書き忘れたが「雀の子」の田中語りはリズム通りに"おんどれ"フューチャー、おわりはハッキリ"うどん"付きだった。そして「実はもう熟れ」の"アモーレ"はメロディに沿った美しき展開に最後ブルースシャウトおわりだった。ーーー斯くしてライブはクライマックスへ向かう。続く「ジュブナイル」の爆発力たるや、どの公演にも増して此の名古屋が一番凄まじかった。「my love,my guys」の盛り上がりもピカイチだった。しかしバインってこういうロックバンドなんです、という証明は「ジュブナイル」この瞬間でしか成り得なかったはずだ。

この日のアンコールは趣向を変えてきた。お馴染みの「smalltown,superhero」からの…「さみだれ」だった。田中のアコースティックギターが切なく響くこのシーンは明らかにディケイド・ツアーを彷彿させる。このタイムラインを超えた2つの曲によって(「smalltown,superhero」はディケイドの範囲の前「さみだれ」はその範囲の最後部にあたるだろう)与えられたものは、いかにも、そのギターと共にまざまざと鳴っているかの如く、先述した"風の音"だったのだ。その美しき調べの背景に存在する"風"そこから受けた想念、それは私にとって忘れ得ない瞬間でもあった。

本日のまとめ、として今回のレポのテーマであるロックバンドの名古屋公演は盛り上がるという説について。つまり名古屋という地に集まる人達の多数は、ロックをエンターテイメントとして理解していて、ライブにおいてのアーティストからのアプローチに対してのコールアンドレスポンス、その瞬発力が高いんだと思う。だからこそ極端にロックのシリアスな側にシフトしたり、古典に特化したアレンジにしなくても受け入れてくれる。となりのホールのアーティストをMCに取り入れても受けて入れてくれる。「411」を少し楽しいファンク寄りにしても受け入れてくれる。そんな信頼度が名古屋にあるような。だから今日のバインはメンバー全員安心していたような。そんな雰囲気があったし、田中はちょいエンタメ側へ、はちゃめちゃにしても名古屋なら許してくれるよねみたいな。そこには特殊なアーバン感さえ漂っていた気がした。

そんなこんなで毎度の「Alright」で締め。まさに、こどもの日に相応しいGRAPEVINEとオーディエンスが特殊な和で繋がったような、煌びやかなロックエンターテイメントとして終幕したのであった。

 

LIVE REPORT

GRAPEVINE
「GRAPEVINE SPRING TOUR-extra show」
@LINE CUBE SHIBUYA
2026.4.29
LIVE REPORT

なんやかんやで東京でGRAPEVINEを観るのは自分としては初めて。バンドは水物みたいに粉もんは大阪みたいにバインは関西のバンドという感覚はまだ持っていて。結論から言うと今日のライブを観てこの人たちはやっぱり関西のバンドだなと改めて思った次第。もちろん音楽性からしたら全然関東に受け過ぎる音を鳴らしてる人たちで前々からバインのライブって西より東の方が盛り上がるのでは?という想念をずっと持っていた(これは音楽評論家やライターが言うライブの善し悪しとはまた別の視点で)ある意味バインのライブが東京一局集中でないという事が自分の目で確かめられた事がこの日の収穫ともいえる。大阪では大阪の良さが博多では博多の良さが、バインのライブでは出ている。何を今更って言われる方もおられるだろうが。でもこれってやっぱり首都東京のライブを観ないとわからないんですよね。関西圏出身のバンドが東京でやるスタンスみたいなモノが、ーもちろん今日はスプリングツアー東京でのextra show。1日目が全然違ったライブになっていたんなら私は観れていないのでなんとも言えないが-いちおう2日目も同クオリティのものを大前提として。分かったことは(ライブも水ものなので毎回違うモノというお達しは承知の介)。このGRAPEVINEってバンド、少なくとも田中和将はまだ関西を背負って音楽しやがってるんかということ。(今日の田中の白シャツにもその感じが出てた?)そんな古風な事をって思いましたか。ロックって古風なものなのよ。私の事だからどちらでもいいんだが、一応誤解があってはいけないので断っておくと、この文章書いてる人めっちゃ関西至上主義なの?と思われないように。関西圏にいるけど《あの夏を/そういう街を/愛せる事に/今更気付いて》にも辿り着けていない人間が書いています。

