DISC REVIEW

帝国喫茶
『帝国喫茶』


ー2022年の日本に生まれるべくして生まれた、終焉を察知してロックする青春の理を歌う奴らー


罪深きバンド名をつけた事を数年後、後悔するだろう。食指が動くにもかかわらず拒絶反応が出て、音を聴いて案の定。数分でストップボタンを押してしまった。神の国のコーヒー屋という捉え方が出来る。神の国はもうないし、コーヒー屋は絶滅危惧種だ。そんな看板を掲げて今更何を歌うというのか。青春とロック?もう飽き飽きなのだ。

少し遠出までして気持ちを落ち着けないといけなかったが、ようやく最後まで聴くことが出来た。00年代のロックンロールリバイバルに影響を受けた本国のロックバンド、その傾向を引き継ぎながら、日本の80年代のポップと90年代のロックのアティチュードを持った楽曲が詰め込まれた作品となっている。いうなれば、ガレージJ-POPパンクと称するのがいいのではないか。

ロックが日本で根付いているかどうか意見はさまざまだと思うが、根付かなかった理由は日本が成熟した国だったからだ。ロックとはいつも未成熟な土地に根付く。だから日本とロックは親和性が悪かった。でも、思想だけは受け継がれているのかもしれない。ロックとは異文化交流によって生じた隙間から鳴り始める。つまり日本も異文化によって壊されたらロックが本当の意味で根付くだろう。

時を同じくして、落雷の様な崩壊の音を君は聞いたかい?それは未成熟な世界と未成熟なロックの邂逅を意味するかの如く。成熟した日本はこれからもっと稚拙な国へと遡っていくのかもしれない。幸か不幸か、新たに青春が生じてしまったのだ。ーーーそれにもう気付いている奴らもいる…そう、青春に向き合う熱量を端的にロックへ変換した帝国喫茶という名のバンドである。ロックが青春である事を思い出させてくれるバンドが今の日本に生まれるのは必然であり、本作は2022年の名盤と言っていいだろう。

DISC REVIEW

BUMP OF CHICKEN

『SOUVENIR』


ーみんなのバンプが生み出した「ダイヤモンド」の再定義は「ランプ」の再定義に向けた旅立ちの曲ー


おそらく『aurora arc』の次に鳴るべき音だった曲だ。バンプコクーンとしてのバンプを巣立つ意味合いがあったアルバムを経て、新たな旅立ちを象徴するのは、この曲をおいて無かったはず。しかし旅には想定外がつきもので、季節の変わり目には体調を崩したりもする。猶予期間が終わりを告げたのだ。ようやく名実共に、生身の4人がバンプとしての歌を歌い始めた。

それと共に感じるのは「太陽」の再定義曲「クロノスタシス」は、通過すべき絶対的なものだった。ドアを出なかった側の未来を示唆した、つまり藤原基央が常に描き続けてきた、物事の陰の部分を確実に丁寧にレクイエムした曲を辿る必要があった。これを成し遂げるための大切な期間だったとも言えるだろう。そして、ここに戻ってきたのだ、ついに「ダイヤモンド」の再定義まで。

シークレット・トラックもバンプのファンにとってはお土産なのかも。その延長線上にあるのが「ラフ・メイカー」、「かさぶたぶたぶ」や「ダンデライオン」そして、「新世界」だった。バンプの曲にはシリアスなものと、逆にコミカルなものがあるが、じつは後者の方が伝えたいことはヘヴィーだったりする。その系譜にある楽曲自体を再定義した結果、生まれたのが“お土産”という新たな出発地点だったのだ。

残された『FLAME VEIN』と『THE LIVING DEAD』。この途轍もない喜怒哀楽を伴って産み出された2作。あの衝動的結晶を新たなる文脈で再構築する事は私たちにとってのお土産になり得る。いや、これはバンプのファンのみならず、すべての人に伝えるべき事柄でもある。ーーー自分を救う方法論のサンプルにもなるはず…控え目に言っても、ロックバンドの使命なんだよ。私はその旅の途中にある「ランプ」の再定義を夢想し続けている。

DISC REVIEW

踊ってばかりの国
『paradise review』


ーパラダイス・レビューが解き明かすパラダイムシフトの真実ー


思い返してみると、踊ってばかりの国は、純真さをサイケデリックと共に与えてくれる怖さ、から始まっていた。その畏怖が彼らの音楽の気持ち良さでもあった。あの空気感のまま突き進んでいたらどうなっていただろうと、また怖くなる。終着点は見ずして回避したわけだ。その処世術として、すべてにおいてよりオーガニックに表現するという道を下津光史は選択したのだと思う。

