ROHITOのロカリロロロ

ロック評論家 ROHITOのブログ

DISC REVIEW

踊ってばかりの国

『光の中に』

 

―それでも音楽だけは裏切らないと言えるあなたへ―

 

《彼は光りの中に自足していた。この印象が私を搏った。春の光りや花々の中で、私の感じる気恥かしさやうしろめたさを、彼の持っていないことが、その姿を見てもわかった。彼は主張している影、というよりは、存在している影そのものだった。》(金閣寺/三島由紀夫

ジャケットからも分かるように、下津光史が今作で大層な希望の光を描こうとした訳では無い。1曲目「ghost」の“乗っ取って/僕を乗っ取って/身体はいらない”「マリブコーク」の“僕には何にもなかった/あの入道雲見て”「water」の“もうそこに僕はいない/風が稲穂を揺らすだけ”これらの歌詞から感じられるのは喪失感と共に得られた到達点だ。

下津自身が光の中に飛び込む。彼自身が誰かの灯台になる。そんな生業としての覚悟が本作には沸々と湧いている。彼が入った光の中は金閣寺のように美しいのだろうか。おそらくそれは見る側と見せる側とでは大きく変わってくるものだ。

《美は細部で終り細部で完結することは決してなく、どの一部にも次の美の予兆が含まれていたからだ。細部の美はそれ自体不安に充たされていた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いわば金閣の主題をなした。そうした予兆は、虚無の兆しだったのである。虚無がこの美の構造だったのだ。》

この文で三島が表現したものと、下津が言う“光の中”は近しいものだと思う。三島にとって金閣寺の美とは虚無の象徴だった。下津が入り込んだ光の中の美は彼にとっては虚無だった。

ロックは美しい。美しいものとは虚無だ。だから、ロックとは虚無なもの。下津が20代最後に辿り着いたロックの一つの答えはそれだったのだろう。

それに辿り着いた事=ロックを引き継いでいる、その証明でもある。

 

DISC REVIEW

KOHH

『UNTITLED』

 

―令和の国の名前の無い若者たち―

 

Hi!僕はね(何?)・・・僕の名前は(誰?)・・・「マイ・ネーム・イズ/エミネム

最近、ぼくりりが引退した。彼がメディア等で語っていたように、周りが作り上げた「ぼくのりりっくのぼうよみ」という存在に彼自身が憑りつかれていったらしい。私は思っていた。このままいったら、現代の尾崎豊になってたんじゃないかと。最近尾崎のドキュメンタリーをTVで観た。彼も、周りが作りあげた「尾崎豊」像に支配されていったらしいから、そこまでいったら、ヤバかったかもしれないと。尾崎豊も名声と共に、死も掴んでしまったから。ぼくりりは無意識にそれを避けたのか。現時点では名声より今の幸せを選択したといえるだろう。

2011年の作品、古市憲寿著『絶望の国の幸福な若者たち』にそういった今の若者像の分析が詳しく書かれている。

私自身が一番気に入った箇所は、第2章ムラムラする若者たち/「幸せ」な若者の正体にある“人は将来に希望を無くした時、「幸せ」になることができる”という箇所だ。

私もこの説は正しいと思う、何故なら光の周りには闇があり、幸せは足枷だという。つまりすべての正しさの裏には間違いがあり、白の裏は黒だ。だから幸せだと感じられない地点があって初めて幸せだと感じられる場所が存在する訳だ。

それと同時にこれは私の持論だが、現在の若者が感じている幸せというのが市場操作された幸せではないかという危惧も持っている。杞憂ならいいが。

何はともあれ、ヒップヒップMCのKOHHは『UNTITLED』の「いつでも」でこうライムする。《いつでも気楽/いつでも気楽/あっちでは泣く/俺らは笑う》私たちの幸せの裏では誰かが泣いている。そんな世界だ。でもなんで“UNTITLED”というタイトルになったのだ?