さて前置きが長くなってしまったが、このロックの聖地渋谷公会堂(あえてこの古風な名称で)に相応しいバインとしてのロックが提示されたライブとなった。始まりはこのスプリングツアーの最初から「いけすかない」からだ。そこから「天使ちゃん」まではバインのライブ序盤のいつも通りのゾクゾクが感じられた。少し違ったのはやはりこの会場の特徴からなのか?2階!3階!が垂直的に位置する建築みたいなので高音がすごく上に飛んでくるなという印象をもった。そしてココでも珍事件がおひとつ。「雀の子」前に少しいつもより長い間があってからの。田中が気づいて、あっそうか俺が喋る番かっていうくだり。これも珍しいのでは。このスプリングツアーはやっぱり最初から何かの時間軸のずれがあった。吉兆ということにしとこう。そしてMCでは田中が予習して頭に入れてきたという『Circulator』再現ライブツアーに関連する様々なリイシューの紹介があり、ちょっと間違えてるところもあるかもしれんけど、知らんけど…という大阪のノリがあり。演奏が再開と思いきや、ふたつめの珍事件が。「雀の子」のインストの印象的な電子音を鳴らす部分だろうか。亀井亨のドラム内にある電子パッドみたいなのを操作するのに1分程度。うまく行かずお馴染みのアフロヘアのスタッフ登場。そこで田中がおもむろにMCを続け、今日は最初からよく喋れていて調子が良く気持ちがいいんですよ〜今日のライブはいいものになりそうな予感がすると話してくれた。こういう事言う田中も珍しいね。少しして不具合が解決し、亀井が手を挙げる。すると田中がやっぱり最後に信じられるのは人間やね、みたいな。ITは信じられないって事をいいたかったんだろ。これは苦笑いするしかないだろう。そして演奏が再開した。

ーーほんとに今日はこの場所に相応しいロックに寄り添った公演だった気がする。いつも言ってない?と言われてしまうかもしれないので出来るだけ違いをお伝えしたい。「雀の子」の間奏田中語りの"おんどれ"は曲のメロディに沿って呟かれるスタンダードタイプで進みつつ。この日のロックに寄り添う予兆は「ねずみ浄土」のドラミングからあった。ただこれは偶発的なものかもしれない。この会場は高音が響く。そしてどうやら強弱の強の音も良く届くようだ。だから亀井のドラムの強の音もいつにも増してロックの側面を強めていた気がする。そんな偶発的な面も相まって、必然的にバインから仕掛けたのは「どあほう」だった。この日のこの曲は90sパワーポップだった。そういう見方もあるだろう。でも今日はあえてロックに寄り添う意味を持たせていたよう。つまりそれが陽性の側面を持っていたということ。その陽性のモードに一番合致するのがその次の「君を待つ間」そのモードを続ける為にこの曲が機能的に配置され、続く「光について」でその対極を描く事でこの日の曲順に意味合いを持たせていた。よってこの日の「猫行灯」の為す意味も「光について」との対比では無かった。先述したロックに寄り添うというテーマを築くように存在感を出し尽くした。結果この日の「猫行灯」はライトアップの演出も含め明らかにヘヴィロックとして鳴っていた。そういうロックな重さがあった。そういった意味合いで、次に鳴る「411」もそれに関連付けされていたような、バンドとしてこの日のアレンジに何かしらの公式が存在していたかのように。いつにもよりロック×ジャズの側面を増した事はフュージョンの意味合いを出すことに繋がっていた。そんな曲の終わりがけに鳴るポツポツという水滴の様な電子音。つまり、ここから水物つながりが繰り広げられる。その継続でなる「青い魚」は明らかに水を得た魚のように私を揺さぶってきた。この曲を例えば水物つながりで小雨と捉えたならば、「ドスとF」は雨で、それをこの曲のダンスビートが成り立たせていた。そんな4つ打ちが渦巻く流れからいずれは豪雨になる。そんな景色にピッタリなのが「Gifted」この曲がロックという機能性を最大限に活かして私たちの感情を水まみれにしたのではないだろうか。その曲終わりに会場全体が拍手をするのを忍びないと思ってた感じよかったな。実は東京公演で一番良かった点かも。そんな会場の空気を察知したように、ステージにライトが灯った後、田中がまぁそういった感じで…とはにかんだように。あまりにも重たくし過ぎた?みたいな感じで、おとしたあとはあげますのでっと茶化してフォローを入れてくれた。この田中の言葉が陽にするということに通づると思う。そこから『Circulator』の再現ツアー関連の続報MCがあり、そのツアーはギロッポンやから渋谷民の皆さんはさらにおめかしをしてとニヒルなツッコミから腰に印籠でもつけてとかなんとか。いや古風すぎるだろ。あっそうだ、初めのMCで田中は渋谷〜と叫び、江戸〜って叫んだ。古風過ぎるだろと思ったがこのための伏線だったの?いつもの、もうお前たちの顔は見たくないぜーといい始め、いや、今年はそうやなくてバンバンやりますんで、よろしくとの事だった。こういう田中も珍しいような・・・。そんなこんなで、同じように古風なリズムアンドブルースのそれを体現しつつ、先のMCで言った様に陽性にあげてくれる「HOPE(軽め)」でライブは佳境へ進むのだった。

そこから本編ラスト「望みの彼方」まで怒涛のバインが繰り出す多種多様なロックだったことは言うまでもない。それに実際に揺れた人も心の中で揺れた人も含め、揺さぶられなかった人はいなかっただろう。ふたつだけ特筆すべき点があった。それは「ジュブナイル」はどの会場でも盛り上がる必殺仕事人級のバインのロックだったことと。「my love,my guys」は博多、大阪よりも会場の一体感としては乏しかったということ。ただこれは皆が感動してなかった訳ではないのだと思う。おそらく関東付近の人たちがバインに向き合う姿勢みたいなのが良くわかるサンプル的な観点と捉えられるのかもしれない。どうやらアンコールは1日目と違ったようだ。連続で参戦する人への配慮だろうけど、どちらの曲もその代替えした曲と同系統、つまり田中の歌詞の持っている視点が同じものにシフトしたと言えるのでスプリングツアーのアクトとしての意味合いは変わっていないと思うのだ。

