DISC REVIEW

BUMP OF CHICKEN
『Iris』

ー明日の今頃にはバンプはどこにいるんだろう。誰を思っているんだろ ー

生身の4人がバンプという名のコクーンから巣立ってから5年。『aurora arc』はその旅立ちを歌ってたけど、同じ頃に皆んなのバンプという存在も生まれた。それはみんなが思い描く理想的なバンプ像。実は藤原基央が描きたいモノは、皆んなの理想像とは少し違ってたと思う。
だからこれは皆んなが求めるバンプ像を体現し尽くした、名実共にそんな作品。これまで使ってきた歌詞の表現形態やメロディが多数登場しつつ、それを再構築する事で皆んなのバンプの唄として再定義した。たぶん藤原基央だけの理想では、このような作品にはならなかったんじゃないかな。バンプを求める莫大なファンダムの思いがそうさせたといっても過言ではないだろう。
まさに、それらの思いがバンプ虹彩を調節し、膨大な光の量を取り込んだ。その結果の…みんなのバンプーーーその最初の作品が『Iris』だ。
これからのバンプの曲ってどんな感じになっていくだろう?そのヒントになる様な藤原基央の思想が歌詞に現れている。
《間違いかどうかなんて事よりも あなたのいる世界が続いてほしい》「青の朔日」
もし明日、世界が終わると言われたとしても、バンプは相変わらず「イマ」を歌い続けているよ。

DISC REVIEW

米津玄師
『LOST CORNER』

ー Kid J ー

《きのうぼくは目を覚ましたときレモンをかじってた》レディオヘッド/エヴリシング・イン・イッツ・ライト・プレイス

さぁ、パンドラの箱を開ける覚悟は出来ているかい?

BOOTLEG』とは愛が売り物にされているJ-POPという世界で起きている戦争へ米津玄師が出向き、そこで本当の愛を探すという作品だった。その後の『STRAY SHEEP』はその戦場から届いた彼からの手紙の様な作品であった。そこで本当の愛を見つけたかどうかは書かれてはいなかったが、その世界で英雄となった彼がそれに戸惑いながらもスーパースターとして戦っている事と、反対にハチとして過ごしていた頃の追憶を語ってくれた。その思い出は「Décolleté」で区切られていたのだが、実はその続きが今回語られた…
「RED OUT」で唐突に始まるのは米津玄師が歌うハチの物語。それは「さよーならまたいつか!」でピリオドが打たれる。《生まれた日からわたしでいたんだ 知らなかっただろ》という捨て台詞を残し。「とまれみよ」の《なあ今どれくらい?「5000マイル過ぎたくらい」が「勝手にシンドバッド」の歌詞を彷彿させ私たちをJ-POPの場面に誘い、「LENS FLARE」からポップスター米津玄師の圧倒的な世界が描かれる。その壮絶な戦いの果てにほんとの愛は見つかったか?「Pale Blue」の持つカタルシスが一つのアンサーと言える。ハチを失い、愛を探す極限状態でスーパースターはその長い旅路の果てに漂流した。そして、遂に辿り着いた場所。ーーーそれが『LOST CORNER』 だ。「がらくた」から紡がれる話は、ポップスターではなく、ハチにもなっていない、もっと前の「失われた場所」に立つ彼の事が、美しき原風景と共に歌われる。

さぁ、パンドラの箱はもう開けたかい?
最後に「おはよう」が流れてくる。遠くの方でレディオヘッドの「モーション・ピクチャー・サウンドトラック」が聞こえて来た時、それが玉手箱だった事に気がつく。

《来世で会おうよ》

DISC REVIEW

GRAPEVINE
「NINJA POP CITY」

ー僕らとバインのこれからー

雑誌のインタビューでどうやらこれはバインのシティポップ批評から始まったとのこと。すでに「実はもう熟れ」で現代のシティポップへの揶揄は表現としてはあったのだが。ここ数年のボカロやシティポップの泡沫のような一過性の盛り上がりに少し影が忍び寄ってきた今日この頃。結局は膨大な音楽ライブラリがあったとして選ぶ側の日本人DNAに在る一定のフィルターがかかっている限り同じ物を選ばされてしまっていたのだ。