KOHHは大体“俺ら”と歌う。今の若者は実名で幸せを叫ばない。何故だろう。おそらくそれが日本の中心で愛を叫ぶ唯一の方法なのかも。

最後に名前を教えてよ。

りんなだよ。

 

DISC REVIEW

GRAPEVINE

『ALL THE LIGHT』

 

―すべてがオールライトになる―

 

三つ子の魂百までというが、私の場合、何がしたいか分からん行動をする子だったという。掃除機を壊した事もあるのだと。

『ALL THE LIGHT』を聴いた。何故か森博嗣の『すべてはFになる』が頭を過ぎり、本作を解く鍵がそこにある気がして読んだ。予想通りだった。バインは全てをオールライトにするつもりなのかもしれない。

森の作品で7だけが孤独という部分がある。10進法では7だけが、素数で倍数が無い数字だという。

マントラという占いで7は光を表す。田中和将は光という言葉を歌詞に使ってきた。“7”がバインの音楽とリンクした。

田中のパーソナルな視点が具現化され始めた曲は「少年」だ。歌詞に《照らしてほしいのは/そんな遠くばかりじゃなく/目の前の本当の世界だけ》とある。本作では「Era」がそれを更新する。《あの頃のぼくらが/知らなかった真実を/知ってどうすんの》と、あの歌詞をオールライトに変えていく。本作を一通り聴けば過去の曲を軽やかに“Alright”と言っている様な部分に出会う。

世の中には物事をそのまま捉える人と穿った見かたをする人がいる。私は後者だと思う。田中はどっちだろう。普通、光とは希望の象徴だ。しかしそれは闇があってこそで、そこから抜け出したから、光=希望になる。闇を孤独の象徴とし、光を希望の象徴とするのが一般的だが、逆説的に言えば闇の中の孤独を抱えた者は、光の中に安易に飛び込むことが出来ず、だからこそ光は忌み嫌うべき存在になることもある。今まで田中にとって光とはそういう存在だったんじゃないか。やっと光に向き合えた。それがすべてをオールライトにすることだった。

因みに“F”も田中和将にリンクした。Fとは16進法で15を意味する。そう、田中和将の誕生日。本作は田中和将へ辿り着くための大きな一歩といえる。

私「田中よ1977年に何があったか教えてくれないか?」

田中「お前に聞く覚悟があるのかねぇ?」

 

DISC REVIEW

シャムキャッツ

『VIRGIN GRAFFITI』

―椿と烟よ、永遠に―

 両手で水を掬っても両端からこぼれてしまうように、人は掴めそうにないものを掴もうとする。ないものねだりでも、何度もする。回数を重ねるごとにその悲しさも理解しているはずなのに。

 究極的には、今の私たちにできないことは、“はじめの一歩”だろう。最初の一歩がいかに難しいかを知らずに言っているが、少なくとも私は誰かが行ったことを繰り返すことに虚しさを感じている。

 本作にも、そんな現在の普遍的なテーマが宿っている。ふと、タイトルと作品を聴いて、なんとなく頭を過ぎったのは夏目漱石の『それから』だった。文学的なアーティストがよく引用したりもじったりすることで、何かしらの関連性は感じていた。直観的にそれを読んだ結果、大いなる興奮を得て、この作品同士をこじつけることにした。

 「逃亡前夜」から始まる本作は、世俗からの逃亡、その願望をロックの原則に従って表現している。

 それと、『それから』の主人公代助と三千代が背徳な関係に至った結果、明治時代の社会的な枠からはみ出そうとする終盤のストーリーが妙にリンクしてしまう。

 代助と三千代のその後はここでは描かれていない。しかしその後の希望的観測を謳ったとするなら、愛の桃源郷を歌った「おしえない!」愛の理想郷を歌った「このままがいいね」が最適なBGMだ。

    簡単に言えば、資産家の次男代助は、無理に外国と肩を並べようとする本国に不満を吐き、金のために働く事への不満を語り、親の脛をかじって生きていた。そんな彼が、背徳の関係だった始まりはさておき、三千代と生きるために、働くことを決意するまでが描かれている。

