DISC REVIEW

汐れいら
『タイトロープ』


ー 一筋縄ではいかない承認欲求SSWとは誰? ー


汐れいらが目指すSSW像っなんだろうかと考えてみると…やっぱりグラマラスなSSWという例えしか思いつかない。佇まいはグラマラスから離れてはいるけど。『タイトロープ』の歌詞に桑田佳祐的方法論が潜んでいる事も関係しているかな。これを女性が歌う事に意味があると言っていられたのは、少し前の事で。それさえ多様性の中では普遍の渦に飲まれていく。では、彼女がこれを歌うのは、彼女がアイコンの対象になる為だけのものと言えるだろうか。

昨今、J-POPに足し算し続けるネオSSWという視点が出てき始めている。彼女のこれまでの楽曲も、ソウル、ヒップホップ、ブルースの要素を足し算している。そこにK-POP的なポップさを盛り込んだりも。曲が良くなる為なら方法を問わず盛り込み、行間を埋めていく。それが彼女の曲の美しさを際立たせている事は確かだ。

美しい世界は何処だ。スピッツ症候群を引きずるSSWたちはそう呟く。彼女もおそらく、スピッツ症候群のひとりだと思う。美しさを追求する為、スピッツ的な美しさを模索し続ける。果たして追いつけるのか、いや、その前に草野マサムネの中にもわだかまっているだろう…美しい世界とは何処に?そんな届かない美しさの捜索は、もしかしたら徒労に終わるのかもしれない。90年代に存在していたスピッツの美しき楽曲達はもう届かない墓標と化してしまったのか。もちろん彼らが悪い訳では無い。そもそも、美しい世界は死んだ、のだ。

私たちは承認欲求から解き放たれる事が出来るか、まずそれが問題だ。世界は今、承認欲求を満たせる者と満たそうと努力する者、それとは別に承認欲求自体から逸脱する者の三様に分かれている。そして、今私たちが目の当たりにしているのは、承認欲求を満たせる者を満たせない者が罰するという構図。そんな中で、汐れいらの役割とは…もちろん、いま出来る最適解をポップに落とし込む事だろう。少なくとも彼女は、一筋縄ではいかない承認欲求SSWという偶像を既に背負ってしまったのかもしれない。

DISC REVIEW

ART-SCHOOL
『Just Kids .ep』


ー柔らかい君の音とは木下理樹自身の声だった。それは新たなループの始まりになるだろかー


唯一欠落したものは何だろうか。今作に置いて、アートスクールの過去と現在とのリンク点を抽出すると「Just Kids」には初期のパンクさと後期のBPMの傾向があり、「柔らかい君の音」には初期のメロディアスさと後期のポップなリズムが混じり合っている。はたと気がつく、木下理樹の喪失感自体が喪失していることに。

これまでのアートを振り返ると、初期のハードロックやメタル、USインディーロックをギターロックに昇華したもの。第2期のテクノ、ダンスミュージックやファンクな要素を取り入れた1番コンテンポラリーだった時期。現体制になって、改めて木下理樹の原点に帰るようにグランジロックの体現。その後バンドとしての継続を占うようにメロコアエモコアのポップさを纏う方向にシフト。ようやく今作で、過去と現在を繋げて循環したのだと思う。つまり、アートは変わり続けてきたけども、またもとのアートに戻ってきた、音楽的には。

無次元化すると、ある係数を入れれば自ずとアートになる。アートは自身を無次元化し、存続してきた。その係数とは喪失、ずっとそう思っていた私。何故なら「In Colors」の無次元化の数式は、明らかな間違いだった、もちろん駄作という意味では無く。公式の係数が過剰だったのだ。おそらく係数に入れたポップさの程度が甚だしく、継続的使用は不可。その代償により木下理樹は休養せざるを得なかったのかもしれない。

