COLUMN

『世界から音楽が消えた日』

 

2020年の初頭、世界から音楽が消えた。つまり、コロナ・ショックによって、予定されていたすべてのライブが中止になり、それ以降の公演も開催が見送られているという状況に至った。

4月7日に緊急事態宣言が全国に出されてからは、ライブという音楽が鳴らされる現場が世界から消えたと言っても過言ではない。

5月25日にそれが解除されてから、少しずつライブらしきものを再開しようという動きが出てきた。でも、それはらしきものだ。私が言っているらしきものは、アーティストとオーディエンスとの間をクリア・ボードで仕切って行うものや、無観客のライブ・ハウスで、演奏しているものをオンラインで配信するというものだ。

何やらすごく違和感を覚えて仕方がない、クリア・ボードで仕切っているだけと言えば、そうなのだが、ライブというのは一種の空気感によって司られていると思う。それを透明だとしても、区切ってしまう。なんとも言えない風景。

ライブの途中にふと天井をみた事があるだろうか。蒸気というか、靄がかっている空間に光が放たれている情景、そんな瞬間を見られる事もライブの醍醐味の一つではないか。そんな場所に透明の板という人工物を挟まれていたらどうだろう。(8月になってマスクとフェイス・シールド着用でライブ観戦というものが出てきたらしいし、これならまだマシと言えるか。また、イギリスではソーシャル・ディスタンスを確保できるように四角くく区切った観客席を何個も作り、フェスが行われたらしい。フェスはどのみち野外なので、コロナ前後の変化は大きくないと考える。)まぁ、そもそもライブ自体が人工物の権化であることに変わりないのであるが。しかし、ライブの現場で起こっていることは、ナチュラルな現象であるのは確かなのだ。だから音楽を聴くという行為以上にそのナチュラルな世界に身を置くことが、ライブに行くということでもあると思う。

オンラインでのライブ配信も個人的には違和感がある、観たら楽しいだろうし、確かに新しい形ではあると思う。今回の事象でオンライン・ライブというものに新たなる価値が付加されていく、その可能性も無くはない。でも本当のライブとの差を意識から消すことはできないだろう。

アーティストにとってもライブが出来ないことは死活問題であるとは思う。それはわかる。2020年、小さなライブ・ハウスでしか活動できないアーティストがバンド活動を諦めるという事態も発生しているだろう。しかし本当のことを言うと本物は生き残ると私は信じている。綺麗事どうこうじゃなくて。だから心配はしていない。

オンラインでのライブはアーティスト側もそれなりに演者としての意味を感じていて、オーディエンスもそれなりに楽しめるとは思う。でもそれなりなのだと思う。だからすべてそれなりで満足してしまっては、それなりの未来しかないように思う。「ウィズ・コロナ」という謳い文句はやめよう。「アフター・コロナ」の世界でのライブは元のままのライブであってほしい。

ただ、元のままにならない場合の利点も考えてみよう。昨今のライブ事情を振り返ってみて、オーディエンスのライブへの向き合い方について考えてみた。もちろんライブの楽しみ方は殆ど自由で、周りに迷惑をかけないで、法に触れない状態ならどんなスタイルで楽しんでも問題ないだろう。ただ、種々のアーティストも部分的に言及している"サークル"という現象。ちゃんとアーティストの私に向き合って、という思いを言葉にする人たちもいる。9mm Parabellum Bulletの菅原卓郎はミュージック・ステーションで発言していた。ONE OK ROCKのTakaは2016年のロック・イン・ジャパン・フェスでサークルを作っているオーディエンスに対して含みを持った言葉で提言していた。元のままにならないのであれば、明らかな濃厚接触のサークルは無くなるべきだろう。

忽ちはライブがスポーツだと勘違いしている方々にも(もう一度いうが、正規のルートでチケットを手に入れて、最低限のマナーを守ってさえいればどう楽しんでも自由である)、このコロナ・ショックによる余波が影響することになれば、ある意味では日本のライブ・シーンは向上するのではないかと勘ぐる。どんなリズムの音楽でも同じような動きで、その動きをしないといけないと思い込んで、ライブをスポーツのように楽しんでいる方々には、このコロナが一石投じることになるかもしれない。そういう通り一遍の動きが出来ないのならライブに行かないという方がいるなら、初めからお呼びでない人だったと考えて頂きたいし、そういう形でしかライブを作り出すことが出来ない演者も、もう先が知れていると思う。

