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ROHITOのロカリロロロ

ロック評論家 ROHITOのブログ

ROCK CLASSIC

ROCK CLASSIC

ボブ・ディラン 『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』
BOB DYLAN『BRINGING IT ALL BACK HOME』

 ―見える化のススメ―

    どうもきつねに抓まれたような、たぬきに騙されたような気になってくる。人口知能が現れてから、それに拍車が掛かってきた。現実社会で騙されるのはしょうがない。ネットで詐欺師に騙されるのは、まだマシだし。出会い系でさくらに騙されるのは寧ろ面白い。でも、せめて相手は生物であってほしい。血の通った生身の人間であってほしいと思う。目に見えない恐怖とアホらしい戦いをしている、今はそんな気分だ。
 見える化が善、という思想が当たり前になった今日。どうも無理な態勢を保ったままでいる方が多い。“スケルトン”なんてものが流行った時代はまだかわいいものだった。それで思い出すのがアイドルグループの嵐がデビュー曲で身に着けていたスケルトン衣装。あれ以降、徐々に見える化見える化と騒がれだした…なんてことはないか。そんなに見えたっていい事ばかりではない。本当にこわいモノを見た時、私たちはどうするのだろうか。
    反対に見えないものを見せてくれるのが、ミュージャンだろう。そして、ボブ・ディランもその一人である。現代ロックの創成期1965年の作品『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』は、ロックのスタート地点の一つでもある。
    ロックン・ロールが始まり、そう年月の経っていない60年代。黒人音楽として生まれた事を匂わすように、この時代のロックには、ジャズ、ブルース、そしてリズム・アンド・ブルースをベースとしている事がよくわかる音作りとなっている。
    元々フォーク・シンガーだったボブ・ディランが、本作で初めてロック・サウンドを自身の音楽に取り入れたと言われている。レコードの場合にA面となる7曲目迄が特にロックン・ロールらしい楽曲となっていて、ここから、フォーク・ロックの歴史が始まったという。
    同時代の日本の歌謡曲でディランの本作とリンクするものがあった。それは、坂本九の「上を向いて歩こう」や「明日があるさ」。この時のディランと坂本九の曲はベース・コード、リズムに類似点がある。それで調べてみると、坂本九の曲は、ジャズピアニストの中村八大が作曲者だった。両方とも根っこでは黒人音楽と繋がっていた、という事。
    ロックとは見えない敵と戦い続ける姿を見せる事でもある。この作品の中で見えない敵とは人種差別のことである。それが顕著に現れているのは、「オン・ザ・ロード・アゲイン」。和訳歌詞にて、 ”で、あんたはどうしてぼくがここにいないのか尋ねるが” と全小節に渡って繰り返される。この意味は、本当にいないのではなく、相手が黒人だから見えないと言い張っているのである。
    もう一つ、ボブ・ディランがアメリカを歌った、「ボブ・ディランの115番目の夢」。この和訳で冒頭の “「これがアメリカなんじゃない」” と、最後の “オレの名はコロンブスだ、とぬかしたので「ほんじゃあね」とだけ答えてやった” という部分から、ディランのアメリカに対しての皮肉が滲み出ている。本当のアメリカは見つかったのだろうか?この歌では明かされていないと思う。
 本作リリースから50年以上たったが、アメリカ国民はここで歌われた人種問題と共に、本来のアメリカを見失ったままなのかもしれない。2016年ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞した。しかし、彼の歌詞の意味に込められた物語はまだ継続したままだろう。
 私たちも日々見えない敵と向き合っている。そして見えない敵に傷つけられ、その相手を探している。誰?誰?誰?
なんだ、やっぱり見える化を求めているのね、私たち。
 「アウトロー・ブルース」の和訳で最後、こう歌われる。“ジャクソンで女と知り合った/名前はいいたくない/褐色の肌の子だけど/好きだというのに変わりはないよ”
 坂本九は“あの娘の名前はなんてんかな”と歌う。
 そして、私は「君の名は?」と聞く。
 すると彼女は、こう言った。
 「りんなだよ。」