歌詞の中でまず1発目に飛び込んでくるのは《仮想現実》イコール「NINJA POP CITY」ということなのだろう。視聴率の様に大量の白玉に少量の黒玉を混ぜて掬うと黒玉の割合はどこも同じ。ネットという広大な街と思っていたものがすべての場所は、ほとんどが似た様な街の羅列に騙されていただけ。バインが音楽評論家に揶揄されていた言葉を借りるなら、踊り場でグルグル回っていただけだった、みんな。

でもそれでいいんだと思うみたいな軽さがこの曲にはある。確かにタイトルネーミングの面白さから見ると「ねずみ浄土」や「雀の子」の延長線上にあるけど、歌詞の持つ意味合いは「ナポリを見て死ね」「MISOGI」みたいなほんとはヘヴィな事をタイトルの面白さで隠してるのに近いと思う。楽曲としては「FLY」や「EVIL EYE」の『déraciné』以降『新しい果実』以前の、最もバインらしいロック感を、それも密かに放出した楽曲だと言える。

バインが何故忍者を擦ってきたのかは知らんし、どっちでもいい。忍者の世間一般のイメージは悪者、だからシーンにおいてバインはやっぱりワルモノ確定です。でもある人にとってはイイモンでもある。それでいいのだ。あとこれからのバインとの関係性もどうなるかわかってきたね。《刃物になって行け》これがバインです。そして"忍"という漢字の成り立ちは心の上に常に刃物を乗せている状態を表しているらしい。バインとのこれからは常にスンドメですね。これでいいのだ。

LIVE REPORT

CRYAMY
特別単独公演
『CRYAMYとわたし』
東京日比谷野外大音楽堂
2024.6.16
LIVE REPORT

その日、28℃、晴れ。
梅雨を免れたのは良かったが、開演時間の17時前になっても太陽がギラついている。日比谷公園内の木々が茂る中、SEのJoy Division『Disorder』が途切れ、スモークも焚かれつつあるステージ上に4人の登場した。

カワノがおもむろにサビを歌い始め、4人の音が交わり「WASTAR」から始まった。
《君のために生きる》という歌詞とエモパンク、CRYAMYとしては今と音楽と近接する瞬間と言える曲からスタート。
間をおかず、ライブ序盤特有の揺らぎのある音像で「Sonic Pop」へ、グランジの流れで「普通」、メロコアな「crybaby」の現代感で締め。

カワノは最初のMCで、カッコいい事言おうとしたけど、この満員の会場を見てもうどうでも良くなったと告白する。
一呼吸おき、「まほろば」から開始、これもメロコアなCRYAMYの現在の音楽との近接点という意味での最新型だ。
俺たちが実現する、みたいなカワノの叫びがあり「光倶楽部」へ。最新作からカワノのデスなボイスが投入された、グランジな音像。そのハードな流れのまま、「変身」から「注射じゃ治せない」がカワノのデスボイス込みで進んでいく。カワノのデスボイスって、やっぱり現実社会との摩擦から生じたものなのか。ミステリアスなミドルテンポのデスメタルな「豚」が更にヘヴィに響いていく。デスボイスは続きながらも「E.B.T.R」のメロディで少し雰囲気は中和され、ライトもピンクへ「Pink」がギターメロの美しさとヘヴィな音像で会場を染めた。
一呼吸おき「HAVEN」。《どこかに行きたいのに》の歌詞で本曲がコロナ禍に投下された頃を思い出させる。

カワノ2回目のMC、5年前にいた友達、もう今はどこにいるかわからないイイ奴がいたと話し「物臭」へ。歌詞に感化されてると思うが、バンド史上1番ポップな曲だと言えると思う。
続く「Delay」もフジタレイの美しいギターメロとカワノの歌を伴った叫びで、歌としての良さを改めて提示。さらに「ALISA」の《君が特別だったんだ》が悲しさを助長させる。

これまで沢山きれいごとを吐いてきてそれを聞いてくれてありがとう。それはきれいな事が好きだからだったと、でも自分はそんなにきれいな人間でもないとカワノが語る。みんなのおかげで人間なれた気がしますという言葉から「GOOD LUCK HUMAN」へ。
長尺な楽曲を終え、カワノ弾き語りのサビの歌唱から、誰の歌ではなくあなたの歌という様なことを叫び「ディスタンス」が、タカハシコウキのヘヴィなベースをガイドに音圧の瞬間最大風速を作り4人はステージから捌ける。

