DISC REVIEW

ケプラ
『20』

ー多様性によって生まれた一つの化身ー

多様性によってロックは一度死んだ。しかし、ケプラとは多様性によって生まれたロックからのアンサーと言えるだろう。今まであった既存の形あるものを壊すためにロックとはあった。しかしパンデミックと戦争によってそのすべては失われたと言えよう。壊すことに意味を見いだせなくなったロックには死しかなかったのは言うまでもない。

旧来のロックが死滅した荒地から何を生み出すことが出来るのか?僕たちはまだ答えを見出せずにいる中。青春や恋、若さからくる瑞々しさをそのままの純度でロックに落とし込む事をケプラは難なくクリアした。今のところは。ロックとは刹那でいい。数年後に機能しなくても今だけ輝ける曲であればいい。そんな価値観を多様性の最たるSDGsが阻んでいる事に気付く。

ロックが作り上げた様式美の最たる建築物は既に朽ち果てた事は知ってるよね。なら今から何を作ればいいの?というクエッションはすべてのバンドに突きつけられている。ケプラが現時点で提示した答えとは、be made of〜からbe made from 〜への変化といえるだろうか。ロックを、原料にした事が見た目でわかるロックでは無く、見ただけでは分からないロックをケプラは抽出しているのかもしれない。

本作の楽曲の発表時期を見ると2021年〜2024年。彼らが青春を駆け抜けた時期は良くも悪くも多様性が世界を揺るがしていった時期といえる。彼らの楽曲はそんな時期のタイムラインにリアルな刻印を打ち続けていたのだろう。今のアーティストに見られるJ-POPからの適切な抽出性と、洋楽の表現とのヴィヴィッドな最適化。それらを駆使しながら、多様性によって生まれたケプラのロックはあくまでも病的に青春を叫び続けているのである。

LIVE REPORT

GRAPEVINE
Almost There Tour
extra show
in なんばHatch 2024.3.24
LIVE REPORT

いつものバインが戻ってきた。

ルーズな白シャツにピンクのワイドレッグパンツというコーデで決めた田中和将がいつもの笑顔で登場。カジュアルなネイビーカラーの西川弘剛と薄いグレーのシンプルコーデの亀井亨も定位置に、そして全身黒コーデの金戸覚、限りなく黒に近いグレーコーデの高野勲もスタンバイ。田中の「じゃあ〜はじめましょかっ」という掛け声とともに"雀の子"から始まった。

この曲は、ライブ中盤にきた方がおどろおどろしさが伝わると思っているけど、その反面これは田中少年の回想と推察もできる。「かすうどんくわしたろか」と言われているのは、田中少年だという妄想。だから、やはりライブストーリーの1ページ目である必然性は否定出来ないわけだ。

アフリカのリズム的なアレンジでスタートの"Neo Burlesque"が続き、"Ub(You bet on it)"からMCを挟み、"EVIL EYE"。この2曲が続いた事から推察すると《世界中が敵》と、悪というキーワードからGRAPEVINEがヒール役であるというストーリー展開になると読み解いていく。
そうこうするうちに"マダカレークッテナイデショー"へ、金戸覚のファンキーなベースプレイが展開され、"それは永遠"、"TOKAKU"が続き、Almost There物語の序盤、不確かな愛を見つけた瑞々しい青春期のクールが過ぎていく。

亀井亨の重厚圧で印象的なドラミングが鳴り、ライブの中盤を告げる"新しい果実"だ。時間を重ねる毎に、この曲が分水嶺の役目を果たしている事を、切実に感じる。世界規模で見るならコロナ前後、バインの半径5m以内の変化。そして、戦争。すべて、それ以前には戻れない事を切なくも噛み締めていることにふと気がつく。
〜The Dark Side of the Moon〜
暗黒を走り出す場面のように"停電の夜"、"アマテラス"、"Ophelia"、田中アドリブのソウル歌唱から"The Long Bright Dark"までがAlmost There物語のドス黒い闇を疾走し抜けるまでのクールだった。