GRAPEVINEってやっぱり関西のバンドなんだよなってこと。そういえば、行きの新幹線名古屋ホームにて。有名な立ち食いのきしめんを食べる前、田中は名古屋より東のうどんは食わんとか発言していたなと、思い出したりした。その時は深く考えていなかったけど、どうやらこれってかなり真実味があるのかもしれん。だから「雀の子」にもうどん出てきたし。関西圏にいながらうどんのこだわりとか全くない私など関西人の風上にもおけんのだろけど。関東とか関西とかその違いの事とか古風過ぎん?って思ってますか?確かにそう。でも、バインは今年『Circulator』という古風な作品の再現ツアーをするのです。そして世界はまだ戦争してるんですよ。古風すぎやしませんか?関係ない?
《武器は要らない/次の夏が来ればいい》とバインは歌う。さあ夏が来るよ。でも世界の戦争は終わらんよ。こわいね。でも、25年前に『Circulator』をレンタルしてカセットに録音して聴きまくっていたのがバインのアルバム体験の最初だった自分が、再現ライブを観たらどう思うかの方がもっとこわいわ。

LIVE REPORT

GRAPEVINE
「GRAPEVINE SPRING TOUR」
@福岡市民ホール中ホール
2026.4.11
LIVE REPORT

SPRING TOURニ箇所。個人的には博多でGRAPEVINEを観るのは初めて。その点も楽しみだった。大阪と同様に「いけすかない」から「SUN」へ。このツアーが『LIFETIME』の楽曲を主体にした懐かしいバインを感じられるものになっていることは変わらないようだ。そして、田中和将がギターを置き、お馴染み?のポーズをすれば「天使ちゃん」の合図。定番になっているこのT字のような、象徴的な天使像か、はたまた十字架とキリストのような。結局どういう意味か私は分かっていないのだが、田中特有のニヒルな笑いの象徴なのかもしれない。

MCで田中が、ツアー初日大阪でのマイクトラブルの事を笑い話として伝えてくれた。会場に歌い声が届かず、最初自分だけ気持ちよく歌ってたんやと。件を次の会場MCで言うってよっぽどの珍事件と捉えてる?と思った。だから逆説的に今のバインっての何かを伝えたいって熱量が半端ないんだろうな。まぁ、アーティストとしては当たり前の事かも知れないが。今年でバインがデビュー29周年、肉の年。年齢的に肉があまり食べられないとか言ってる場合ではないので、ガシガシ肉を食べて行きましょう、とかなんとか。まぁ言う事と言ったらそれくらいですかね?とニヒル笑い誘いを挟み。では29周年めでたいという事でめでたい曲を!で「雀の子」。めでたさのリンク点が見つけらずにいたが、ライブ中に先日読んだ新聞で紹介されていた小林一茶の俳句を思い出し、"雀の子"は春の季語らしい。だから田中はスプリングツアーに相応しくめでたいという意味で使ったのだろうと後で納得した。その新聞のコラムで知ったのだが「雀の子」の歌詞は小林一茶の俳句が元ネタだったみたい。多分グレイプバインマニアならググってすでに承知かもしれないし、もっと年配の方なら定番の俳句らしく知らなかったんですか?と言われるかもしれないが。一茶の俳句に「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」と「我と来て 遊べや親のない雀」という俳句がある。田中が自身の曲で雀の子を自分とリンクさせている事は田中のパーソナルな事柄を知っているファンにとっては発想しやすい点ではあったが、ここに小林一茶という隠しカード的な伏線が用意されていたとは。田中和将にイッポンとられた気持ちになったのである。そういえば、間奏の田中呟きさしこみはこのツアーからか?"おんどれ"一辺倒の展開になっていて、まろやかでヨシという感じだった。

亀井亨のパーカッション的な印象を醸し出す象徴的なドラミングがくれば「ねずみ浄土」だ。田中が手を亀井の方へ差し出し、皆さんドラムに注目とジェスチャーで伝えてくれた。今日は2階席から、特に舞台からの直線距離が近いので俯瞰的によく把握する事が出来た。ここは福岡市民ホールの優れた点かもしれない。見せ場で田中が合図してくれる"本日のアニキ!"はもう定番だが、今日の「いけすかない」の西川弘剛のあのギターソロの時の紹介もさることながら、それを含めた29周年よろしくを込めたメッセージはやっぱり地方ならではの熱量を感じとれた。