再びアートは二周目に向かうが、そこに喪失というキーワードは欠落し、ポップさの多用も危険ときている。では、これからのアートはどこへ向かうだろう。少なくとも本作が生まれたことで、バンドは新たなループを描き始めている。そして、その円環の終焉を防いだのは紛れもなく木下理樹の歌唱。唯一なんの喪失も無い、そのまんまの彼の歌声が、このバンドの存在意義でもあるのだ。

DISC REVIEW

tacica

『singularity』

 

ー不確かなものを確かにするためにtacicaが選んだ10年後の景色とはー

 

悔恨からの懺悔、そして贖罪へ。『Jacaranda』から受け取った、その想念こそ、カタルシスの要因であった。00sの日本のギター・ロック、その1ピースとして、私にとってtacicaは必要不可欠な存在だった。しかし、出会いがあれば別れもある。『Sheeptown ALASCA』以降、彼らと距離を置いたのは確か。理由は私個人の飽き性か、時代の必然なのか…。言い訳をしておこう。正しいものであればあるほど、好きなものであればあるほど、人はそこから一度、離れなくてはいけなくなるのだ。

時代のせいにするなら、日本のロックの価値観は3.11で一度分岐点を迎える。それによって陽性判定となったバンドは方向転換を余儀なくされた。だが、彼らは陰性だった。では、何故。強いて言うなら、正しすぎる事は時に罪になるという事だろうか。その後の十数年は、猪狩翔一のメロディメーカーとしての力量を武器に、J-POPをパンクに消化し続ける事で、バンドとして生き残ってきたと言える。

屯田兵の末裔はカムイに背き続ける。無駄にこじつけてみた。十数年前、彼らは北のバンプと呼ばれていた。今、敢えて共通点を探すなら、どちらも無神論的な思想を持っているという事だろうか。一つの正しさにこだわり、神を信じず、tacicaはサバイブしてきたのかもしれない。

tacicaが語る話には常に救いがあった、それが懺悔から始まるものであっても。だからこそ、逆に息苦しくて一度離れてしまった。絶望的なものをパンクで表現するバンドには短命が付き物だが、彼らはまだ延命し続けている。十年余りが過ぎ去って、懺悔から始まった景色は今、何処に到達したのだろう?ーーーいや、そうじゃないのだ。それが“デッドエンド”の歌詞でわかってきた。《来た場所へ帰ろうとして辿り着いたのがこの場合だっただけ》これを、受け手側の視点と捉えてみると。そもそも、彼らは何処にも旅立ってなどいなかったという説が私の中で浮上してくる。彼らがずっと続けてきた定点観測、そこにこそtacicaが掴んだ確かな景色があるのだと。

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DIR EN GRAY
PHALARIS


ー過去のDIRの住人が求める答えと世界がDIRに求める答えが遂に交わる時ー 


ーーー世界がDIR EN GRAYに追いついた…と先ずはパロってみよう。そんな常套句を使うまでも無く、本作が彼らの最高傑作である事については露程も疑いは無いのでは。特に、アルバムとしての完成度が過去最高という意味に比重を置きたい。低音と高音及び強弱、BPM、曲とトータルの長さ、そういった音楽を司る全ての要素がフィットしている。DIRがこうあるべきという姿と完璧に合致し、且つ2022年の時代性に即したポップとして鳴るべき音が体現されている。

何故そこに至ったかと考えてみると、やはり、V系へのラブソング作『ARCHE』とロックな肉体性の解放作『THE INSULATED WORLD』を経た事が重要だったのだと、今更ながらひしひしと感じている。簡単に言うと、前者は昔からのDIRの住人に渇望される音で、後者は世界がDIRに求める音である。つまり、その行程を終えた事で、どちら側も満足出来る折衷案というべき答えが提示できた。それが本作だ。

神回を作るべからずと言っていたのは、松本人志である。音楽家も同じ運命なのは言わずもがなかな。しかし芸術家たるもの、そうは問屋が卸せるはずもない。DIRの神回は『UROBOROS』を最大瞬間風速とする前後の作品辺りだと私は考える。遂に今回、それを更新したと言っていいだろう。神回を作ることほどアーティストが自身の首を絞める罪深い事はないというのに。