後半戦は"Loss(Angels)"から。これが一つの物語の結論になっていたと思う。
"アナザーワールド"を見ようとしたバインがその逆説を唱えたことこそがロックとしてのスタンダードなアンサーになりえている。
そこからMCを挟み、昨今のJ-POPへのバインなりのニヒルな回答集とでも言おうか。バインのアニソン批評"Goodbye,Annie"、バイン的シティーポップな回答"実はもう熟れ"、そして物語は佳境へ一気にギアを上げるように"Glare"、バイン的似非(マジ)ブルース"Scare"、方向転換し田中の「よっしゃ〜ほな行くでー」という掛け声から"超える"でバインの定番のピーク地点に到達。そこからバインのロックとはこれや的な"Ready to get started"。西川弘剛が舞台ツラまで出てのギターソロ等も相まって会場の盛り上がりをさらに越えさせた後、〆もまさにアフリカのリズムから始まる"SEX"で、しっぽりとバイン的昨今のソウルへの解釈を提示し、Almost There物語の本編は、新たなる愛を"あともう少し"求めていこうとし、幕を閉じた。

アンコールは"God only knows"から"shame"、ラストは"Arma"だった。
最初にいつものバインが戻ってきたと言ったが、安易にヒットパレードなセトリにしないヒールなバインが復活した。しかし、そこには見た人の数だけ感じられるストーリーがライブの曲順で描かれていたと思う。

"Almost There Tour"のextra showとはアルバムタイトルになぞらえたショーだった。余白の余分から見えてきたものとは?コロナ前後で当たり前だった事柄が確かに変わった。戦争が今確かに起こっているというリアルはもうそれまでには戻れない。田中和将の復活前後でバインの音楽の価値が変わることは1ミリ単位も無い。それは火を見るより明らかなのだが、復活劇があろうがなかろうが、いずれ命題に上がってきただろうバインの延命というキーワード。バンドとは生き物。早いか遅いかの違いはあるが終わりはいずれ来る。あともう少し、そんな事を察知させるように『Almost there 』とこのツアーが存在していたのだと思う。

バインの次の物語はどこに?
《どうして誰もが急ぎ足でその次を欲しがるんだろう》"指先"の歌詞とは裏腹に、バインは常に次を描き続けてきた。これほど長い間コンスタントに同じクオリティーの作品を生み出し続けているロックバンドって日本にはGRAPEVINEしかいないと言っていい。
もう少し想像してみると、バインの次の物語を少し示唆したのはアンコールラストの"Arma"の意味合いについて《武器は要らない》という歌詞。表側の意味は戦争についての揶揄。しかしAlmost There物語上での意味、田中和将はすでに武器を持っていたということ。西川弘剛のギター、亀井亨のドラム、金戸覚のベース、高野勲のキーボード等からの無限音源。これらこそArmaだったと田中は察知した、兎角そういうことにしておこう。かくて円環は閉じる。

余談ですが…
"阿"吽、円環が出たところで、ショーの本編がアフリカのリズムで始まりと終わりを繋ぐ事で
ポップミュージックの始まりと今を円環するというバインなりのイメージだったのでは?そして世界の音楽シーンも2023年、世界の多様性によって阿吽の様に一度円環が閉じたのではないかと、そして2024年新たに、阿…が始まる
《六時にオープンオープン
七時スタートでっせ》
最後にもっと想像してみてみよう。Almost There物語の最初のシーン、少年が変な大人にかすうどん食わしたろかと言われた後、七時にスタートするライブに行ったらしい、そこで演奏していたのがGRAPEVINEの Armaだったとさ。Almost There物語の円環は閉じた。またすべては振り出しに戻るが、世界のストーリーは前とは違っていて欲しい、そう願わずにはいられない。

DISC REVIEW

SZA

『SOS』

 

ー 自分自身でいれば良かった季節の終わりを告げる『SOS』ー

 

SZAがR&Bシンガーだったころがある。少なくとも『Ctrl』、『Z』では現代的という括りであっても、普通の R&Bシンガーでいられたときだった。しかし、今作で彼女は単なる R&Bシンガーから離れていく。それは何のため?更なる成功のため?もちろんそれもあるだろう。ソウルフルな黒人歌手である事に変わりはない。ただ、 R&Bシンガーから離れて行かざるを得ない、抜き差しならない理由があるような気がしていたのだ。