サイケデリックからオーガニックに移行する事は音楽的にはより削ぎ落としたものになる。つまりレゲエや根源的な音への追求などを経て、歌詞世界としては、直接的では無くファンタジーからリアルを表出するものへ変化し、行き着いた先が『moana』。完全に自然なる音世界は紛ごうことなき正義であった。しかし、それは同時に悪に肉薄した地点でもある事は言わずもがな。結果的にそれはバンドをサイケデリック・ロックへ自ずと呼び戻す契機を作る事になった。

世界でパラダイムシフトが広がりつつある。脱サラ都会離れ手作小屋暮らしYouTuberもそれ?どうなんだろう。昔のヒッピーも既存の世界に反発して、より正義を目指した。麻薬とセックスに侵食された末路だったが。件のYouTuberも今のところは正義が確立していたとして、個が集団化すれば新たなルールが生まれてしまい…元の木阿弥に?私達はまた、始めの一歩を見たいだけなの。振り出しに戻る事は想定せずに。

パラダイムシフトはウロボロスで無くてはならないだろう。パラダイス・レビューが見出したものとは、やはり世界は変わらないということでもある。踊ってばかりの国も再びサイケなロックを武器に、もう一度スタート地点に立つ。ただ、正義の果てへの旅で出会った悪魔に、ニヒルに世界を見るユーモラスさという悪魔の実を貰ったバンドがこれから進む道は、一味も二味も違うかもしれない。天使も悪魔も知らぬ存ぜぬだが、彼らはこれからも本当に人間が進化したと思えるまでラブソングを歌い継ぐ。

DISC REVIEW

NOMELON NOLEMON
『感覚派 - EP』


アイデンティティの化石化を美しいと言い続けられるポップの魔法とは?ー


ボカロ界隈においてNOMELON NOLEMONが最もロックである。その理由は「SUGAR」でもわかるように、自らが提示しているメッセージがこの界隈でも苦味のあるものだと自己批評し、且つそれは砂糖で甘くして誤魔化せるでしょ、という世相に対してのニヒリズムも同時に込められているからだ。歌詞の中にアイデンティティの明示を的確に込めているところがこのユニットの優秀な点である。

EPの5曲の流れを捉えてみると、「SUGAR」のダンス・ロックから始まり、「ウィスパー・シティ」のシティーポップ感とニューミュージック的「フィルム」、そして「タッチ」のアニソン・フォーマットの踏襲。最後の「線香金魚」は4つ打ちギター・ロックで締めている。特筆すべきは、シティーポップをパロディ化し、デュオのレプリカ的体現が出来ていること。また、童謡の視点をニューミュージックに混ぜ、色彩的オマージュに仕上げている部分だ。

卒業写真を化石化して生まれたエモとでも言おうか。すでに化石化した膨大な音楽ライブラリの上に立つ事を認識しているのが、彼らの時代性。しかし、卒業写真は化石化出来ても、アイデンティティはどうだろう。“感覚派”の中では答えはもちろんNO!だ。その痛烈な拒否が、ノーメロ的エモさに裏打ちされている。

最後に、そのエモさを辿っていこう。すると、やはり彼らは何かを悟っている事に気が付く。それは何か…そう、無くなることだ。風化していくこと自体に冷めた視点を持ったポップの美しさが確かに此処にある。アイデンティティの化石化を拒否しても、いずれアイデンティティは化石化し地下に眠る。その屍の上に立ち生きる私たちは、それを美しいね〜美しいね〜と言い続ける。なんでだと思う?それがポップの魔法だからさ。そして、当然の事だが、それはアイデンティティの化石化を断固拒否し続けているヤツにしか描けないポップでもあるんだよ。

DISC REVIEW

RQNY
『pain(ts)』


ー片手落ちの世界で歌う意味を問い続けるアーティストたちー


今のロック・アーティストの主題とはロックを歌う意味を考察する事にある。ロック自身が歌う意味を問う必要があるという、なんだか分からない世界だが…今まさに分からない世界の入り口に立たされている私たちには、逆にしっくりくるのかもしれない。そういう摩訶不思議な瞬間にこそ、RQNYというロックに向き合う1人の音楽家の必要性を感じざるを得ないだろう。

音楽的に広義な意味での引き算の有効性が示されたのは2010年代のポップにおいてだった。その意味とは別にRQNYの音楽には引き算が存在する。この7曲を聴くと、レディオヘッドが切り開いた2000年代のロックから、その有効性を引き継いだトラップとマンブルラップの傾向。もう一つの流れはシガーロス的なポストロックのニュアンス。それらを削ぎ落とした結果の弾き語り、ピアノとダブ・ステップ。現代性を魅せる為のK-POP的色彩感。今ロックに向き合った場合の引き算の体現とは、こういう事なのだろう。