10年に一度の傑作を作る罪と罰とは…
もちろん罰は、敢えなく昇天してしまう事への恐れ。しかし、もちろん彼らもわかっているのだろう。バンドとして長くサバイブする方法は色々ある。自身のパロディ化や自身を批評対象化するなどなど…。今回、彼らが罰をすり抜けるために選んだ方法とは、DIRの音楽自体を様式化し、今、求められる音に最適化すること。ロックの様式美は罪深いが、処世術であれば必要悪なのである。幸か不幸か、先住民と開拓者の双方が許せる答えが最適化されたDIRだったのだ。結果的に、彼らの音楽の蘇生法にもなっているという、個人的に一番嫌いな言葉だが、三方にとってWin-Winな答えなのだろう。本作が最高傑作である一番の理由、実はコレだったりする。

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BTS
『proof』


ー白人でも無く黒人でも無い選択肢とは?僕たちは世界の果てまでQという選択肢に逃げ続けるー


相変わらず色眼鏡からは逃げられないなと思う。それはポップ・ミュージックの中でも同じである。「FAKE LOVE」は明らかに革命だった。トラップ・ミュージックに完璧に乗る、ヴァースの韓国語歌詞のウェットな感情とコーラスの英語歌詞のドライな質感は、それ以外の言語ではいけない、ポップとしての完全無欠さを成し遂げていた。私も当時『LOVE YOURSELF 轉 'Tear'』を暫く愛聴していたが、それがビルボードチャート1位獲得を知った後だった事は言っておくべきだろう。

アンソロジーである本作を聴くとこれまでのBTSの音楽的な時空の旅を体験することが出来る。簡単に流れを捉えると、「No More Dream」から「Danger」迄が00sのヒップホップ、ソウル。「I NEED U」から10s的なトラップ、EDMへ移行し、終盤の「Dynamite」「Butter」は時空を遡り80sのポップスの色彩を魅せてくれる。改めて全体を俯瞰して見ると、K-POPアーティストが洋楽をオリジナルと同レベルで体現する新しさから始まり、徐々に加速していく中で韓国語がポップに乗る可能性を結実させ、最終的にBTS≒洋楽をだれも疑わなくなる地点までたどり着いたと言える。

今でも思い出すのは、90s末期にラジオで聴いた韓国語のロック。余りにロックのビートと相性が悪かったのを記憶している。だから未だにBTSの韓国語歌詞が何故ポップに馴染むのか、私自身は答えを掴めずにいる。おそらく、韓国の経済状況も変わった。K-POPへの投資額も増えた。韓国人のスキルも上がった。もちろんアーティストがデビューに至る迄の、血の滲むようなドキュメンタリーも決して嘘では無かったのが理由だろう。

誰も彼も色眼鏡からは逃れられない。日本人サッカー選手の欧州での活躍は、もちろん選手自身のスキルが上がった事が理由であるが、日本人の方が年俸が安く済むという意味もある。白人至上主義やBLMというワードがせめぎ合った近年。実は、私たちはそういったカテゴリーや制約から常に外れる事を本能的に求めていたのだ。そう、BTSはそれに適合する、何処にも属さない、私たちが渇望するクイア(Queer)的な存在であった事は疑いの余地は無い。私たちはこの10年ずっと、その“Q”に逃げ続けてきたのかも知れない。しかし、それはコロナ禍とロシアのウクライナ侵攻により唐突に方向転換を迫られる事になった。まぁ、でも、とりあえず今は何も考えずにこの作品を聴いてみてほしい。これから色々変わったとて、BTSが10sに刻まれた、決して消えないalternativeな証拠である事に変わりはない。“poor”な心も“Fake Love”で満たされるという“proof”を、BTSが体現した記録と言えるだろう。