『SOS』と題した本作は表題曲から始まる。90s〜00s R&B・ソウルに、レトロスペクティヴなサンプリングによる引用。そこにトラップミュージックとラップからマンブルラップも入り、ネオソウルの体現となっている。歌詞で歌われる思いはというと、哀しみや怒りから派生し行き着いた先の渇いた喜楽といったものが潜んでいるように感じた。つまり元々悲しみを表現するソウルが哀を抱えるキャパシティを超えて喜に振れたような。もしかして、喜びと悲しみの狭間に彼女の「SOS」の意味は存在しているのかもしれないと思い始めてきた。

変化点は「Ghost in the Machine」だった。トラップミュージックやダブステップブレイクビーツが交差し、それまでの哀しみや怒りから気が触れたように、その感情を根底に宿しながら、喜びや楽しさを醸し出し始める。《ロボットにはこころがある》というのはアメリカ人お得意の考え方でもあるが、別の視点から捉えると、マイノリティな人種である彼女がマジョリティな人種をロボットと捉えて、あなたたちにはこころがあるからね?という皮肉と捉える事も出来るのでは無いか。その証拠に次の「F2F」ではパンクロックに急転換し、カントリーミュージック、フォークロックというマジョリティな音を展開していることも、あえてなのでは無いか。

もう一つの変化点は「Open Arms」となった。フォークミュージックの上で、ソウルを歌い、ラップする。これがSZAの本来のスタイルだろう。本作の中でも、ここで原点に戻るという意味を持たせつつ、フェイドアウトでアフリカの太鼓のリズムが流れる。すべてのポップミュージックの源流はアフリカにあるということを再認識させる事で、この曲が本編の実質的な幕引きの様に捉えられる。

誰も彼もがピーターパンになりたがる。それはピーターパン症候群の話ではなく、みんな主役になりたいというはなし。SNSで世界が繋がった。いいね!によってよろこびの共有が出来ると同時に否が応でも、悲しみの共有が必然となってしまったいま、はたと逃げ場がない事に気がつく。自由を手に入れたはずの私たちは同時に不自由さも背負わされていたのだ。でも仕方がない、SNSで情報を手に入れようという本能は太古の昔から人間のDNAに組み込まれているというのだから。

SZAが単なる R&Bシンガーでいられたころが懐かしい、と本人は思っていないだろうが。SZAがSOSを歌うのは自分自身の為なのか、タガタメか。本作で彼女が本来のスタイルで歌った事も、マジョリティなスタイルで歌った事も、どちらも事実である。ラスト3曲、「I Hate U」は怒りと哀しみを、「Good Days」は哀しみと喜びを。最後の「Forgiveless」はなんとも言えない怒りを。"メランコリーそして終わりない悲しみ"ーーー私たちは喜びと悲しみの共有をした事によって、自らの手で、自分自身でいればよかったという時代の終止符を打つ事となった。SZAが単なる R&Bシンガーを離れていく理由もその潮流を察知した事によるのかもしれない。自分の発信したSOSが簡単に共有され、誰かにとってのSOSになり得てしまう世界になってしまった…でもそれは悪いことばかりではない。あなたはこれからも自分自身でいようとすればするほど、傷つき、疲弊していくだろう。しかし、あなたのこころがSOSを鳴らせば、すぐにSZAの SOSと共鳴、いや、同期できてしまう。2022年とは、そういう時代なのだ。

DISC REVIEW

ROTH BART BARON
『HOWL』


ーキングとプリンスが死んだ後の幸福論を探して僕らは旅立つー


ロックは神と戦うプロセスのひとつだった。過去形である理由は、少なくとも今の日本のロックバンドで神と戦うアティテュードを持つ者は殆どいないからだ。だが、ROTH BART BARONはロックを片手に神と戦っているアーティストの生き残りと言えるだろう。

神と戦うとは、世界と向き合って生まれる言葉をロックに落とし込むという意味でもある。ここ最近の彼らの作品である『極彩色の祝祭』と『無限のHAKU』は繋がりから断絶への過程を表現していたと思う。それは産みの苦しみの如く、絶望を歌うことによってそれらを示す言語を生み出す、というプロセスが反映されていた。では、世界が大きく変わってしまった後に生まれた本作で彼らはどんな言語を生み出したのか。

