DISC REVIEW

米津玄師

『STRAY SHEEP』

―散弾銃をぶっ放せ―

 

米津玄師が『BOOTLEG』という作品を免罪符に、J-POPの世界に飛び込んでからもう3年になろうとしている。あれから元気にしているだろうか?そう思っていた時、彼から手紙が届いた。それがどんな手紙だったかといえば、ミスチルの『深海』のような手紙だったと言えばわかって頂けるだろうか。

掻い摘んで内容を話してみたい。冒頭の「カムパネルラ」から「パプリカ」まではダンス・ミュージック、ラップ・ミュージックとジャズ、そして16ビート、トラップといった音楽を、彼自身が咀嚼して作り上げた楽曲が並ぶ。つまりは日本の音楽シーンやリスナーが求めている音が鳴っている。いうなれば、『BOOTLEG』の流れを汲んだ上で、その次に鳴らされるべき音を確実に体現したとも言える。ただ、そこには前作で感じられた粗野で楽しんでいるという雰囲気は無く、あくまでも熟すというアプローチに見える。

次の頁に手紙の一つの答えのようなものが書かれていた。「馬と鹿」の《ひとつひとつ失くした果てに/ようやく残ったもの》、《これが愛じゃなければなんと呼ぶのか》

この一文から読み解けるのは“J-POP”という愛が売り物にされた世界に飛び込んだ彼が、何かを掴んだということだ。しかし、「優しい人」で少し雲行きが変わる。彼が何がしかの回想を始めたのだ。それは「Lemon」で明確化する。この曲が明らかに分水嶺となって手紙の情景が大きく変わる。そう、正に《切り分けた果実の片方の様に》。この曲以降の「まちがいさがし」から「Décolleté」は過去の追憶といった側面を表していて、ここで歌われているのが「ブラック・シープ」のことなのだ。つまりはこの手紙の表題と対になるワードであり、イコール昔の自分表す隠喩。過去の自分との対峙が繰り広げられていく。だからこそ、後半部分は過去の曲を再構築したり、ボカロのエッセンスが強かったりする。歌詞はシリアスで、「ブラック・シープ」でいたころは楽しかった、あのままでいた方が良かったのではという揺れ動きも見られる。それにもかかわらず、前半以上に彼が楽しんでいることが伝わってくるのも事実なのだ。

しかし、そういった休息のひと時は「TEENAGE RIOT」で打ち消される。《歌えるさ/カスみたいな/だけど確かな/バースデイソング》眠りから覚め、「ブラック・シープ」から「ストレイ・シープ」になった瞬間である。生まれ変わるという選択肢以外無かった、そのニュアンスが“カスみたいな”に言い表されているようだ。

手紙も佳境に差し掛かる。「海の幽霊」《離れ離れてもときめくもの/叫ぼう今は幸せと》、「カナリア」《あなただから/いいよ/歩いて行こう/最後まで》

彼が現状肯定を高々と叫び、手紙の最後は締め括られた。おそらく彼は、ポップスターとして消費される覚悟が出来たのだろう。彼が「迷える羊」になることを選らんだ理由はそれだ。

これからの彼の目的は“千年後”にも残る曲を残すことだという。

なんとまあ、シーラカンスですら百年しか生きられないというのにだよ。くわばら、くわばら。