すぐにカワノが1人で戻ってきた。
やる予定は無かったんですけど、前置きしてソロ作から「道化の歌」を爪引き始める。
《止まったらちゃんところしてね》今かいな?
と思ったりした。
演奏後、メンバー3人への感謝、スタッフへ詫びなど、昔を回想しながら語った。
最後は辛気臭いから後はバンドでやりますと言い放ち、メンバーが戻ってくる。
いつの間にかオオモリユウトは白のタンクトップになって、フジタレイは半袖になって、タカハシコウキは、変わらずチェック柄シャツだったと思う。
再び演奏開始。イントロを反復し「テリトリアル」へ。曲の終盤で、おめぇらの歌なんだよぉ!と叫ぶ。この曲は、歌詞の金髪の女の子に向けてだったと以前カワノは発言していた。しかしここでは、この会場のヤツに捧げる事を証明する様な言葉だった。そんな重さを吹き飛ばす様に「鼻で笑うぜ」《でも君が生きていてよかったって思うよ》と当たり前だけどと、かっ飛ばす。
《何かひとつ拒絶出来たのは》と、カワノが歌い出し、ギターのディストーション、メロ。バスドラのリズムの反復とそれに連なるベース。序章を長引かせ瞬時に終わる「戦争」へ。さらに同じ相似形にある楽曲「ten」もその流れを汲み瞬間的に到達点に達し、結。
徐々にあたりは夕暮れが迫ってきた。
一呼吸、カワノが息を継ぎ。「ウソでも「ウン」って言いなよ」へ。続く赤盤の名曲「完璧な国」と、しっとりとした楽曲と共に夜に向かっていく。
カワノが再びMCで感謝の意を述べる。そして少しでもいいから自分のセンスを信じてほしいと言葉を紡いでいく。
「天国」に。最新作の中でリアルさ一番の名曲だろう。曲が静かに日比谷公園に響いていった。
演奏が終わり、カワノが感謝を述べてメンバーがはけていく。

アンコールの拍手が鳴り響く。
少し間をおいて、4人が戻ってくる。
辺りは完全に夜。夜空の上を飛行機が飛び、高層ビルの上階の電気がついている無人のフロアが見えている。
カワノが再び語り出し、ここにいるみんなへの感謝を述べる。絶対に歌っているときは一人一人に向き合って歌ってきた事を切々と語ってくれた。
カワノのデスボイスが夜を切り裂いた。焚かれたスモークとパープル系のライトアップが「葬唱」より怪しく演出させていく。デスメタルとインディーロックを行き来する中で、カワノがデスボイスに至った理由の正しさの解釈を考える。この野音でようやくわかった。このバンドを終わらせない場合のアンサーが「葬唱」だったと。《「愛こそが全て」とか平然と言えるだろう》がCRYAMY物語が続いた場合に起きる、未来予想図だとすると、それを言うためにカワノはデスボイスという武器を片手に本音を吐露したかったのかもしれないと思った。
今宵も月があるらしい「待月」へ。『#4』と最新作共に収録されている曲だが、違いはイントロにカワノのデスボイスが追加された事。やはりCRYAMYが近辺との摩擦係数の高さからの必然だった。その結果、楽曲としてより強度を持って響く様になった。メロとのギャップによる物だろうが。個人的には今回1番ロックとしての肉体性を感じることが出来た瞬間だった。
心から感謝を込めて歌わせていただきます
大事にきいてくれてありがとうございます
とカワノが言葉にして、「月面旅行」へ。
曲の終盤で、カワノがメンバーのマイクを観客の方を向けるという演出もありこの曲がバンドとわたしの歌、という意味合いを強くする意図を感じた。
続く楽曲はオオモリユウトのドラミングから始まり夜を彩るメロの光の粒「プラネタリウム」から、静から動に瞬時に変化する「街月」が月夜を切り裂き。カワノがタイトルを絶叫し「マリア」に。曲の終わりに生きろ、生きろと絶叫。その熱量のまま、ディストーションが響く中、これは世界の歌だとカワノが叫ぶ。「THE WORLD」がこの日1番ステージ上を熱くさせるかの様に、カワノがマイクを引っ掴み、ステージを駆け、最後の歌詞を叫んだ。