    私は寒気がした。日本の状況、若者の思想、そして私が常に考えてきたこと、そのすべてが、この物語に、戦後ではなく戦前の明治時代に言い尽くされていたことに。夏目漱石に先見の明があったのか、私が古風な人間なのか。

    儚くも私の『VIRGIN GRAFFITI』たる思想は崩れ去った。

   2019年に最も難しいことは、最初の筆を下ろすことだ。もうすべてはやり尽くされている。そこから逃げる事など出来ない。まさに"100回やっても 1回目と同じ?"なのだ。

    シャムキャッツにとっては、本当の"VIRGIN GRAFFITI"を作ることが一番難しいと思う。だから彼らは今のシーンから逃亡する。なぜなら、今のこの世界にはひとつも"処女作"など存在しないからだ。それが出来た時、本当の"完熟宣言"が出来るって話よ。

 

LIVE REPORT

OBLIVION DUST

"Us Against Them Tour" 2018-19"

in 名古屋 Electric Lady Land 

2018年12月23日

   1曲目は最新作から“Death Surf”という順当な始まりだった。ツアー・タイトルから、今回のライブがファンのために行うツアーであることを窺わせる。KEN LLOYDSNSの発言から察するに、ファンとオブリが対峙する的なツアーのようで、この名古屋での彼等のファッションもいつもよりラフ、会場との一体感を重視する姿勢が見られた。

    オブリは作品毎の色合いや、音楽的な変化が大きいバンドだ。だからライブの中で各アルバムの曲が数曲続き、異なる情景を見せてくれる。もちろん今回もそうだった。

   ミクスチャー・ロック“NO REGRETS”の演奏が始まり、4thアルバム『BUTTERFLY HEAD』のモードがライブの世界をまた変えていった。RIKIJIがそこでベースを弾きながら、ダックウォーク的な動きでステージを左右にゆっくりと移動する、中々のフットワークでノリノリ具合。

    今回改めてサポートを含めたメンバーをしっかりみて感じた事は、オブリの特徴であるハード・ロック寄りのパンクやメロコアのリズムを、ARIMATSUの安定感のあるドラムが支えていること。K.A.Zのギター・テクニックは"When you say…"などのメロディを演奏するときのエモーショナルさにも影響を与えていること。yujiのリズム・ギターとK.A.Zとのユニゾンも今のオブリにとって重要なポイントになっている。そして、フロントマンKEN LLOYDの煽りと動き回るアグレッシブさはロック・アーティストとしての正しさを体現しているだろう。

    KENがMCで、ここのスタッフが用意してくれた水がデカイというのを引き合いに出して、名古屋のみんなは暴れてくれるってことだよね?というくだりから、みんなで歌ってくれと、"DESIGNER FETUS"のシンガロングが会場を盛り上げた。

    このツアーでは新曲も披露されている。"ダンス"というキーワードで紹介された曲はいわゆるダンス・ナンバー。これが今のオブリのモードなのだろうか。前半はお馴染みのダンス・ビートから始まり後半は縦ノリから横ノリに変化する。というか2018年のヒップホップの主流のトラップ的な感じもあり、身体に与えてくるのはハウス・ミュージックにある密室感でもあった。

   ダンス・ミュージックの流れで"Haze"、そして"Never Ending" 5thの『OBLIVION DUST』サイドが展開されクライマックスへ。最後のMCでKENは、バンドがまだ売れてないときから名古屋のライブハウスが一番盛り上がっていた昔話をして、この地への思いを伝えた。

   ヒットするモノは時代の半歩先を行っていると言われる。オブリはほとんど、時代の一歩先を行っていた。だから、どこにも属さないし、時代に乗ることもなかった。それが彼らの立ち位置だった。

    ラストは最新作『DIRT』サイド 。ハイライトはやはりオブリのメロコア、パンク"Under My Skin"だった。現在主流のロックを使い表現する。バンドとしての正しいアプローチであり、彼らの現在地を示してくれた。