DISC REVIEW

DISC REVIEW

ザ・チェインスモーカーズ 『コラージュ』
THE CHAINSMOKERS『COLLAGE』


チェンジ・ザ・ワールド
―Change the World-

 

    音楽とは、人と人とを繋げるもので無くてはならない。改めてそう思った。SNSで世界は繋がったというが、そんなのは嘘だ。ネットでつながって新たな人間関係が出来たから故、そこにはまた、不謹慎狩りや、LINEの友達グループ外しなど、不毛な論争や抗争が生まれた。つまりそれは、現実世界と同じ人種差別や部落差別的なことを仮想空間で繰り返してしまうという結果だったのだ。私たちはただ繋がりたかっただけなのに。ネットでつながったからこそ、世界はまたバラバラになった。今、新たに繋げるための何かが必要だ。
 音楽は人々を繋げられる。ダンスも人々を繋げることが出来る。ならばEDMも人を繋げることが出来るだろう。だとするなら、ザ・チェインスモーカーズの『コラージュ』という作品も人々を繋げることが出来るはずだ。   
   特に昨年あたりから、EDMが世界のポップ・ミュージック・シーンを席巻し尽くした感がある。猫も杓子もEDMかよ。でも、EDMが伝播した理由など考える必要はないだろう。乗れて、楽しくて、ハッピーでちょっぴり切ない。こんな音楽は誰もが好きになって当たり前なのだ。そう考えるとEDMをやれば売れるということになる。確かに今なら売れ時かもしれない。でも、だからってすべてのアーティストがEDMをやるというのはどうもリスナーに迎合してしまう行為なんじゃないかと。そうやって妄想していくと最近どこかで聞いたキーワードだ。
 第45代米国大統領ドナルド・トランプ氏が行う政策がポピュリズム大衆迎合主義)だと称されている。一般市民が求める利益や願望を利用して、大衆の支持を得る。つまり、目先の利益を餌にして、人々の票を得る、人気を勝ち取る行為とのこと。何となく似ているような気がしてならない。今、アーティストが安易にEDMを取り入れることはポピュリズムだと言われる、なんてことも…(いや、ポピュラー音楽なんだからいいじゃん)
EDMをすることの是非が今問われているのではないか。
 といっても、ザ・チェインスモーカーズがそんなシリアスな思いでEDMをやっているわけではないらしい。二人は軽いノリでEDMをやっているという。しかし、彼らの楽曲のセンスや、フィーチャリング・アーティストのチョイスが、2016年全米チャート10週1位という結果を残すに至ったことは事実だろう。
 逆にこの現代に、EDM然りテクノやエレクトロニカが無かったらどうだろう。きっとつまらないだろう。音楽で伝えられる楽しさも、その反対の悲しさも表現出来る幅が狭まっていたと思う。音楽的には別だけど、同じダンスという点では星野源の“恋ダンス”もダンス・ミュージックがあればこそ、なのだと思う。
 本作楽曲の歌詞は、五十年前と変わらず、愛や恋などで綴られている。造詣が深い訳ではない。三文小説だよ三文小説!
 それで?だからどうだというのだ。下らなそうに見えた歌詞世界。軽いノリのハイテンションなEDM。そこに見え隠れする喜びと悲しみ。それこそがポップ・ミュージックの原風景なのだ。
 ポピュリズムだかポリリズムだか知らんが、アメリカは、再び多民族をサラダ・ボールに収める準備をする必要があるだろう。
 そして、もしかしたら、EDMはバラバラになった世界の景色をもう一度“COLLAGE”して私たちに見せてくれるのかもしれない。
THE CHAINSMOKERSの『COLLAGE』を聴いてそんなことを思ったのだ。