かまいたちの夜に私たちは嘘と誠を両方手に入れたようだ。かまいたちを妖怪の仕業だと思って体を切られた時は恐怖と同時に少しの神秘性を感じたとしよう。その後、科学的に証明出来る自然現象だと知ると恐怖は失われるが同時に少し退屈になるかもしれない。私たちは嘘を嫌がりながら、誠を知った時の失望を常に恐れながら生きているのかもしれない。

キングもプリンスも存在しない世界を追い求めていた私たちは、それらが本当に死んでしまった後の絶望をぶら下げて新たな希望を模索している。ROTH BART BARONはアンビエントエレクトロニカと、カントリーミュージックオルタナティヴロックを対比する事で、原始的世界から近未来的世界の行き来を表現する。果たして、私たちはどちらを求めているのだろう。BPMの変化によって見える景色は変わるけど、本当に求めているもの自体がわからなくなっているようだ。そんな時「場所たち」の《“何か確実な 確かなもの”が/本当に欲しいかい?/“本当に欲しいのかい?”》という歌詞が私たちを痛烈に揺さぶり始める。

ーーー遠吠えだ。
本作の始まり「月に吠える」が近未来世界の始まりを表した場所だとすると、それに呼応する「場所たち」はそれの終わりを表すと捉えられる。音楽的にも、本作の大団円「MIRAI」を含めたエピローグが、非常にプリミティブな楽曲によって表現されている事からみて、最後の3曲に近未来的世界が崩壊した後の希望を感じてしまう事は間違いではないはず。
ようやく気がついたんじゃない?彼らが表現した遠吠えの正体が。
全ての言語を失った生き物が唯一使いこなせる言語…それが遠吠えだ。
新たな幸福論を先ずはそこから始めようじゃないか。

DISC REVIEW

Seukol
『Long Take - EP』


ーSeukolが2022年にギターソロを止めない理由とは?ー


レディオ・フレンドリーでないブルース。このストリーミング時代において、Seukolには初っぱなからの長いイントロで出鼻を挫かれる。いやはや、でも少し聴いてみようよと、腰を据えて向き合ってみると彼らのロックの魅力は爆発し始めた。でもなんで2022年にギターソロをこんなにも奏でているんだ。

やはりGRAPEVINEの影響を感じてしまうのだが。そのようなブルースがしたいのだろう。しかし、ロックンロール・リバイバルを通った後の世代の彼らは、ロックの原始的な性急さや粗さを上手く併せ持った楽曲に仕上げている。だから変に日本の90年代末〜00年代の再現では無く、しっかり2022年の音として聴く事が可能である。さらに、影響を受けたバンドに対して通常は少しコマーシャルになるのが正攻法だが、彼らはより匠の技への傾倒、アンチコマーシャルな佇まいを持っているのが特徴だ。

果たしてギターソロはまだ続いているのか?コロナショックによって私たちは確かにロックの有効性を改めて感じた。しかし、地方都市がもう復興する事がないように、匠の技が途絶えていくように、ロックが昔のように再興していくことはもう無い。ギターソロが止まったかように見えたのはストロボ効果のせいで、まだ続いているってか?いや、それ何億年前の星の光だと思ってんだ。

なぁ、なんでカメラ長回しし続けているの?いや、これもう止まってるんだよって。なぁ、なんでまだギターソロ弾き続けてるんだっけ?Seukolに聞いてみた。いや、もう成熟し過ぎてるんで止めようかと。なぁ、なんでまだブルースしてんだよって、ロックが無くなったら悲しいからに決まってんだろ。ーーー唯一の希望は、成熟したロックはSeukolのような未成熟な歌声を待ち続けている…それだけだ。

DISC REVIEW

笹川真生
『うろんなひと』


ーうろんなひと笹川真生は世の中の失踪者が疾走し続ける意味を唄うー


宅録スタジオで作った正常なロックを奏でていた笹川真生。そのままでいれば、ボカロから出てきたギターロックの1人に数えられていただろう。しかし、その界隈には留まらないのが必然の理のように彼はそこを脱していく。

つまりは宅録スタジオを失踪後の如く。オルタナティヴとして、ジャズやソウル、ブルースを打ち込みによってJ-POP化させていくセンスはやはり宅録出身の編集力だろう。そのJ-POP的視点が彼の音楽のメロディアスな奔流と合致している。

