ROCK CLASSIC

ザ・ドアーズ『まぼろしの世界』
THE DOORS『STRANGE DAYS』

―それっておかしくないですか~Part 7―

 闘う理由も無いのに戦うって、おかしくないですか?だから、働かなくてもいいんですよ、別に。日本がこれ以上、上昇することはないんですから。
というSNS上のツッコミを横目で見ていた。

 アメリカ西海岸出身のロック・バンド、ザ・ドアーズのセカンド・アルバム『まぼろしの世界』。発売された1967年、その頃はまだ闘う理由があった。世界ではベトナム戦争への反対を掲げたアーティストがいた。戦争を無くせば世界は平和になるという希望を胸に。
でも、戦争は防げず完全な平和が訪れることもなかった。

    サイケデリック・ロックはこの時代を代表するロックの一つである。ザ・ドアーズの作品にもサイケデリック・ロックが溢れている。彼らの楽曲の形式から言うのであれば、レイ・マンザレクのキーボードのメロディーとロビー・クリーガーのエレクトリック・ギターとのメロディーの交差から生じる、覚醒的音楽作用がサイケというものを形作っている一つの要因だろう。結果的にだが、60年代後半のサイケデリック・ロックは、戦いの果てに訪れる心の痛みを軽減する意味を持っていたのかもしれない。だからあの時代にサイケは有効だった。

   しかしながら、私がドアーズを知ったのは「Break On Through」という楽曲で、そこで感じたのはサイケというよりもジム・モリソン過激、コワイという印象だった。だからモリソンのシャウトを伴うボーカル・スタイルから私はハード・ロックを感じていたのだと思う。

    彼の過激でエロティックな表現スタイルとサイケな世界が人々を虜にした結果、モリソンはその時代のロック・スターへと登り詰めた。この2つの部分は日本のロック・バンドの佇まいにも影響を与えているし、本作からの音楽的な引用も多数見受けられる。

 今も本当の意味で闘う必要がある時。つまり、その痛みを和らげる音楽、正にサイケデリック・ロックのような音楽が必要なはず。でも、ジム・モリソンはもういないし、いたとしてもザ・ドアーズの音楽が今の時代にそのまま機能できるわけではない。あの時代にあった音と音との行間に潜むコクーンはもう無いのだ。

 だから、どんな音楽が必要なのか。今風のサイケか、ブルースやハード・ロックか、いやレゲエ?やっぱりヒップホップなのか。その答えは1つではないと思う。 正しいことのために闘う意味があったあの時代に、勝者への賛美歌にも、敗者のための鎮魂歌としても『まぼろしの世界』は何処までも有効であった。

   でも、戦うことの正しさもなくなって、もちろん負けることの正しさなんてあるはずもない状態で、戦争を続けるなんて、おかしくないですか? もう、戦いはやめだ…ザ・ドアーズの音楽なんて必要ない!っ世界はこれからも望めそうにないのだろう。 僕たちが常に求めているのはサイケデリックという名の蜃気楼か?いや、まぼろしのように消えた、その向こうにある世界だろう。