DISC REVIEW

長澤知之 『GIFT』

 ―開けて閉めて、開けて閉めて、開けて閉めたら…―

     虚無僧(こむそう)が放送禁止用語だと知ったのは、中島らもエッセイ集『こらっ』の文中からだった。昔々、深編傘を頭からかぶり、顔を隠し、尺八を吹きながら諸国を回る人たちがおったんじゃとさ…。2016年の今、これと似たような人がいる。それは、風邪でもないのに年中マスクをしている若者たちだ。なぜずっとマスクをしているか聞かれると、人と話をするときも、安心感がある。友達と喧嘩した後の気まずさを紛らわす役目もあるという。コミュニケーション過多な世界の中で私たちは、また一つ大切なものを失ってしまったのかもしれない。結局、頭隠して尻隠さずになっちゃっているのよ。
 いくら隠しても無駄!ってことが言いたいのでは無いけど。長澤知之の『GIFT』という作品は、もちろんそんな大昔の話を歌っているのではなく、かといって、バリバリの今を切り取りたいという風でもない。言うなれば、今年32歳の長澤の視点は、少し前の時代を知る者が見据える、現在への冷めた視点と虚無感、そして、ある意味の開き直りから生まれてきた音楽だと言える。
 今作の全体像は、今まで以上にロックなテンション、いつになく陽性な和音が垣間見える。(少し含みのあることばとして言っておく)また、7曲中1曲「風鈴の音色」では、自身がボーカルをとらず、という衝撃点もあった。この曲こそ、CDの帯のコピーにある“かつてないスタンダード”に当てはまる曲だと思うが、あえてこの曲を歌わないのが長澤らしい。
 今年の動きとして、もう一つのキーポイントは、ex. andymoriメンバーとタッグを組んだ、ALでの活動。おそらく小山田壮平が発起人だったのであろうバンドだが、少なからず長澤にも良い影響を与えたことは言わずもがな。その一つは、先述した彼の陽性な側面をもう一度煽ったという言い方が正しいかは分からないが、それに引きずられる形で、柔和な攻撃性を取り戻した気がする。
 歌詞についてはいつもの長澤節ではあるのだが、少し気になるところもある。それは1曲目「時雨」の“帰り道決意を迷いながら/次の家路をさがしてる”や「風鈴の音色」の“ああ ふるさとよ この胸に還る場所/ああ なにもかもが おしまいにかわる場所”という部分。一つのプラットホームに立ち、行き先を思案している。そんな心の揺れ動きを表現しているかの様な言葉。デビュー10周年を迎え、彼自身もまた転換期に立たされているのだろう。
 どれだけ隠そうとしても、隠せないもの。例えば、長澤知之の音楽はロックだけど、やっぱりなんやかんやいうて、彼はフォーク・シンガー。音の端々から滲む悲哀を隠すことは出来ないのだ。それが長澤の音楽の素晴らしさでもある。これからもエレジー続けましょう。