3人は捌け、カワノ1人になり、一呼吸。カワノのMC。かっこいいこと言おうとしたけど、大したこといえなくて申し訳ない。意外と大事なことはかっこいいもんじゃないと。体に気をつけて、悪い人もいるけどいい人もいるからとドリフターズのような事を語ってくれた。
カワノがギター片手に弾き語り、真っ暗闇の中、しめやかに「人々」が響き渡った。

4人が揃う。
カワノがMCで訂正しながらも、これは絶対だと言った。
これからも、この曲は正真正銘のCRYAMYとあなたのための歌だと言った。
みんなの歌と思って、俺たちの歌と思って歌う
《あなたが…》
最後になる可能性もあるのかな。10分強もある、しかない、「世界」が確かにココで鳴っていて。わたしたちはきいたCRYAMYと共に。2024年6月16日の夜の8時半前に。長い間奏中にカワノはずっと見てるからと叫び続けていた。
演奏が終わった。ギター・ノイズと拍手が響く中で最後にフジタレイがマイクの前に立つ。そして、割れんばかりの声で、ありがとう!と叫んだ。

DISC REVIEW

ケプラ
『20』

ー多様性によって生まれた一つの化身ー

多様性によってロックは一度死んだ。しかし、ケプラとは多様性によって生まれたロックからのアンサーと言えるだろう。今まであった既存の形あるものを壊すためにロックとはあった。しかしパンデミックと戦争によってそのすべては失われたと言えよう。壊すことに意味を見いだせなくなったロックには死しかなかったのは言うまでもない。

旧来のロックが死滅した荒地から何を生み出すことが出来るのか?僕たちはまだ答えを見出せずにいる中。青春や恋、若さからくる瑞々しさをそのままの純度でロックに落とし込む事をケプラは難なくクリアした。今のところは。ロックとは刹那でいい。数年後に機能しなくても今だけ輝ける曲であればいい。そんな価値観を多様性の最たるSDGsが阻んでいる事に気付く。

ロックが作り上げた様式美の最たる建築物は既に朽ち果てた事は知ってるよね。なら今から何を作ればいいの?というクエッションはすべてのバンドに突きつけられている。ケプラが現時点で提示した答えとは、be made of〜からbe made from 〜への変化といえるだろうか。ロックを、原料にした事が見た目でわかるロックでは無く、見ただけでは分からないロックをケプラは抽出しているのかもしれない。

本作の楽曲の発表時期を見ると2021年〜2024年。彼らが青春を駆け抜けた時期は良くも悪くも多様性が世界を揺るがしていった時期といえる。彼らの楽曲はそんな時期のタイムラインにリアルな刻印を打ち続けていたのだろう。今のアーティストに見られるJ-POPからの適切な抽出性と、洋楽の表現とのヴィヴィッドな最適化。それらを駆使しながら、多様性によって生まれたケプラのロックはあくまでも病的に青春を叫び続けているのである。

LIVE REPORT

GRAPEVINE
Almost There Tour
extra show
in なんばHatch 2024.3.24
LIVE REPORT

いつものバインが戻ってきた。

ルーズな白シャツにピンクのワイドレッグパンツというコーデで決めた田中和将がいつもの笑顔で登場。カジュアルなネイビーカラーの西川弘剛と薄いグレーのシンプルコーデの亀井亨も定位置に、そして全身黒コーデの金戸覚、限りなく黒に近いグレーコーデの高野勲もスタンバイ。田中の「じゃあ〜はじめましょかっ」という掛け声とともに"雀の子"から始まった。

この曲は、ライブ中盤にきた方がおどろおどろしさが伝わると思っているけど、その反面これは田中少年の回想と推察もできる。「かすうどんくわしたろか」と言われているのは、田中少年だという妄想。だから、やはりライブストーリーの1ページ目である必然性は否定出来ないわけだ。

アフリカのリズム的なアレンジでスタートの"Neo Burlesque"が続き、"Ub(You bet on it)"からMCを挟み、"EVIL EYE"。この2曲が続いた事から推察すると《世界中が敵》と、悪というキーワードからGRAPEVINEがヒール役であるというストーリー展開になると読み解いていく。
そうこうするうちに"マダカレークッテナイデショー"へ、金戸覚のファンキーなベースプレイが展開され、"それは永遠"、"TOKAKU"が続き、Almost There物語の序盤、不確かな愛を見つけた瑞々しい青春期のクールが過ぎていく。