   解散と活動休止をした結果、オブリは現在のロックと並走することになった。つまり時代が求めているロックをオブリが奏でることにつながった。それはもちろん健全なことである。ただ私がオブリに惹かれた理由は、なんだ、この音って思った瞬間があったからだ。今回の新曲で、久々にその一端を少し感じられた気がする。やっぱりオブリはアバンギャルドじゃなくちゃいかん!とかおじさん的な思いを抱きつつ会場を後にした。

LIVE REPORT

踊ってばかりの国

「2018年、秋のワンマンライブ」

in 梅田 Shangri-La

2018.11.4

SEは"ocean"  オルガンの調べが鳴り、メンバーが登場した。

2曲目でジャケットを脱いだ下津光史は、白Tシャツをジーンズにインという出で立ちで、ギターのストラップを目一杯左端に伸ばし歌い始めた。その姿はもう往年のロックスター。(これもしかしてベンジーのオマージュ?)さらっと時代を遡ってみせる。その姿を見て、畏怖の念を感じたり、僥倖だなと思ったり、何だか分からなくなった。ロックという古典を受け継ぎつつも、歌っていることが今のリアルをえぐり出し過ぎていることで、このバンドのアップデートを可能にしていた。

"ほんとごめんね"あたりから徐々にギアが上がり始め、最新作からの曲がライブに熱を与えていく。"evergreen"では、下津の擬態と「心を大切に」という歌詞の純真さが生々しく伝わってきて、他のバンドとは少し違ったライブ体験になりそうだと、頭の片隅で感じ始めた。最初の変化点が来たのは「いくとこまでいっちゃう?」という下津のMC後。"SEBULBA"あたりだろう。この曲の無敵感は今持って健在だと再認識した。

現体制なって。髪の毛も短くした下津は、ギターを弾きながら身体を動かし、ボディーランゲージやらアクションも交えて、表情も豊かに色々と変わる。

そしてみんなも踊ろうぜと笑顔でオーディエンスを煽ったりする。

これは喜劇を観るようにだし、アーティスト?ロックミュージシャン?どんな言葉を持って来ても不足じゃないかと思うくらいに、一線を越えたまま表現し続けていく下津。彼の、一線を越えるというはダークサイドに徹するのではなく、あくまでも陽性に振り切る、どこまでいっても陽。こういう人はアーティストの中にもそうはいない。

楽屋での話の続きというくだりで、ライブ前にでっかい鼻クソが取れたらいいライブになると屈託のない笑顔で話す下津は面白過ぎて普通じゃないし。

今のバンドメンバーとの親和性も増しているようで、どこまでも柔らかなアンサンブルが続く。"!!!"のノイジーなギターさえ、"Boy"のサイケなエンドロールの狂演さえも陽に徹されているように感じた。

おそらく下津は究極的に陰を理解し咀嚼しているからこそ、結果的に極限まで陽に徹した表現を続けられるのだと思う。

2回目の変化点は、ライブがピークへと向かおうとして、下津がMCで「見たことない景色見えるきいする」と言い放ち歌われた"僕はラジオ"辺り。もっともサイケデリックな瞬間が訪れる。

新曲もやってくれた。ストレートなロックで、音楽だけはあなたの味方だと普遍的な歌詞で僕らを揺さぶる。

本編ラストは"言葉も出ない"下津が目を見開き、一点を見つめ歌いきる姿。その形相で、また会いましょうと死ぬんだからのワードが繰り返される。そんな生と死の反復横跳びを見せつけられ、ありふれた言葉だがカタルシスに包み込まれた。つまりそれは、生と死が表裏一体であることの意味を知っているからこそ、生の尊さを叫びつつ、死ぬんだからとも叫べるのだ。