DISC REVIEW

RADWIMPS『人間開花』

 ―10年前から咲いていた花。―

 ドモホルンリンクルのCMで「女性は花に例えられるけど、その美しさは花とは違い、すぐに散ったりはしない。いくつになっても、何度でも、自分の意思で、自分を輝かせることが出来る。」というナレーションがある。
 確かに女性の肌という点では、そうなのかもしれない。美魔女という言葉もあるくらいだから。しかし、それは過去にあった最高の瞬間に対しての抗いでしかないとも言える。絶対的に戻れない瞬間に対して、少しでも抵抗して、改善して、最大瞬間風速を取り戻そうとするのだ。それが希望的観測だとしても。
    すべての人間は開花する。誰でもそんな瞬間が訪れると思う。ただそれは、その人の才能や力量とは全く関係なく、意図していない場面で突然訪れる。勿論それを拒否することはできない。しかもそれが最高到達点であると思えるかどうかは、人それぞれなのである。
 今作の『人間開花』でRADWIMPSが提示したかったことは何なのか。音像的には変わらず、いつものラッドの音楽が鳴っている。ダンス・ロック的「Lights go out」で始まり、ダブ・ステップな「AADAAKOODAA」、ミクスチャー・ロックの「‘I’ Novel」、ビック・ビートの「アメノヒニキク」等、2016年の時代性に即しながらも、お馴染みのラッドのオルタナティブ・ロックがこの作品を形作っている。
 前作『×と〇と罪と』から大きな音楽的変化や冒険があるわけではない。ただ、この2作には共通点と、大きく異なる点がある。まず、共通点は“花”である。今作は『人間開花』というタイトルに花が含まれている。そして前作は、その当時私が感じたのだが、ジャケットの絵は悲哀を帯びつつも美しい花の開花だと思える。     逆に大きく異なる点は、その花の意味合いである。前作は、ラッドが全身全霊を込めて現状肯定の花を咲かせようとした作品であるからこそ「五月の蝿」や「会心の一撃」の様な過激な歌詞の楽曲を含め、正にロックらしいアプローチとなっていたと思う。それに比べて今作は、言うなれば、咲いている花を冷静な目で静観しているような、俯瞰的な視点でフォローしているような作品となっている。ともすれば、『RADWIMPS 4~おかずのごはん~』以前の彼らのようなフラットなラッドとも言えるかもしれない。特に、「Bring me the morning」からの「O&O」、「告白」では、ニュートラルな野田洋次郎の歌が聞こえてくるのだ。
 本作で開花している花は、いつどこで咲いたものだろう?と考えたとき、もうずっと昔からそこで咲いていたのだと思う。そのことに野田洋次郎は気が付いた。でもそれと同時に、その花はもう見ることは出来ないし、まだ咲いているかも、枯れているのかも分からない。何故ならそれは、過去の時間軸に咲いていたものだからだ。この作品は、あの時咲いていた花をもう一度具現化させ、私たちに見せるためのものである。その意味が『人間開花』に込められているのだと思う。
 アインシュタインの脳を保存出来たとしても、アインシュタインを二度と生み出せないのは、その人と完全に同じ人生を歩むことが出来ないからだと聞いたことがある。それと同じように、本当に素晴らしいことは体験できたとしても、保存することは出来ないのだ。
 でも、人はその素晴らしき開花の瞬間を記憶の中で保存している。だから人間は、それを反芻し、再び開花しようと努力することが出来るのだ。