2017年、台北の繁華街には普通に障害者が歩いていた。医療の発達した日本ではほぼ見られなくなった景色である。ただ、どれだけ医療が発達しても似非障害者は消えないだろう。そういう人たちの是非を唱えたい訳ではない。障害の宣言の使い方を私たちはもう一度考え直す必要があるのでは。

宅録スタジオ破壊後に思えてくるのだが…彼の歌声には微かな欲望と喪失が渦巻く。其処で、笹川真生は自分をうろんなひと、と宣言したのだろうか?ーーーもしそうだとしたら、その真意は《病気だったら好きなの?/とろけそうな再発見》という歌詞に込められていそう。世の中から失踪した彼はさらに疾走を続けていく。いったい何処で?不条理にも彼は自身の音楽によって、避け続けてきたグラマラスな地点に辿り着いてしまった。それが浄化に繋がる事を本能では察知していたかのように。

DISC REVIEW

テイラー・スウィフト
『Midnights』


テイラー・スウィフトジャンヌ・ダルクにならずして何になる?の段ー


この作品によって明白になったのは『1989』が不本意に手に入れた栄光だった事と『folklore』が予め定められた栄光であった事だ。カントリーソング・シンガーからEDMに乗りポップスターへ変身したストーリーや、フォークソングとウィスパーボイスによって生み出された、アメリカが求めるシンガーのあり方を提示して手に入れた成功。それらは何者かによって作られたアメリカンドリームだったのかもしれない。《The one I was dancing with in New York, no shoes》(あたしが踊っていた人、NYで靴を履かずに)「Maroon」の歌詞から靴を履いていないのは死人を意味するとすれば、あの時、本当のテイラーはそこには存在していなかった。

では本作が先述の作品らと全く違うものになっているかというと、そうでは無い。『1989』を引き継ぐように1曲目の「Lavender Haze」はEDM全開で始まる。ただ作品タイトルの如く、陰の側面をたどる様に作品は進んでいく。それが結果的にシューゲイザーやインディー・エレクトロニックに近しいものになっていて、そう考えると「folklore」が今作の瑞々しきインディーロックへのガイド役になっていたとも言えるだろう

1950年代以降のアメリカ映画に観る価値のあるものは無い。《The 1950s shit they want for me》(1950年代の出来事があたしには必要なの)「Lavender Haze」の歌詞を見て、ある著名人の発言を想起した。おそらく1950sには古き良きアメリカが存在していた、もう取り戻す事の出来ない大切な何かが。そう言った意味では古き良きアメリカ像を体現するシンガーの代表であるラナ・デル・レイがフューチャーされた「Snow On The Beach」は懐かしき美しさを表す秀逸曲となっている。テイラーが取り戻したいものって何なんだろ。

最後に、何故『Midnights』という題名なのか。確かにラベンダーの靄のように何かの幕に覆われた作品風景。例えば、丑の刻にはいつもは気にならない音が気になったりするように。本作においても、美しきファルセットボイス、くぐもった歌声、歓声、《nice》というキュートな声などが暗闇の中で特徴的に鳴る。《'Cause I'm a mastermind》(だって、あたしは黒幕だから)「Mastermind」でテイラーはこの恋愛は全て私が仕組んだと歌う。これを自身の成功物語は全て私が首謀者だと読み替えてみると、私が黒幕という告白こそタイトルの意味に相応しく思えてくる。

もう少し考察してみると、その告白は本当の黒幕をあぶり出すためだったとしたら。おそらくテイラーは自身を黒幕にしてでも、早々にこの不毛な争いを幕引きしたかったと考えられる。何故なら、彼女はアメリカにおいてのジャンヌダルクになるつもりは無いからだ。有り体に言えば、テイラーは普通の女の子に戻りたいという事になるだろうか。それは『folklore』の時から変わっていないと思う。ーーー古き良き1950sのアメリカに想いを馳せるってすごく真っ当だと思う、今32歳のアメリカ人女性にとって。しかし実際にアメリカにおいての黒幕をあぶり出せたとしたら…本当の戦いはこれから始まるのかもしれない。