元に戻らない前提の話をもう少し続けよう。現時点は通常の動員数の何パーセントかを削減したキャパでライブをする事を求められている。だから、当初の動員数で予定していたものは中止せざるを得なくなった。今後50パーセントのキャパでしかライブが開けないとしたら、どうなるだろう。おそらく小さなライブ・ハウスは絶滅危惧種になるのではないか。大きな会場はまぁ大丈夫だろうが、会場費をどうするかという問題があるだろう。50パーセントしか入れなくても会場側は同じ費用をアーティスト側に要求するだろうし、当然、演者側が苦しくなる。(もちろんその分チケット代が高価になることも想定される)そういった点を考えると、田中宗一郎が『2010s』で語っていた、ライブをする会場側とアーティストとの関係性が日本と海外では大きく違うことについて、改めて考え直す時なのかもしれない。まぁ日本でのこういった構造改革は遅々として進まないのが常であるが。

ただ、ライブを観る側に立てば、いいことの方が多いだろう。余裕を持った場所で、アーティストもよく見える状態で観戦できるからだ。まぁ、そうなのだよ。しかし、それでアーティスト側が存続出来るか。不安は拭えないだろう。

今回のライブ・ハウスでの公演が中止になっている状況について、60代半ばの方と話をしていたとき。その方はそれなりに音楽を聴いていて、都会で生活していた人なのだが、「ライブ・ハウスっていつからあるの?」って聞かれ、意外に思ってしまった。逆にライブ・ハウスってそんなに昔からあるものじゃないのだと思ったのだ。それでググってみると、京都の大宮丸太町にある「拾得」が1972年創業の日本で一番古いライブ・ハウスらしい。なるほど、まだ48年しか経っていないのか。ならば、このコロナ・ショックでライブ・ハウスの常識が覆されても不思議ではないと思ったりもする。ライブ・ハウスの数がまだ多くなかったときは、厚生年金会館とか体育館で興行していたのだろう。もちろん今でもしているけど。やっぱり武道館クラスのキャパで行うライブが正、みたいなことになるのだろうか。確かにアーティストが見やすいのはいい、しかしライブ・ハウスでしか体験できない風景も残したい、その板挟みになっていくのではないだろうか。

そうこうしているうちに2020年にライブ・ハウスは次々に廃業しているようだ。何もライブ・ハウス命!という人間として話しているわけではないので、ライブ・ハウスでただ暴れたい人たちにとっての転換期になれば一幸だとも思う、不謹慎にも。今回の事象が日本の音楽シーンにとっての災い転じて福となす、みたいなことになればいいと思う。

また繰り返すと元に戻らない場合のことについて話している。投げ銭オンライン・ライブっていうのはあまりにも有りがち過ぎるだろう。アーティストが潤うならヨシ!としたいのだが。もしオンラインでの価値を議論するなら、昔、ROCKIN’ON JAPAN誌で、RIP SLYMEが語っていたことを思い出す。「今、特にやりたいことを聞かれると無いのだけど、強いて言うなら、宇宙でライブがしたい」というような発言があったと記憶している。だからオンライン配信とかが本当に普通のライブを凌駕する事がもしあるならば、宇宙で公演しているライブを地上波の電波で配信するぐらいしかないと思う。他はラッパーの玉名ラーメンが配信していたお風呂場で歌ったものを配信するとか、奇をてらったものではないと。普通のライブ・ハウスでの無観客公演では、その上に観客がいるライブというものが居座り続ける限り、不完全さを拭えないのではないだろうか。

ライブはまた元どおりになるとは思う。配信ライブは不完全だと現時点では言いたい。配信ライブを観るなら、完結している音源をやっぱり聴いてしまう。オーディエンスがいないだけで不完全と言ってしまうのはアーティストに対しても失礼なのは承知しているのだが。古典的な人間なので音楽家と観客が揃った"会場内が一体となって"( GRAPEVINE田中和将が嫌いな言葉を使うなら)いることがベストなのだ。何も観客全てが一体になろうと意識する必要はない。そんな気が無くてソッポを向いていたとしても其処にいるだけで一体にならされてしまう状態。そう“Integrate”だ。そんな現象が起こるライブこそが完成形なのだと、まだ今の私は思っている。