一呼吸おき「どあほう」からはあえてロックの側面を強めに出すシーンだった。バインにとって過日のディケイドショウはあえてロックな側面を全開にしないという特徴があったと思うが。昨年からはあえてロックというテーマに移行しつつある。あえてというのはバインがロックであるのは承知の事実だが、むしろほんとのロックってなんぞやというのがわからなくなっている日本の音楽業界において、広義的な意味でエレキギターをガンガンでブルースをドカドカする事でバインがロックのわかり良いお手本を示す事が役目になってきているという事にも起因しているのかもしれない。

この日のアクトは「光について」と「猫行灯」までが第一幕だった。ファンキーな「411」からはバインにとっての古典との邂逅のシーンで構成されていた。これは普通のロックバンドがする様な古典を取り入れるというものに終始することでなくあえて古典に近づき過ぎるということによって新しいアレンジにたどり着くというものだった。自分的なハイライトはその後の「青い魚」だった。これがハイライトという視点はほんとに個人的な見解である。大阪公演の時、私は昭和歌謡の古典として向き合うならばという括りで書いたが、昔『Lifetime』に収録されている「青い魚」を聴いたとき、作曲:大瀧詠一という表記に納得してそれ以上深掘りすることはしなかった。しかし今回セトリに選曲されたことであらためてググってみると、作詞作曲とも金延幸子と出ていた。どっちなん?まぁそれはさておき、この方は大阪出身でアメリカ在住のフォークシンガーだった。となると昨年の大阪でのサマーショウが思い出される。コテコテの大阪のノリ、その中から炙り出された港町ブルース。おのずとその港町というキーワードが博多の街とリンクするのだと察知した。もちろん正確な音楽的ジャンルでフォークソングとブルースは完全に一致はしないけど、この金延幸子の歌には明らかにブルースの哀愁がある。そして同じ港町博多で鳴る「青い魚」は何かしらの共振点があり、それに私が揺さぶられたのではないかと想像してみる。勝手にあんたが揺さぶられただけやろと言われるかもしれんが。この曲歌い終わりの田中の雰囲気も独特だった。なんか、ハイ。どうでっしゃろ?みたいな。わかりますよね?みたいな、完全な妄想だが。私は分かりましたよと答えたかったかも、みたいなイメージでした。先の古典との邂逅の話に戻す。とはいっても「Gifted」はその限りにあらずだった。しかしながらロックの単純に音としての破壊力とバインの歌詞とメロディのエモさは類をみない地点にあったと思う。だからこそ「HOPE(軽め)」のリズムアンドブルースの古典に向き合った姿にほっとさせられて妙に柔和な空間を作りだしてくれて、タイトル通りの軽めだったしそう感じさせる仕組みだった。そして「my love,my guys」はフォークロックという古典に向き合いながらも此れがみんなのバイン!を確定するために進化し続けている事を日増しに感じ始めている。シンプルイズベストな楽曲の会場の一体感は大阪と同様に福岡でも健在で、フロアを包む柔和な雰囲気や漂う色などから見てこの日のどの曲よりもオーディエンス熱量の総量が一番高かったのがココだった。

終盤の「実はもう熟れ」での皆さんを誘う田中の語りは関西ではないので流石に上方では無く"アモーレ〜"のフルコースと田中の照れ笑い含むだった。なんやかんやで「ジュブナイル」ってライブでの出没率が高いと思うし、ライブでの人気曲って聞いたこともあったり、でもあらためて客観的に会場のモードを見るとめっちゃ盛り上がっていて、やっぱりみんなバインロックが好きでライブに来てるんやなってことがありありとわかるシーンだった。続く「CORE」は「ジュブナイル」と同じ『Sing』にも収録されているもので、私の中では『新しい果実』以前のバインのライブのクライマックスが「超える」率と「CORE」を含むテクノビートのチルアウトでの異空間がハイライト率が高かった印象があった。それがディケイドショウ以降は封印されていた。といった意味でこれからのライブでの「CORE」の位置付けはどうなるんだろとか考えてみたり。当然バインのもつテクノビートとロックを体験する事はライブ体験の醍醐味みたいな聴きどころだった。とするとやはり「CORE」をする事は全体のバランスを考えた時に本曲が役不足(本来の意味の)になるため、他の曲でテクノビートアレンジをするという方策にしていたのかも、とか深読みをしてしまったり。でも本日の「CORE」と「望みの彼方」を並べてみたとき田中の歌う望みの彼方にこそ田中自身が思うコアが存在しているという捉え方が出来るなと思ったりもした。そんなこんなで冷静な熱量の到達点を迎え本編は終幕した。

アンコールに入る前に夏のツアーが決定したという告知がMCであった。『Circulator』の再現ライブのツアーだという情報量高め過ぎて気後れさせるほどのもの。さらに恒例?となった金戸覚がツアーの日付と場所を最初から最後まで順番に暗唱していくコーナー。そして伊達に60歳じゃ無いぜって言う金やんの〆と田中のほんますごいと思う、というくだりはなんやかんやで名シーンだった。高野勲と金戸覚の2人は『Circulator』からサポートメンバーとして参加したという。そこからも25周年という意味のツアーみたいな。そうだったのか、そうだよな〜みたいな。長い歴史に色々頭が巡ってしまう。そんなこんなでアンコール前の情報量過多で良くも悪くも自分的には色々と頭のキャパが超えてしまって本編とアンコールを地続きで感じられなくなっていた。誰に言うでもないけど、すまないけど…って感じ。