MOVIE REVIEW

君の名は。

 ―NO NAME,NO LIFE??―

 東京に住む男子高校生と飛騨の山奥の女子高生の身体が、ある朝突然入れ替わった。という誇大妄想的な出発点から始まるこの物語。一見使い古されたストーリーのように感じるが、この作品は繋がることの喜びと悲しみを捉えたもので、この2016年に生まれるべくして生まれた恋愛アニメ映画と言えるだろう。
 主人公の立花瀧と宮水三葉は、入れ替わりが繰り返えされる中で相手の生活などを知っていく。しかし、ある日突然それが途絶えてしまう。その時、お互いに会いに行こうとするのだが、この時二人は連絡先も知らなければ、住んでいる場所も正確に知らないという状態なのだ。四六時中ネットを通して繋がれる今の私たちからみて、この状況はどうだろうか。恐怖以外の何物でもない?いや、むしろ望んでいる?色んな意見があるだろう。どちらにしても2016年にはあり得ないことだ。そんな状況で二人はどうにかして会おうと努力していく。
 作品の舞台は宮水三葉の住む飛騨の山奥にある糸守町(カフェすら無いと嘆く田舎町)と立花瀧の住む大都市、東京の四谷。この二つの土地を別な角度で捉えるなら、昔の風習が色濃く残るイメージで描かれた糸守町を“過去”。多数の人が大人になれば上京を憧れる場所、東京を“未来”と位置付けることができるのではないか。
 自分の住む田舎をとても嫌がっている宮水三葉の感覚は、もしかしたら監督、脚本、原作者である新海誠氏のパーソナルな視点も含まれているのかもしれない。そう思った理由は、新海氏の出生地が長野県南佐久群小海町という総人口4600人位のいわゆる田舎だったからだ。そして、本作の重要なポイントである三葉たちが住む糸守町への隕石落下による壊滅の危機と、それを防ごうとする瀧との交差は、新海誠氏自身の現在地とふるさとをつなぐ一つの原風景を表しているともとれる。
 そんな二人が生み出した一大事が過ぎ去り、登場人物たちは大人になる。“あれからずっと何かを探しているような気がする”大人になった瀧が思っているこの言葉が本作の重要なキーワードになっている。そう、私たちは誰でも、ずっと何かを探しているような気がしながらも、日々の生活を坦々と歩んでいるはずなのだ。その答えを見つけられないまま。
 この2016年、いつでもどこでもつながることが出来る状態の日本。それを現実だと思っている私たちに、全くつながるツールを失った状態になるという非現実が叩きつけられたとき、やはり驚嘆してしまう。それがこのアニメーションを見終えた時の余韻だろう。でも、そう簡単に繋がらないこと。それこそが本当の現実、リアルだとも言える。
 それから、本作すべての音楽を担当しているRADWIMPS。この十数年、ずっと私たちの喪失感を代弁し続けてくれた日本のロックバンドだからこそ、挿入歌としての役目以上にこの映画の高揚感を増幅させていたと思う。
 大人になった瀧と三葉は運命的な再会を果たす。現代の情報ツールを何も駆使せず。私はその部分に深い感動が覚えた。
 繋がることに、情報はいらない。
 そう、“君の名”さえも。

COLUMN

『さよなら、ザッカーバーグ
ーGOOD BEY !! Zuckerberg CEOー

「あぁ、全部あんたの所為だよ!ザッカーバーグ。あんたの所為で僕らの仮想空間は全て潰された。」
心の中で悪態をつきながら、私は京都音楽博覧会の帰りの電車に乗っていた、イライラしながらも。音博は良かった、本当に良かった。(でも)それは現実の世界での話。

何はともあれ、そんな気持ちになったのは、つい先日、こち亀の終了を知ったのが発端だった。さして、こち亀に思い入れがあった訳ではない。と言ったら怒られるだろうが。200巻迄続いたのに、これでおしまい?悲しいなっていう気持ちではない。僕が言いたいのは、両さんという破茶滅茶な警察官は、現実社会では受け入れられない、だからこそ、漫画という二次元=仮想空間に存在していたはずだった。でもこの2016年には、その仮想空間にすら、両さんの生き場所が無くなったのかもしれない。何故なんだって事をふと思ったのだ。

思えば、ここ20年間で、そういった破天荒な二次元キャラクターや映画スターを僕たちは失っていった。「男はつらいよ」の寅さんは渥美清が亡くなったことで居なくなり、「釣りバカ日記」の浜ちゃんは、盟友スーさん役の三国蓮太郎が亡くなった事により途切れてしまった。

両さんも寅さんも浜ちゃんも、ある意味では、男の理想像の1つとして捉えることが出来る。しかしそれは、今の時代にはそぐわない人物という対象に変わっていった。結果、自然に主流から、淘汰されてしまったという考え方もあるとは思う。ただ、僕が見ているのは現実世界ではなく、仮想空間での事だ。

時代は変わり続けている。でも何故、仮想空間の中にいる破天荒な人たちまで消えてしまったのか。

私はその理由を考え続け、一つのキーワードに辿りついた。それは、人間が作り上げたSNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)が、僕たちの二次元のキャラクターを殺し、その空間を壊してしまったという考え方だ。

私たちはインターネットを通して不特定多数の人とやり取りをする事が出来る。実際に会ったことがない人とでも連絡を取り会える。これは一見、現実社会で起こっていることに思える。というか、どう考えても現実に起こっているのだが。しかし、このコミュニケーションはネットという人工物を使った繋がりである以上、自然界で生まれた交信ではないのだ。つまりこれは、人間が現実社会の上に作った新たなる仮想社会=SNSという構図になる。