ほど無くして、ロックの古典を体現するように上半身裸になった下津、そしてメンバーが再登場した。彼のMCにも登場したイギーポップばりだろうか。"ジョン・ケイル"のモータウンビートの勢いにのり、ロックを現象的に表現し続け、ラストは"それで幸せ"。汗に濡れた上半身裸の佇まいで、一点を見つめ、本編ラスト以上の形相で、"明日あなたに会う/あなたに会う/それで幸せ"を溜めに溜め吐き出し歌い、リフレインし続けた。

終焉はダブルアンコールにて。下津はギターをかき鳴らし、ついには弦を毟り取った。ほんとリアリティのある瞬間だった。

終わりがあるから、笑顔でまた会おうというのだ。笑顔と泣き顔を使い分ける社会で、また一つ踊ってばかりの国に教えられた気がする。

DISC REVIEW

上坂すみれ『ノーフューチャーバカンス』

 

-ロックは本当に死んだのか?-

 

    “あなたがもう忘れてしまったとしても、きっと、次の未来でまた出会える。

わかってしまった世界のことも、きっと散々だって、笑い飛ばすことができる。

だから、思い出して、少しでも前を向いて。

日が沈む前に、こんな夏の話を、終わらせに行こう。”

 「Summertime Record」/『Mekakucity Records』/Jin

 

 もう正直に認めた方がいい、AKB48のメンバーの水着姿はオカズになると、男子諸君は。いや、認めなくてもいいんだが、少なくとも、AKB48は嫌いだけど欅坂46は好きとかいう人を、私は認めない。そもそも欅坂はAKBあってこそのグループなのだ。例えば、AKBがロックだとした場合、けやきはオルタナティブ・ロックみたいな立ち位置だ。だからAKB聴かずして、欅好きを語る方々は、ロックンロールは嫌いだけどオルタナティブ・ロックは好きと言っているのと同じなのだ。(もちろんオルタナティブ・ロック発祥以降の音楽リスナーである私はオルタナ大好き)欅坂がAKBに比べ、アートで前衛的に見えるのは分かる。ただそれはAKBという対象物があってこそのリフレクター。けやき坂の方は音楽として分かるという人は、そもそも錯覚に惑わされているのでは無いか。


   そうそう、2018年7月6日に麻原彰晃の死刑が執行されたらしい。人々はこういう、これでオウム事件が終わった訳では無い、遺族の怒りは収まっていない。またオウムのような事件が起きるのではないかという不安があると。確かにそうだろう。事件はこれで終わりじゃないし、遺族の怒りは一生収まらないのかもしれない。ただ、オウムのような事件はもう二度と起こらないと思う。彰晃の洗脳によって、高学歴の人々が操られて、起こされた事件の数々。もちろんその洗脳の陰には麻薬が使われていたという事実もあるが。バブル景気の真只中に社会人の扉を叩こうとした才能ある若者たちが、全く才能を活かせる舞台が存在しなかった此の時の浮かれた日本に絶望し、その逃げ場としてオウムという所謂宗教団体を選択してしまった。そういう人たちだったのではないかと私は思う。何故こういう事件がもう起こらないと思うかというと、もうそんなある意味で天才たちは2018年には存在しないからだ。


先日オウムの特番がTVで放送されていた。「オウムを終わらせた男」と題して、地下鉄サリン事件の実行犯で唯一死刑判決を受けなかった林郁夫をクローズアップしたドラマだった。林被告は取り調べで、地下鉄サリン事件の実行犯たちの名前を自供し、結果的にそれが彰晃らを逮捕できるきっかけになった。


この取り調べを担当した警察が、このドラマのもう一人の主人公。取調べには長い長い時間がかかり、林被告の告白に辿り着いた。そこに辿りつくまで、この警察は林被告も実行犯の一人だとは全く思わなかったという。それ程、林被告は人間味のある全うな人物だったのだろう。そんな人も少しの過ちで罪を犯す。