気を取り直してアンコールは「smalltown,superhero」から、大阪公演でも考えていたこの曲がセトリに選ばれた理由と位置付け。今日感じたのは俯瞰で観る事で感じた見方だった。限られた電飾でライトアップされた舞台。そのなかで骨組みが見えると言う例えが近い、舞台に所狭しの配置された黒色の細長いライトスタンドとその奥行きにある暗がもつ物悲しさとこの曲の持つ哀切が、センチメンタル度合いを共振させている。というような表現が適切らしいのではないか。定常運転では「光について」がその役割を持つ事が多い。電飾が限られているという点においても。悲しみの同質具合から言えば「スロウ」も同様と捉えてもいいかもしれない。ただどちらもバインの田中として提示したモノという捉え方を私はしている。でも「smalltown,superhero」はもっと前の田中のタイムラインに存在しているものだと思う。だからこそ田中の歌詞にありありと現れる原風景がこの曲の悲しみに特異点を与えていて、この日のどの曲にも増して異質な曲として鎮座しているのだった。だからこそその後の「スロウ」が何時もなら悲しく感じるのがやっぱりバインかっけぇ〜みたいに軽く感じられたりして。ラストは最近の定番。バインのライブの〆となる「Alright」であらためて会場を陽性の空気感に持っていき、その温かな熱のまま福岡市民ホール公演は結実したのだった。

LIVE REPORT

GRAPEVINE
「GRAPEVINE SPRING TOUR」
@NHK 大阪ホール
2026.3.28
LIVE REPORT

ライブ始まりの「いけすかない」はボーカル田中の声だけ聴こえないインストナンバーな序章だった。機器トラブルから始まるライブを“いけすかない"といえばそうなのだが、みんな"いけすかない"ことが実は好きなのだ。特にグレイプバインファンは「いけすかない」事が大好きなのである。仕切り直してもう一度田中和将の声入り「いけすかない」で本編は始まった。バインのライブに行く恒例のルーティンとして前日位にバインの公式SNSを確認する。自分はそれ以外の時はバインの情報をSNSなどでは手に入れたくないと思っているたわけ者なのだ。ツアー前には大体どんな曲を演奏するかのヒントみたいなのが投稿される。昨年は『Here』関連の動画だったが、今年は「光について」だった。『Here』は2000年で『Lifetime』は1999年の作品であるので、ちょうど一年くらい経って、一年遡るという感じかと思い。そこから『Lifetime』しばりのライブになるのかいなという想像ができるわけで、実際そんなライブとなった。