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Ado『新時代(ウタ from ONE PIECE FILM RED)』


ーAdoが素顔を明かすまでの時間ー


Adoがいつ素顔を明かすのか楽しみにしているファンはいるのかな。しかしSNSという匿名世界の始まりからこの形態のアーティストが生まれるのは必然だったはず。でも、19歳の彼女がAdoを被った上に「ONE PIECE」のウタというキャラを被って歌うってなんか、マトリョーシカみたいにややこしくなってきた。

そんなイメージに沿う様に、ウタの歌とピアノの旋律で緩やかに始まるイントロから突然、海賊のおどろおどろしい太鼓の如きドラムビートと、ポストパンクを思わす冷厳なシンセ音が鳴り響き、曲は始まる。それとは対極にあるように歌詞のメッセージはタイトル通り、陽性な情熱が溢れている。

Adoが素顔を見せない事がお笑いに取り上げられるくらいに社会現象化した。その理由はコロンブスの卵だったから。誰もが簡単に出来たはず、でも誰もやらなかった。なぜならみんな始めての事は怖いからだ。そして彼女がAdoになりたいと出てきたら、どうぞ、どうぞ、というダチョウ倶楽部のネタみたいになった。だから、彼女の素顔を見たいというのは転校生の初泣き顔を見たいのと同義語なんだよ。

Adoが素顔を明かすメリットは今は無いだろう。開けても開けても真実が分からない国もあるしね。しかし、ある役者は歌舞伎を被って演じてる時が一番真心で伝えられる、武士の甲冑に近いみたいな事を発言していた。やっぱりそうなのだよ。彼女にもAdoだから言える真実があり、さらにウタを被ったら、それを上回る真実を伝えられたりして。この曲の無敵感が多分そう。でもさ、中田ヤスタカは何故、こういう陰性なシンセ音にしたんだろうね。それの方が新時代っぽいという計らい?でも、私なんかは全然信じてなくて、最後の歌詞がどうしても、信じないんだって聞こえちゃう。

DISC REVIEW

坂本慎太郎
『物語のように』


ーみんな違ってみんな笑うまで続く楽しい自粛生活ー


明るい作品というコピーにおよび腰になりつつ訪れたが、どうやら違ったようだ。むしろいつもの坂本慎太郎だろう。“フリー・ジャズ×チルアウト”な「それは違法でした」で歌われるのは、コロナ後の世界も加味し、多種多様に加速していく違法化を皮肉る視点である。物語は電子音による“人間味のない情景”から始まった。

明るいという表現の正しさは、古典的なアメリカのポップのドライな愉快さや、サーフ・ミュージックにある西海岸的な楽天主義をベースにしている事に裏打ちされる。しかし、これまでの彼の作品にもこの要素はあった。ならば、明らかに変わったのは、それを見る外側の感覚だろう。つまりこの物語にあるのは、明るい世界の崩壊から始まった明るさ、と言わざるを得ない。

絶望フェチにとっては悲しい事である。なぜならそれは世界の明るさの中でしか生きていけないからだ。その比較対象の楽しい現実社会という世界が揺らいでしまうと、おいそれと絶望もしていられない。もちろん、ポップやロックの役割もそれによって大きな影響を受けた。では彼が描く楽しいと悲しいの対比は何処へ行き着くのか。

その答えの一つは「浮き草」にある。水商売を例えた題で、音楽家の悲哀を歌う。《なぜみんなと違う?》《なぜみんなは笑う?》と疑問を呈しながら、自分が正しいと思うことをやっていればいいと、背中を押す様に歌われる。誰かにとっての悲しいは誰かにとっては楽しいにもなり得るのだ。本作のカーテンコール前と言える「愛のふとさ」は“フリー・ジャズ×ソウル”で、ようやく物語は“人間味のある情景”に戻る。あなたにとっての自粛生活は上がってたの?下がってたの?この際、はっきり言っておこう。