林被告を死刑に出来なかったことで警察はこのとき批判を受けたらしい。取調べで手柄を上げた警察は、裁判の前に上司から「初めから林が実行犯だと疑っていたと証言するんだろう」と言われ、それに対して「あんたもオウムと一緒だな!」と答えたという。裁判でこの警察は、林被告が実行犯とは全く分からずに取調べをした、そんな人物には見えなかったと正直に答えた。その証言と、林被告の裁判での罪の告白は遺族の怒りをさらに強めるものでは無かったらしい。結果、林被告は無期懲役の判決を受けた。この警察官はその後、出世をする事無く職務を終えたという。


私は別にこの警察官の行動が正しかった事を提示したい訳ではない。ただこれがまさに日本だ、ということは言えるだろう。社会という集団から除け者にされて入ったオウム。そこから疎外される事をおそれ、起こされた事件の数々。反対に警察という集団から疎外されることになっても自分の正義を押し通した警察官。おそらく日本では前者が多いと思う。

思い返してみると日本という国では「集団からの疎外」をおそれて実行された事柄が沢山あると思う。戦時中に起きた自爆を厭わない特別特攻隊、高度成長期にkaroshiなんて気にせず働き続けた人々、そして、オウム事件の犯人。いじめの加害者たち。昨今話題の働き方改革を訴える一般市民に、話題の、監督からの指示で危険なタックルを行った大学生。


これらは全然違う事に見えて、実は一つの相似形になっている。すべてに共通する因子は、「集団心理への恐怖から起こった事例」なのだ。世間からの疎外、団体からの疎外、友達からの疎外等、集団へ帰結することへの安心感と村八分になることへの恐怖心。日本人が元来持っている特性が悪影響を及ぼし、これらの事象を生み出したと思う。


オウム事件がここまで混迷を極め、今だに解決できないしこりを残したまま終わってしまった。その要因の一つに、この事件の本質的な部分を解決しようとして、奥深く追及しようとすればするほど、人間が本来持っているどす黒く、悪い部分に向き合わないといけなかったからだろう。それは警察、メディア、被害者を含め、すべての人たちがそう思ったのではなかろうか。オウムの悪い奴らを追い詰めようとすればするほど、その裏には私達が常に抱えている人間の弱さという異物がほろりと転がり出てしまったりして、それに目をそむけたくなる。きっとだれもが信じたくないのだ、自分がどれだけ汚れているかということを。


    その解決の糸口として、どうしても、戦後以降の高学歴主義がとか、高度成長期以降のとか、バブル以降のとか、言い訳がましくなる、私自身そう思ってきた。でもなんだか最近そういい難くなってきた。というのもそういった恩恵を受けながら30年以上生きてきた身としてはどうしても申し訳なさが後を引くようになってきたのだ。なんだかなぁ。もちろん集団心理によって引き起こされた事件の首謀者全員を否定するつもりは無いし、集団心理は使い方を間違えなければ、それによって日本の良さが存分に発揮されることも理解している。しかし、日本のいつ頃からか分からないが、“どす黒い渦巻くソレ”が存在して、今もってそれが何なのか分からないみたいな状態が続いている。もちろん目を背けて、見ないようにすれば、別段生活に支障は出ないのだが。でもやはりそれは戦後以降に生まれたものでは無いかという強い確信、戦前も戦争直後も知らない私が言える身分ではないかもしれないが。そういった得も言われぬ違和感のようなものを、色んな著名人の方が言葉にし、表現の中に含めたりしている。


例えば、養老孟司氏が著書で言っていたが、オウム事件が起こる少し前位から、養老氏が相手していた大学生の様子や発言がどうもおかしいという違和感を持っていたという。オウムの事件が発覚して、その犯人たちが何れも高学歴の大学生だったことを知って、その違和感の理由が分かったというようなことが書かれていた。

また、日本のバブル景気の時、小澤征爾氏が海外の飲食店で日本人に会った時の話が新聞に掲載されていた。その当時の海外に居た日本人は自分の自慢話をする輩ばかりだったという、彼はその時このままでは日本はヤバいぞと思ったらしい。