この日のライブの要点をピックアップするなら3つの側面があった。まず1つ目『Lifetime』縛りという側面。そのアルバムの曲だけあげると「いけすかない」から「SUN」「光について」「青い魚」「HOPE(軽め)」「望みの彼方」「スロウ」というある意味、今のバインを知らなくてもいい此れぞバインという名曲、言うなればバインの古典を見せつけられる曲たちが全体を通して散りばめられていた。2つ目はバインの古典音楽へのアプローチという側面。これは昨年の大阪城野外音楽堂でのライブからも同じモードが引き継がれているが、開場前BGMが海外の古典的なリズムアンドブルースやジャズ、白黒映画の劇中シーンの音源みたいなのが流されている。私的には極めて奇妙な気持ちになるのだが、おそらくこれがバインの古典音楽への挑戦のメッセージだと捉えられると思っている。その傾向が強く出た部分が中盤。「411」の16ビート感、ジャズ感増しのアレンジ。ある意味今の日本の若手ロックバンドの流行りとも言えるこの形。しかしバインは本気でホンモノの古典に近づこうとしたらこのレベルまでいかないといけないという意気込みと共に、そのお手本を若手にまざまざと見せつける様な貫禄があった。続く「青い魚」これを昭和歌謡という視点でみるなら、最近の滑稽な昭和ブームにバインが冷ややかな眼差しを向けていたらと想像すると、昭和歌謡を古典として向き合ったらここまでのレベルになるぜという、特有の切なさが渦巻くワンシーンとなっていた。さらに「ドスとF」言うまでもなく世界を皮肉った歌詞だが、この日のアレンジはよりダンスビート増しとなっていた。ということはこれは昨今の日本のロックの猫も杓子もダンスビートロックへの冷や水掛けと、バインがレベチのダンスビートを見せつけねじ伏せるという構図になっていた模様。またこの日の舞台照明で一番印象的だったのは同曲。鮮やかな色のライトがビートに合わせて上部からメンバー1人1人に順番に降り注ぐ。この演出から妄想できるのは今が200年続く風の時代(個の時代)いるということとダンスビートが流行りやからみんなダンスビートに走るという日本人の集団心理に一石投じるバインのニヒリズムがあったのではないかという事だ。ここから古典へのアプローチは最終局面へ。「Gifted」は昨年は電子音楽チルアウト増しだった。しかし古典への挑戦状を突きつけるなら完全なロックにならなければならない。矛盾した言い方になりそうだが、この日どれにもましてロックだったのはこの曲だった。例えばバインロックって?というとこの日では「ジュブナイル」だ。でもバイン好きで無い人からしたら…?となるかもしれない。だからこの日の「Gifted」は2026年にだれが聞いてもこれ掛け値なしのロックだねと言える、意訳を許さない今のロックとしての役目を果たしていた。そして、先述した開場前のBGMと一番リンクしていたのが「HOPE(軽め)」軽やかなリズムと纏わりつくようなブルース。本家のリズムアンドブルースに肉薄するかの如くそれはバインのニヤニヤ笑いがこびりつくような神への到達への冒涜の様で相反する神聖ささえ漂っていたのだ。このフェーズのラストを飾ったのは、まず「my love,my guys」。これぞフォークロックという出立ちで古典を目指すという名目の反旗を翻す。このホールでは田中和将は歌詞に合わせて手を挙げる事はなく私的にはほっとしつつ(ロックたらしめる大衆的な表現をする田中はたまにでいいのだ)さあ、風の時代や〜銘々にこの曲に乗ってくれや!という感慨だった。でもこの曲が演奏されるバインの会場の雰囲気って、まさにみんなのバインじゃんと思って、これって意外に今までなかったんじゃねぇって独言ていた。おそらく意図せず大衆性を獲得したこの曲は、オーディエンスがそれぞれの自由度でその大衆性を感じバインに対して観客としてアプローチする。これは新しいバインとファンのコミュニケーションが結実したみたいだった。言うに容易く、このシンプルな曲、案外侮れないなぁという感情が沸々と湧いてきてしまった。と思いつつこのフェーズ終わり「実はもう熟れ」で壮大なシティーポップ批評へ流れた。シティーポップの古典へ、関西増しのワードと豪奢なライトの色彩美が花を手向けるごとく。なんかわからんけどマツケンサンバに思えてきたり、そうやって茶化してくれるバインも捨てがたいのだ。さて、3つ目の側面は田中和将が幼少期の自分と邂逅する曲たちについて。これは最近のバインのライブでは絶対外せない箇所なのである。今回はそれが二箇所あった。一箇所目は「光について」の次に「猫行灯」が演奏された部分。実は私の中ではしてやったりな感情だった。なぜなら私は昨年『アミーチー』のディスクレビューにおいて「猫行灯」は「光について」が生まれた場所を描いた曲だと書いた。だから私の中では、ですよね、ですよねと悦に入ってしまった(アホ)。でもこの曲順は必然的だと言える。「猫行灯」は幼少期の田中が見た原風景で、「光について」は大人になった田中がその原風景を回想して書いた歌詞と解釈できるのでは無いか。二箇所目はアンコールの「Smalltown,Superhero」「スロウ」「Alright」の流れにあった。「Smalltown,Superhero」は発売された当時も思ったが明らかに田中少年の回想だった。この美しくも切ない曲調と視点。本編ラスト「望みの彼方」がこの日のハイライトという見方も当然なのだが此の日が『Lifetime』縛りという点を鑑みれば、それ以外で言うと、此処がハイライトだったのではと感じている。田中少年の原風景「Smalltown,Superhero」から田中和将が父親になった視点で描かれる「Alright」との対比。この1人の人生の長いスパンをロックとして伝え提示された私はその時代の刻印に畏怖の念を抱き、ただそこに共感を超えたものを感じざるを得なかったのである。しかしながらその二つの間にある「スロウ」にも何かしら読み解き方があるのかもしれない。ただ後から歌詞を引っ張り出してきて考えるのは愚行だと思いやめておく。軽く考えてみた。「スロウ」は「Slow」の意味。遅い、ゆっくりした、緩慢という点において選曲された。この2つの間の事柄についてや、人生そのものについてかもしれない。タイトルの意味だけでセトリに組み込めたりするほどにバインの曲は深いのである。

何にもましていけすかないのは昨今の世界情勢である。でも、バインのロックとか、音楽を聴いていればすべて「Alright」だと思えてきたりする。すべてはオールライトなのだ。オールライトは黒人音楽家がよく使うキャッチフレーズでもある。でも多様性においても完全にオールライトになれる訳ではないのだ。アーバンベアーについてチバユウスケが最後のソロアルバムで歌詞にクマを出していたのがもう遠い昔の話のように感じる。でも野生熊の問題もあまりにも古典な問題にシフトし過ぎなのだ。そう、すべては古典に向かい過ぎている。結局人間と熊の境界線も人間が田舎を捨てて都会にシフトし過ぎた事が一つの要因だろうし問題自体は古典過ぎる。SNSの16歳以下への規制も疑問だ。16歳以下の子供はまだ脳が完全に発達してないから、そういう子供には悪影響を及ぼす可能性が医学的に証明されているなら確かに必要なことだろう。ただもっと先の未来で実は関係なかったと口が裂けても言わないでほしい。あのフロンガスがオゾン層に影響すると言っていたのが嘘だったみたく。何れにせよそもそも人間がSNSにのめり込み始めたのは現実の世界が面白くなかったからだ。最近のSNSはつまらないとよく聞く。(そもそもSNSの様なハイリスクハイリターンなツールを無料で有益に使えた時代は終わったのだ)でも待ってくれ、あなたたちもリアルが面白くないからSNSに逃げてきたんだろ?そもそもリアルが面白い人はSNSにはのめり込まないのだ。バインの現メンバーの様に(知らんけどな)まだわかってないようだから言おう。SNSとはリアルの写し鏡なのだ。つまりSNSがクソなのはリアルがクソだからに他ならない。だからリアルが嫌でSNSに逃げてきて、結局リアルに戻ろうとする行為は愚の骨頂なのだ。もう世界はSNSの中にある。それは火を見るより明らかだ。SNSを見ていりゃリアルな世界がどれだけクソかよくわかるだろ。じゃあどうしたらいいのって?すぐに答えを欲しがる悪い癖だよ。そんなもんこのファッキンワールドをイイ音楽聴いて乗り切るだけのこったよ。わかったか?