こち亀という二次元の仮想空間を体験してきた私たちに、新たにSNSという仮想社会が出現したのだ。なんと、そのSNS上では、簡単に自分自身が両さんになりきれるという可能性さえ用意されているのだった。

おそろしくなってきた。私たちが見てきたこち亀という仮想空間は、私たちの頭の中に存在してきた。しかし、SNSという仮想社会を手に入れた私たちは、今まで想像で作り上げてきた仮想空間をSNSにそっくりそのまま明け渡してしまったのだ。

私たちは、SNS上で誰とでも話せ。誰にでもなれて。色んな事を体験することが出来た。しかし、その代償として、こち亀という二次元、素晴らしき仮想空間を失ってしまったのだ。

いや、漫画を開けばまた両さんに出会えるでしょ?もちろんそれはそうだ。過去には戻れるだろう。でも、未来には行けない。それが、物語が終わったということだ。

更に思えばここ数年、日本の現実世界でも、高度成長期を担った著名人が多数亡くなっていった。特に3.11を境に、そういう時期と重なっていたように感じる。その先の日本を見たくないというように、天に召されていった。

私たちは生きている。曲がりなりにも。
音博の帰りの電車で、年配の方々男性二人と女性一人が話しているのに出くわした。一人の男性は今年定年になったらしい。年上と思われる男性がお酒に酔っ払いながら、その男性に「これからは、好きな時間に好きな事が出来る。いいやないですか。」と言う発言に対して「いや~いいんですけどね。畑仕事とかもあるし、趣味も沢山やりたい事があって困ってるんです。嫁さんに怒られるわ。」と冗談混じりに言い返す。そして、女性は「そうなんや、趣味が沢山あっていいやん。羨ましいわ。私は何もないからな~」と言う掛け合いをしていた。

それを見ていた私は、はぁ、定年後はいいですね。と心の中で、少し冷めた気持ちを抱えていた。でも、これは現実世界での話。今、定年後を迎えた人、65歳過ぎの方は、この日本の高度成長期の一端を担ってきた人でもある。仕事詰めできた人の中には簡単にセカンド・ライフに切り替えられない人もいるという。どちらが良いとか悪いとか、言えない。大多数の人が高度成長期のレガシーを引き継ぎ、やはりその代償も足枷として引きずらざるを得ないのだろう。

結局、ないものねだりである。
ザッカーバーグがいてくれて良かった。
SNSが無ければ、出会うことが出来なかった人はたくさんいるし、世界にはそれで救われた人もいる。今の時代のビジネスには欠かせないものにもなっている。無い生活は考えられないという人もいるだろう。

でも、もし無かったらということを考えずにはいられない。四方山話に聞こえるかもしれないが、二次元キャラクターは死なずに済んだかもしれない。
あの、宮崎駿さえ、引退した一因は、パソコンのOSの繰り返される更新による費用の拡大だったって話もある。おそるべし、マイクロソフト

これからどうすればいいのか。
少なくとも、私たちはインターネットから逃れることは出来ないのだろう。いや使わないという選択だってある。

でも、『君の名は。』という映画は繋がる事の機微を捉えたから、沢山の共感を得た。繋がりたいという思いは人間の本能的なものだから、それに抗う事は出来ないのだ。

ONE PIECE』の作者、尾田栄一郎が、漫画は人と人をつなげるためのものだと言っていたと思う。だとするなら、その繋がりを作り出すツールだった、両さんはもういない。人間が作り出したSNSという馬鹿でっかいツールの前に、ついに消え去ってしまったのだ。

もう、繋がるのはよそう!と言ったそばから、誰でも無いあなたからの連絡を待っている私がいる。

もう、さよならだ。
ザッカーバーグの野郎!