こういった方々の体験からも“ソレ”の存在を感じることが出来る。さらに、“ソレ”自体を表現しようとした作品もあると思う。

まずは、言わずと知れた庵野秀明監督の「エヴァンゲリオン」、また浦沢直樹氏の「20世紀少年」そして、宮部みゆき氏の「ソロモンの偽証」。

これらの登場人物を順に見ていくと。

エヴァそのものが実態の見えない“ソレ”に対しての怒りの象徴のようなものだろう。

20世紀少年に出てくる“友達”というモノ自体が彼等に付きまとっていた訳の分からない闇であり、具現化できない“ソレ”だったのだろう。

ソロモンの偽証の冒頭で自殺した少年、この物語で唯一答えが示されずに残っているのが、この少年の自殺した理由である。それこそが日本が戦後以降ずっと解決できていない問題であり、“ソレ”そのものなのだ。

この三者はいずれも、戦後以降に生まれた、ほぼ同世代の表現者であることも特筆すべき点だろう。この3人が作品で提示した“インテロゲーションマーク”こそが、今も私たちの周りに浮遊している“ソレ”に対しての、表現者としての小さな抵抗、石つぶてだったのではないかと思う。


 “ソレ”に惑わされずに生きればいい。そもそも、“ソレ”は存在しないのかもれない。と思ったりもするが、それでも私は“ソレ”が存在すると思っている。そして、それに対峙するための武器がロックだったらいいなと思うが、そんなきれいごとが通じる世の中はもう存在しないのだろう。特に日本では。

もちろんそれに対峙できるのはロックじゃなくて別の音楽だとは言わない、どこまでいっても、その閉塞感を打破できるのはロックだと思っている。かといって、今の閉塞感を打破できるようなロックが日本の中に存在して、機能しているかと聞かれれば、答えに困る。でも悲嘆はしていない、何故ならロックは何処まで行っても自由であることがロックの大前提だから。今の状態がロックとしてはごくごく普通なのだ。


 冒頭のAKBの水着が云々という発言が今更ながら恥ずかしくなってきたが、もう戻れないだろう。男の性でしょうかという発言するとACのCMか?絶滅危惧種の発言か?と思われてしまうのがオチだろう。そこにLGBTの権利がとかが入ってくるともう訳が分からなくなる。絶滅危惧種の発言として言わせてもらうが、私はリケジョというキャッチコピーがすきじゃない。また林先生が驚く初耳学のコーナー「初耳ピーポー」での新たな女性像的な紹介の仕方も好きじゃない。そもそも女性という部分にフォーカスを絞り過ぎていることに違和感がある。もちろん男女平等であることは正しいのだが、今の状態では日本はまだ男性優位社会であることがまるわかりだからだ。昔、谷川俊太郎氏が言っていたように「本当の平和は平和って言葉が疎ましくなるくらいになってやっと平和と言える」平和にしようと宣言しなくも良い世界が本当の平和だというのだ。だから敢えて女性をクローズアップしなくてもよくならないと本当の男女平等は実現しないだろう。


AKBの話に戻るが、女性にとっての同性のアイドルはどういった位置づけになるのか分からないが、男にとってアイドルとはいつの時代もそういう位置づけになってしまうのではないかという通念が頭の中にこびり付いている。

例えば、戦隊モノを男の子は好きだ。そして、大人になっても観る人はいる。でも成人してずいぶん経つ私はもう観ていない。それにはきっかけがある。大人への階段を上る途中で、ふと、女性の悪役を女として観てしまった時が来た。私はそれが戦隊モノ卒業の契機になったと思っている。もちろん大人になっても全然観て良いものだし、子供と一緒になってみるのは正しい。ただ、漠然としてあるのだ、私の中では。戦隊ものはこういう視点で見るべきだという基準が。