亀井亨の重厚圧で印象的なドラミングが鳴り、ライブの中盤を告げる"新しい果実"だ。時間を重ねる毎に、この曲が分水嶺の役目を果たしている事を、切実に感じる。世界規模で見るならコロナ前後、バインの半径5m以内の変化。そして、戦争。すべて、それ以前には戻れない事を切なくも噛み締めていることにふと気がつく。
〜The Dark Side of the Moon〜
暗黒を走り出す場面のように"停電の夜"、"アマテラス"、"Ophelia"、田中アドリブのソウル歌唱から"The Long Bright Dark"までがAlmost There物語のドス黒い闇を疾走し抜けるまでのクールだった。

後半戦は"Loss(Angels)"から。これが一つの物語の結論になっていたと思う。
"アナザーワールド"を見ようとしたバインがその逆説を唱えたことこそがロックとしてのスタンダードなアンサーになりえている。
そこからMCを挟み、昨今のJ-POPへのバインなりのニヒルな回答集とでも言おうか。バインのアニソン批評"Goodbye,Annie"、バイン的シティーポップな回答"実はもう熟れ"、そして物語は佳境へ一気にギアを上げるように"Glare"、バイン的似非(マジ)ブルース"Scare"、方向転換し田中の「よっしゃ〜ほな行くでー」という掛け声から"超える"でバインの定番のピーク地点に到達。そこからバインのロックとはこれや的な"Ready to get started"。西川弘剛が舞台ツラまで出てのギターソロ等も相まって会場の盛り上がりをさらに越えさせた後、〆もまさにアフリカのリズムから始まる"SEX"で、しっぽりとバイン的昨今のソウルへの解釈を提示し、Almost There物語の本編は、新たなる愛を"あともう少し"求めていこうとし、幕を閉じた。

アンコールは"God only knows"から"shame"、ラストは"Arma"だった。
最初にいつものバインが戻ってきたと言ったが、安易にヒットパレードなセトリにしないヒールなバインが復活した。しかし、そこには見た人の数だけ感じられるストーリーがライブの曲順で描かれていたと思う。

"Almost There Tour"のextra showとはアルバムタイトルになぞらえたショーだった。余白の余分から見えてきたものとは?コロナ前後で当たり前だった事柄が確かに変わった。戦争が今確かに起こっているというリアルはもうそれまでには戻れない。田中和将の復活前後でバインの音楽の価値が変わることは1ミリ単位も無い。それは火を見るより明らかなのだが、復活劇があろうがなかろうが、いずれ命題に上がってきただろうバインの延命というキーワード。バンドとは生き物。早いか遅いかの違いはあるが終わりはいずれ来る。あともう少し、そんな事を察知させるように『Almost there 』とこのツアーが存在していたのだと思う。

バインの次の物語はどこに?
《どうして誰もが急ぎ足でその次を欲しがるんだろう》"指先"の歌詞とは裏腹に、バインは常に次を描き続けてきた。これほど長い間コンスタントに同じクオリティーの作品を生み出し続けているロックバンドって日本にはGRAPEVINEしかいないと言っていい。
もう少し想像してみると、バインの次の物語を少し示唆したのはアンコールラストの"Arma"の意味合いについて《武器は要らない》という歌詞。表側の意味は戦争についての揶揄。しかしAlmost There物語上での意味、田中和将はすでに武器を持っていたということ。西川弘剛のギター、亀井亨のドラム、金戸覚のベース、高野勲のキーボード等からの無限音源。これらこそArmaだったと田中は察知した、兎角そういうことにしておこう。かくて円環は閉じる。

余談ですが…
"阿"吽、円環が出たところで、ショーの本編がアフリカのリズムで始まりと終わりを繋ぐ事で
ポップミュージックの始まりと今を円環するというバインなりのイメージだったのでは?そして世界の音楽シーンも2023年、世界の多様性によって阿吽の様に一度円環が閉じたのではないかと、そして2024年新たに、阿…が始まる
《六時にオープンオープン
七時スタートでっせ》
最後にもっと想像してみてみよう。Almost There物語の最初のシーン、少年が変な大人にかすうどん食わしたろかと言われた後、七時にスタートするライブに行ったらしい、そこで演奏していたのがGRAPEVINEの Armaだったとさ。Almost There物語の円環は閉じた。またすべては振り出しに戻るが、世界のストーリーは前とは違っていて欲しい、そう願わずにはいられない。