ーーGRAPEVINEはついにバインのエピソード1を語り始めようとしているのかもしれない。彼らが踊り場をぐるぐる回っていたのも遠い昔の話かもしれない(昔、渋谷陽一が田中和将へのインタビューであなたたちはもう完成しているのにみかんだみかんだといって踊り場をぐるぐる回っているようだと揶揄していた)多分わかっていたのだバインは。先へ進むためには古典に再び学びをもつ事と自分自身の過去と邂逅する必要があると。「Smalltown,Superhero」に、《遡って/坂を登って見ていたんだ/繋がっていた》という歌詞がある。やはり今日のハイライトだと思わないかい?先へ進む事は遡る事で見えてくる。すべては地続きなのだ。それは正に古典に学ぶ事だ。バインが近年特に海外の古典音楽に、特にライブ等で、肉薄しようと挑戦している行為もあらためて古典に学ぶ事でバインの次の物語を紡ぎだそうとしているのだと思う。ただこれは今般の忌々しい昭和懐古ムードな種々のコンテンツとは全く似て非なるものだと断罪しておきたい。たんに昔を懐かしむ事は余暇として楽しむ以外の意味においては百害あって一利なしなのだ。だったらどうしたいの?って何回も言わせんじゃねーよ。バインのロックを聴いてこの乱世を楽しくサバイブするのみよ。わかったか?わかったなら早く旅の支度をしようぜよ。また未来で会おう。あばよ〜

DISC REVIEW

Enfants
『Bedford Hedgehog』

ーすべての招かれざる者たちの楽園での讃歌ー

2021年末に活動を終了したLAMP IN TERRENの松本大が新たに始めたバンドのファーストフルアルバム。そしてFRIENDSHIP.というデジタルディストリビューションサービスからリリース…最近この流れが多くなっていて、違和感はあるのだがサブスクの海の中、何故このアーティストを私に進めてくるかも理解している。否定するまでも無く、自分が好きそうな音楽を当ててきやがる。AIの統計学とやらか?いずれにせよロックを語る上でどうやってその音楽にアクセスしたかをまず話さないと何も始まらないのである。

アルバム全体を見てみると00s日本のオルタナギターロック体現の「Play」から90sグランジロック系譜の「HYS」。そこから、「Punk Head」「デッドエンド」、「R.I.P.」と同系統の音が続き「Dying Star」は00sオルタナティヴロックの根源的な、レディへを彷彿させる音に。00s以降の殆どの日本のロックに影響を与えた米国90sグランジロックと英国ロックの一つの到達点であるレディオヘッドを感じさせる音作りはロック好きな方であれば避けて通れないだろう。ネオアコな「天国に生まれた僕ら」で少しブレイク。00sオルタナ、ミディアムテンポのレディへ「惑星」へ帰還。この作品の特異点というならば「Good News」と「星の下」。シューゲイザーサウンドという括りではあるものの、2010年代をサバイブした松本大なりの、その時代を走り抜けた勝者的なバンドの音鳴りを体現する事で、戦友や同業者への批評的視点があるような気がした。クライマックスの「Kid Bule」ラストの「Midnight Yellow」はやはり00s日本のオルタナ、ラウドロックの体現で締められていて、このバンドの00sへの強い思い入れを感じるとともに、その時代のロックがリアルタイムだった人たちには必然的に聴くべき作品となっている。

ーー頂きりりちゃんの事を今だに悪く無いと思っている。もちろん詐欺罪にあたるということは理解しているし刑法上の話に異議を呈したい訳ではない。ただすべては招かれざる客たちの空間で起きたことなのだ。彼女が騙した男性も彼女が貢いでいたホスト、りりちゃんのマニュアルに背いた女性も全員が招かれざる客達の集まりだった。その住民のままいればすべて丸く収まっていたはず。しかし、そうはいかなかった。皆いつかは招かれた客になりたいとそう望んでいた人たち、だから、その招かれざる客の空間から出る為の行動に出た。その行動がこの世界では罪と呼ばれているものを生み出したのだ。