男にとってそういった視点は絶対に消えないし、だからアイドルに対してもそういった視点は消せないと思う。これが芸術性と男の性との戦いでもある。だから私はアイドルの音楽を100%芸術作品としてしか見ていないという男を信じていないし、私は絶対そうなれないと思う。だから、ロックの代りをアイドルは出来ないし、アイドルの代りをロックはしちゃいけないのだ。(ビートルズは最初アイドルみたいなものだったという話は置いといて)ロックにはロックとしての可能性があって、アイドルにはアイドルとしての可能性がある。決してロック=アイドルにならない。弁証法的にロックでも正しくて、アイドルでも正しいなんてことにはならない。


 弁証法的。そういえば弁証法唯物論とか小難しい歌詞を歌っている、上坂すみれの『ノーフューチャーバカンス』という作品を先日聴いてみたのだが...


2018年の日本の音楽シーンには、アイドルと女性声優、アニソンがクロスオーバーしたアーティストの市場がある。その中の一人、上坂すみれの本作は、コンセプトとしては「未来形少女」といったところだろうか。

近年の日本の音楽シーンとつながっている点としては、中田ヤスタカが仕掛けたテクノ・ポップ グループ Perfume以降を感じさせる「POP TEAM EPIC」。初音ミク以降のボカロ、歌い手シーンを、声優という本業色を最大限にマッチングさせた「恋する図形(cubic futurismo)」などだ。

それにしても、語弊のある言い方になるかもしれないが、彼女のようなアーティストは他にもいるはず?と思った。それでもなぜ、上坂すみれでないとダメだったかを考えてみた。


1つ目は、上坂すみれが1991年生まれという点から考察してみると。昔ネットで知り合った17才の女子高生(1992年生まれ)に、平成生まれイイよね。と言ったとき、彼女は「よくないですよ。昭和の方がいいです。平成生まれやからな〜って言われるんですよ、結局。」みたいな返され方をした事を思い出す。

おそらく、個人差はあるだろうが、平成なりたて頃の生まれは、そういう皮膚感覚を持ち合わせているのかもしれない。最近の若者の中には昔の歌謡曲を好んで聴く人が多くいるらしいし。そんな価値観が「平成生まれ」の歌詞にうまくリンクしてしまっている。作詞の松永天馬はそれを知ってか知らずか…

2つ目は、アルバムの全体的な基調になっているダンス・ミュージック。10年代のコンテンポラリーな色を出すためのEDM、トラップなどへの傾倒はあえて避けて、80年代を思い起こさせるようなビートを使うことで、いわゆる昭和的な匂いを彷彿させている。おそらく、そのように狙ってプロデュースしているのだろうが、これが自ずと上坂すみれの昭和への憧れとマッチングしている。

3つ目は、今作の、アイコンとしての上坂すみれのコンセプトは「未来形少女」と言った。しかし蓋を開けてみれば、"昭和育ち"やら古典を好む歌詞やら、80Sのビート感、ニューウェーブなど。歴史的なものへの恋慕に溢れた作品になっている。


近未来の少女という佇まいと倒錯し続けた結果、おぼろげに「ノーフューチャーバカンス」という言葉がステンシルシートを使って書いた文字のように浮かんでこないだろうか。つまり未来に希望を抱きまくっているからこそ近未来少女は生まれ、だけど、もう終わろとしている平成の世に本当の希望は見えなくて、だから昭和に憧れて。でも、そんな自分の時代を愛したいからこそ…

"私たちに明日は無くとも。だから、今こそバカンスなのだ!"

と、そんなことを言いたいのではないか。

ラストのシティーポップなタイトルソング「ノーフューチャーバカンス」は上坂すみれの作詞。そこには彼女の内面の吐露も見られるような気がする。

 

"光 窓辺に 身をゆだねたら

本当の自分が 見える気がするmoonlight  "

" ha 綺麗な時間だけを集めて 閉じ込めたい…

すべては消える砂糖(シュガー)の幻想(ドリーミン)"

 

闇の中だからこそ、光が見えるなんて、耳にタコが出来るほど聞いてきたかい?

歴史上からは昭和も消えない、平成も消えない。       

でも次の未来は、もっと希望が見える世界だったらイイね。