ロックがどうであれ、フェスはフェスティバル、祭典で無くてはいけない。祭りの中では、犯罪や違法行為以外であればフリーダムな場所であってほしい。つまり、日常では無く非日常であるべきなのだ。だからマスクをするフェスは日常の要素が入っているので、まだ完全な祭典とは言えず、復活に向けた助走期間と捉えたい。私たちはマスクをしない本当の意味の祭典を待っているのだ。

じわじわと痛みが世界を侵食しつつあるにもかかわらず、ロックが直接的に痛みを伝えることが難しくなってきているのではないか?そんな今を、片手落ちの世界と呼ばずして何と言おう。不完全な世界でRQNYはロックで痛みを伝える事を持続可能にしようとするアーティスト…まさにSDGs的。いや、何も今に始まったことでは無いだろう、世界は昔から不完全で、完全なのだ。ーーーもちろん、それは、これからも墨塗り教科書を真実だと信じ続けられればの話だが。

DISC REVIEW

YUSUKE CHIBA -SNAKE ON THE BEACH-
『SINGS』


ー最適化の中心でチバユウスケが叫ぶ。そのスタイルから見えてくるのは、決して死なないためのラブソングを歌う事だったー


チバが歌えばすべてチバになる事をチバニアンという。もちろん嘘だが、
「BEER & CIGARETTES 」でチバが飲み屋で語り合う会話をバックにしたインストナンバーで、地表深くについて発言していたのは単なる偶然だろうか。何れにしても、彼の音楽の無次元化係数が同じであればすべての答えは正しくなる。しかし、チバで無ければ、すべては成り立たないのは言うまでもない。

そんな、正解を導き出してきた係数に少なからず揺らぎが生じてきている。何故だ。原因はそう、最適化された世界においてロックとは?という議論はこれから必ず生まれくる。その議題において、チバのロックの係数が不正解を導き出す可能性を示唆し始めた。そんな予兆を察知するかのように本作は、冷たき格好良さを表す「ムーンライト」「星粒」「ラブレター」「M42」と、熱き格好悪さを表す「星の少年」「ベイビーアイラブユー 」とが、明確な対比構造を成して『SINGS』を形作った、まるで何かに抗うかのように。

ロックにおいてラブソングとは常に死と隣合わせなのだ。それは今作の歌詞を捉えればすぐにわかる。常に相反するものが共存し合う場所にロックとは生まれてきて、かっこよさとかっこわるさはいつも同居していることが必然なのだ。また、ダサさの極致に本音とは存在する。

先の話と矛盾するがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとはかっこよさの極致だった。かっこわるさがひとつも存在しない、そして、チバとあのメンバーでしか成り立たないものでもあった。もちろんそこにある係数もたったひとつで、変える事は許されないもの…そう、だから無くなってしまった、のだ。ーーーこの作品でチバは、チバの音楽たらしめている定数を改竄した。この最適化された世界で、無次元化の定数を変えてまで伝えたい事があった。それは何か。音楽で死に向き合ってきた、チバユウスケだから歌える、決して死なないためのラブソングを歌う事に他ならないだろう。

DISC REVIEW

カワノ
『冷たい哺乳瓶』


ー正常と異常の狭間にあるカワノ時間の正体ー


この作品はCRYAMYとカワノの間に存在している。バンドが異常を表現し、彼の中には正常な視点があるとした場合、その間の空間に位置するのがソロ時間なのだ。つまり、その狭間にある音楽を表現するために作った、とも言える。今作に「道化の歌」という曲があるが、本人名義である事で、より意識的に道化なる視点を描けたのだろう。

また本作によってバンドの音楽的な骨格が明確化されたとも言える。フォーク、ポストパンク、ロック、パンク、ネオアコ、60sポップ。ザラついたテクスチャが感じられる楽曲が並び、最終的にすべて削ぎ落とした「白旗」。ソロの特色を感じるより、むしろ、良くも悪くも結果的にミニマルなバンド感が表出したと言える。

哺乳瓶の適温は36〜40℃らしい。タイトルの冷たいという表現から、冷たい哺乳瓶で育った人=異常というロジックを作りたかったのかもしれない。カワノはというと、抜群のバランス感覚で異常と正常を渡り歩く。《わけアリの人らを慰めるためだけに産み落とされた歌が砂の粒ほどある》「僕たちは失敗した」と《止まったらちゃんと殺してね》「道化の歌」の歌詞から、カワノが如何に自己批評性を持ったアーティストであるかが分かるのではないか。

正常と異常の狭間にあるカワノがここで歌うモノゴトは、実は色んなところで同時多発的に存在している。正義と悪、性差、希望と絶望、成功と失敗etc.ーーーその間にある圧倒的なグレーゾーン。つまりどちらかを選ぶ事も出来ず、選んだところで、正解不正解を受け取れるはずも無い。そんな不条理な世界で、カワノは二項対立を真っ向から否定し、完全無欠な正解を手に入れる。その是非など知らん…。それが此処に存在するカワノ時間の正体だ。