DISC REVIEW

SZA

『SOS』

 

ー 自分自身でいれば良かった季節の終わりを告げる『SOS』ー

 

SZAがR&Bシンガーだったころがある。少なくとも『Ctrl』、『Z』では現代的という括りであっても、普通の R&Bシンガーでいられたときだった。しかし、今作で彼女は単なる R&Bシンガーから離れていく。それは何のため?更なる成功のため?もちろんそれもあるだろう。ソウルフルな黒人歌手である事に変わりはない。ただ、 R&Bシンガーから離れて行かざるを得ない、抜き差しならない理由があるような気がしていたのだ。

『SOS』と題した本作は表題曲から始まる。90s〜00s R&B・ソウルに、レトロスペクティヴなサンプリングによる引用。そこにトラップミュージックとラップからマンブルラップも入り、ネオソウルの体現となっている。歌詞で歌われる思いはというと、哀しみや怒りから派生し行き着いた先の渇いた喜楽といったものが潜んでいるように感じた。つまり元々悲しみを表現するソウルが哀を抱えるキャパシティを超えて喜に振れたような。もしかして、喜びと悲しみの狭間に彼女の「SOS」の意味は存在しているのかもしれないと思い始めてきた。

変化点は「Ghost in the Machine」だった。トラップミュージックやダブステップブレイクビーツが交差し、それまでの哀しみや怒りから気が触れたように、その感情を根底に宿しながら、喜びや楽しさを醸し出し始める。《ロボットにはこころがある》というのはアメリカ人お得意の考え方でもあるが、別の視点から捉えると、マイノリティな人種である彼女がマジョリティな人種をロボットと捉えて、あなたたちにはこころがあるからね?という皮肉と捉える事も出来るのでは無いか。その証拠に次の「F2F」ではパンクロックに急転換し、カントリーミュージック、フォークロックというマジョリティな音を展開していることも、あえてなのでは無いか。

もう一つの変化点は「Open Arms」となった。フォークミュージックの上で、ソウルを歌い、ラップする。これがSZAの本来のスタイルだろう。本作の中でも、ここで原点に戻るという意味を持たせつつ、フェイドアウトでアフリカの太鼓のリズムが流れる。すべてのポップミュージックの源流はアフリカにあるということを再認識させる事で、この曲が本編の実質的な幕引きの様に捉えられる。

誰も彼もがピーターパンになりたがる。それはピーターパン症候群の話ではなく、みんな主役になりたいというはなし。SNSで世界が繋がった。いいね!によってよろこびの共有が出来ると同時に否が応でも、悲しみの共有が必然となってしまったいま、はたと逃げ場がない事に気がつく。自由を手に入れたはずの私たちは同時に不自由さも背負わされていたのだ。でも仕方がない、SNSで情報を手に入れようという本能は太古の昔から人間のDNAに組み込まれているというのだから。

SZAが単なる R&Bシンガーでいられたころが懐かしい、と本人は思っていないだろうが。SZAがSOSを歌うのは自分自身の為なのか、タガタメか。本作で彼女が本来のスタイルで歌った事も、マジョリティなスタイルで歌った事も、どちらも事実である。ラスト3曲、「I Hate U」は怒りと哀しみを、「Good Days」は哀しみと喜びを。最後の「Forgiveless」はなんとも言えない怒りを。"メランコリーそして終わりない悲しみ"ーーー私たちは喜びと悲しみの共有をした事によって、自らの手で、自分自身でいればよかったという時代の終止符を打つ事となった。SZAが単なる R&Bシンガーを離れていく理由もその潮流を察知した事によるのかもしれない。自分の発信したSOSが簡単に共有され、誰かにとってのSOSになり得てしまう世界になってしまった…でもそれは悪いことばかりではない。あなたはこれからも自分自身でいようとすればするほど、傷つき、疲弊していくだろう。しかし、あなたのこころがSOSを鳴らせば、すぐにSZAの SOSと共鳴、いや、同期できてしまう。2022年とは、そういう時代なのだ。