実はLAMP IN TERRENの事は知らなかった。そしてまだ聴いていない(聞けよ)敢えて。おそらくデビューの2015年を背景に考えるなら、日本において3.11以降、世界においてはブラックミュージックの再考、多様性が叫ばれ始めた頃の、世界が浮かれていた2010sと重なる。ある意味、松本大の音世界のようなロックバンドが生きづらい十数年だったのでは無いかと想像する。最近その頃に活動を停止したロックバンド達の復活劇にネットが沸いているのを見た。その是非については明言を避けるが。いずれにせよロックとは、すべての招かれざる者たちの楽園で鳴るための音楽なのだ。そしてそれらは招かれる者になるための道具でありプロセスにもなり得る。しかし、その人が招かれた者になった瞬間それまでに必要だったロックは霧が晴れたようになくなってしまうことになる。

だから、このEnfantsというロックバンドの作品も彼らが招かれる者になれば、演奏をやめてしまうかもしれない。反対に私自身も招かれる者になれば、Enfantsのロックを聴くのをやめるかもしれない。そんなカラクリが頭で理解は出来ている…でも性懲りも無くこういうロックを聴いてしまうわけさ。さあ、もうすぐ霧は晴れてしまうのだろうか。いや、待ってくれ。もう少しだけ招かれざる者のままでいさせてくれないか?このままEnfantsに耳を傾けたままでいたいのだ。

DISC REVIEW

KEPURA
『Abduct』

ー KEPURAの『Abduct』 というアルバムは2025年版ピンク・レディー「UFO」だった説ー

4ピースロックバンドKEPURAのメジャーファーストアルバムで旧バンド名"ケプラ"から改名後初の作品となる。タイトルの『Abduct』は拉致するや攫うという意味。いったい誰をさらうのか又はさらわれたのか。その答えが本作の主題メッセージなのだと思う。先行配信された「Abduct」の歌詞や「Alien」という曲名、そしてアルバムジャケットから想像させられるお化け屋敷感や映画でよくあるUFOにさらわれる瞬間の強烈な光が家の中に生じている様な。そんなモチーフから何かがさらわれた事実をKEPURAはこの作品で伝えようとしている。

タイトル曲はUFOにさらわれそうになる何某か、それでも《偽らない歌を》歌うことをシューゲイザーサウンドを下敷きにしたオルタナティブロックとしてマニフェスト的に表現し始まる。次の「Nevertheless」は軽やかなダンスビートな楽曲。そこに昭和歌謡的な予兆が差し込まれている。続く「Alien」はメロコア・パンクな楽曲で、日本の90s末ロックからの引用もあり。そして「ghost」は最後にリプライズもあり今作の重要な意味が込められていると察せる。90s末ロックからの引用で間奏長めなのがその時代背景っぽく、ブルース寄りでネオアコ効果によるサイケ感も存在している。前半の最後「BIRTHDAY」で更にブルース感が増すが、そこにある昭和歌謡の色彩が古典の側面を際立たせていく。後半開始を「PSYCHOPATH」が告げる。ブルースロックで16ビートに昭和歌謡の色彩とバックコーラスが鳴り響く、本作の骨子だ。さらに「Tonight」は本作のハイライトである。パワーポップなギターロックでエモ。そこに昭和歌謡な色彩を加えていくのがKEPURAなり日本においての20sギターロックの在り方なのだろう。実質的なラストで本作の肝「Dream」はスタジアムロックによって表現した大衆性と自身との対比を高々と歌い上げ「ghost 」のリプライズ「ghost 2」で幕を閉じる。

結局、いつ、どこで、だれが、何を、何故、どの様にして、さらわれたのだろう。
When:2025年に、
Where:日本の音楽業界において、
Who: 柳澤律希と、
What:ケプラがほんとに歌いたかった歌が、
Why:メジャーシーンの魔物に囚われ、
How:売れそうな歌に取って代わらされた、
と想像してみる。そんな事が今の時代にあるかはわからないが、そんな妄想に値する程に悩み、考えた果てにKEPURAは逆説的にこのシンプルなアルバムを作り上げたような気がしている。

《あなたがつくる世界に僕はいない》「ghost」
《変わらない状況と歪んでいく表情をなぞって描くのは、未体験のゾーンに踏み入れる為の唯一のルート》「PSYCHOPATH」
《自分じゃない誰かになる瞬間が好き/いつでも僕らしくいたいと思うけど》「Dream」
先述した、さらわれた背景の5w1hの真意が込められた箇所がこれらの歌詞だと思う。
柳澤律希率いるケプラはメジャーシーンで明らかに何某かにさらわれた。そしてKEPURAとして帰還したのだ。それがこの『Abduct』という摩訶不思議なワールドの作品にありありと現れている。しかしながら、変わっていないところもある。ケプラの『20』というアルバムの時、私は、彼らのロックは病的に青春を叫び続けていると書いた。それは今も変わっていない。何故ならKEPURAというバンドは元サイコパスなのだから…おっと、お楽しみはこれからですよ〜