LIVE REPORT

DIR EN GREY
TOUR 16-17 FROM DEPRESSION TO
[mode of DUM SPIRO SPERO]in なんばHatch 2016.10.2

    現時点でディルが作り上げた最終形の世界観が「UROBOROS」(メジャー7作目)だと僕は思っている。始まりもなく終わりもないという意味にも通ずるように、そこからが新たなる始まりでもあった。そして、8作目のアルバム「DUM SPIRO SPERO」は、開始点に立ち返った上でのその先、彼らの初期の名曲「アクロの丘」のその向こうを見た作品だと捉えることが出来る。今回は、ツアー副題[mode of DUM SPIRO SPERO]の通り、このアルバムの再現になるのかな、という予想でライブに挑むことになった。
    開演間近のSEはディルの曲のオルゴール・バージョンが慎ましく流れ、いつもと異なる雰囲気を感じさせつつ、メンバーが登場した。
    始まりはもちろんアルバム1曲目「狂骨の鳴り」から。お馴染みのバック・スクリーンを背に、おどろおどろしい世界観の幕開けとなった。いつもと違った演出は、2曲目「THE BLOSSOMING BEELZEBUB」で、ボーカル京がこちらに背を向けマイクにかじりつき歌い出したことで、後ろの映像にはその京の顔が大画面で映し出されるという構図になっていた。
    京がオーディエンスに向き直り、ライブが加速。「DIFFERENT SENSE」や「LOTUS」などの主要曲が演奏される。
    リーダー、薫のギターは、淡々とバンドの正しいリズムを刻み続け。Toshiyaはベースを縦向きに持ち、服の上からもわかる肉体美とともに演奏。shinyaは相変わらず、ムダのないタイトなドラミングと美しさを放つ。Dieもお馴染みのロングヘアを風になびかせる姿でギターの美旋律を奏でる。(ヘアーにカールがかかっているのは別バンドプロジェクトDECAYSの影響もあり?)
    最近のディルのライブでよく見られるシーンだが、数曲ごとの曲間に、京が舞台で狂い出し、叫び、呟き、狂気に苛まれる演出が繰り返される。これの意味が、のちのち少しだけわかることになった。
    舞台に変化があったのは、「蜜と唾」の前。ステージ・バックでなく、緞帳や垂れ幕のようにステージ前に吊り下げられていた五枚の透過性のある白い幕がメンバーを隠せる位置まで下がり、そこに映画やプロジェクションマッピングのように文字や光を映した。その裏で彼らが歌い、時にはその白い幕に大きな彼らの影が映し出される演出の中で、壮大な叙情詩が続く。その隠された白幕のチラリズムの中、この作品でもっと長尺なタイムの曲「DIABOLOS」が圧倒的な美意識を背に奏でられたのだ。
    そして、再び、白い幕は上がり、メンバーが露わに。本作のラストを飾る、佳曲「流転の塔」で、美しさと重厚さの極致を表し。「「欲巣にDREAMBOX」あるいは成熟の理念と冷たい雨」以降は、ディルの過激な側面を司る演出の連打で本編の幕を閉じた。
    アンコールは数分後、メンバーがラフな(でもファッショナブルな)服装で登場。京は金髪の上に黒のベレー帽を被るスタイルだった。(この佇まいはsukekiyoの彼をイメージさせる)
本編で演奏しなかった「VANITAS」を風通しの良い佇まいと風景で描くと。最新作からの「Un deux」でヘヴィな音像を叩きつけ。新曲、そして「詩踏み」も登場し、会場の熱はピークに近くなる。
    ラストはやっぱり、今のディルの最新型は、まだこの曲ではないかと思わせるほどの会場一体となった合唱が渦巻く「激しさと、この胸の中で絡みついた灼熱の闇」で終焉した。
    最後に、前述した京が曲間で狂う演出については、ツアー名にある”DEPRESSION”
つまり、うつ病を表現していると想像できる。まさに、その状態で過去を追憶し、追求し、何かを見つけようとしている。そんなディルのリアルを見せつけられたアクトであった。