ROHITOのロカリロロロ

ロック評論家 ROHITOのブログ

DISC REVIEW

GRAPEVINE『Arma』

 ―継続は力なりと言わない、こともない―

    多分、新聞で読んだと思うけど、漫画家の尾田栄一郎秋本治に、なぜ休まず継続できるかを聞いた、すると一言「頑張るんだよ」と言ったらしい。
 田中和将に、ずっと作品を出し続けるってすごいですねと言ったところで彼は、「いや、ずっと地続きでやっているんで…」と、はぐらかしそうな気がする。
 バンド活動という地平線が続く中で、音楽的な変化は常にあった、そして時にとんでもなく明るい楽曲が産み落とされることがある。例えば、既発曲「放浪フリーク」はそれに当たる。「Arma」も同様に陽性でポップな展開が見られる。
 音楽的には、その先を予感させるように、曲の根底に渦巻くフィードバック・ギターの流れと、星の瞬きの様にキラキラと鳴らされるキーボードの音色がガイド役となり、彼らとしては珍しくブラスをバックに挿入、祝福を醸し出すが如く鳴り響く。
 歌詞は、いつになく詩人田中のニヒリズムが炸裂しているといっていいかもしれない。曲名「Arma」はラテン語で武器や鎧という意味を持つ。でも、この単語を一文字変えると「Alma」となり、これはスペイン語で魂という意味になる。さらにAlmaは女性名にも使われるものである。
 この昔あった英会話CMのような、一文字替えトリックをもとに次の歌詞を聴くと、違った二つの意味が感じられるようだ。

 “例えばほら/きみを夏に喩えた/武器は要らない/次の夏が来ればいい”

    またナツノヒカリが過ぎていく。次の夏を待とう。
 GRAPEVINEデビュー20周年おめでとうございますとは言わない、こともない。

DISC REVIEW

ART-SCHOOL『スカートの色は青』


―彼女のヒトミの中に―
  
 発明家がすごいのは、何もないところから何かを作り出すことにある。つまりゼロからイチを生み出すことが最も素晴らしいことなのだ。
 初めてのものはなんでも素晴らしい。言うまでもなく、初めて異性と繋がり合った瞬間は表現しようの無いものである。しかし、どんなものであれ、繰り返せば繰り返すほど、長く続ければ続けるほど、最初の感動や初期衝動は薄れていってしまう。
 ART-SCHOOLの既発曲に「SKIRT」という曲があり、今回の曲名は「スカートの色は青」。これを安直に並べてみて、安易に今回はその続編だと考えたとき、スカートの色を青と特定したということは、ある種、見る視点が変わったためだと思う。
 木下理樹が書く歌詞の多くには、女性への強い思いが詰め込まれている。前作もスカートの色が忘れ去れないことを歌い、その衝動的な気持ちが曲のスピード感とあいまって、サディスティックな楽曲となっていた。今回は揺れるスカートが出てくる。ゆっくりとしたテンポで、ゆったりした描写と重なり、思いを反芻していく。
    ART-SCHOOLは活動休止から復帰後、悲しみそのものを包み込むバンドに変わった。だから同じ事柄を歌ったとしても、やさしい表現方法となっているのだ。そう、それはまるで女神の様に。
 誰にでも、忘れられないスカートの色があるとしよう。もしそれが初めて繋がった異性のものならば、どれだけ色あせたとしても一生消せない色と言えるかもれない。だから木下理樹の瞳にこびり付いているスカートの色は最初から青だった。
 と言いつつも、結局これは男子側の視点であって女子側の視点では無い。言うなれば、スカートへの情熱を歌った「SKIRT」が男子目線だとするなら、そんな男子を冷静に見据える女子目線の曲が「スカートの色は青」だと捉えることができるのではないか。だからCDジャケットでは切れているのだ、青いスカートを穿く女性の瞳が。と思い、ふと怖くなった。
 そんな、訳知り顔な男女の構図がありありと描かれてしまったのではないか、意図せずかもしれないが。
 でもこういう歌詞を書いてしまう木下理樹、嫌いじゃない。

ROCK CLASSIC

ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス
『エレクトリック・レディランド』
THE JIMI HENDRIX EXPERIENCE
『ELECTRIC LADYLAND』

―ジミヘンが死んだ理由―

 酒と女とロックンロールって古典的な名言を呟いてみる。
 昔、沖縄の人から、なぜ人間はお酒を飲むと思う?お酒を飲むと人は正直になる。それはつまり、神にお近づきになるためなんだよ。と教えられたことを思い出した。
なるほど、神に近づくね。うまく酒を飲む口実を作ったもんだわ。
 昔、長い小説は長いセックスのようなものと言った作家がいた。となると、長い音楽もそれにあたるのだろうか。いや、これを言いすぎるとエロくなってしまうな、やめておこう。
 じゃなくて、今はロックについて話したいんだが。先ずは、The 27 Clubについて、ロック・スターはよく27歳に死ぬってやつだ。ちょっと何故27歳に死ぬのか考えてみた。
 まず、27歳で死ぬ人は必ずもうその年でなんか成し遂げちゃっているということ。あと、土星の公転周期が28年位で、西洋占術では、それを「土星回帰」と呼び、人は29年毎に人生で大きな変動があるらしい。
 そう、土星が一周している内に何かを成し遂げたんだよね。だからそこで死を選んでしまった。本人の意思はいざ知らず。
 ちょっと、ロックの話をしていたよね。
 The 27 Clubの一人ジミ・ヘンドリックスは、何故死んでしまったのか。
一応は睡眠薬と酒を飲んだ後の就寝中に窒息死したと言われている?まぁ、そうなんだろうが。結局彼は何か成し遂げた、つまり、神に近づきすぎて、神に背き続けた。この音楽で。
 特に神に近づいてると思ったのは、14分59秒ある曲「VOODOO CHILE」。ジャムセッションが繰り返される中、そういう啓示が降りてきつつあったのではないか。音楽が循環し続けていくことで、その効果が徐々に出てくる。神に近づいていく。同様に長尺曲の「1983」はリリックに含まれた感情の喜怒哀楽がギターサウンドと混ざり合い、曲が進む度に構築され、それがナイフの様に現実を切り裂いていく。つまり非日常、神の領域だ。
 でも何故そこまで神に近づく必要があったのか。何かの存在が影響しているのだ。  
「GYPSY EYES」はヘンドリックスが母親のことを歌った曲と言われている。
若くして生き別れたという母は32歳で他界している。おそらく、ヘンドリックスが神に近づこうとしていたのは、母に会うためだったのかもしれない。
 死んだ母に会う為に神に近づいた。その過程でヘンドリックスの超絶なギター・プレイは生まれたのかもしれない。ロックという音楽を使い、正直な本音を歌い続けた。その反対に、表現スタイルでは神に背く行為も続けていた。それは、ギターを燃やしたり、ぶっ壊したりするスタイル。まさに神から得られた啓示を表現し、またその授かり物を破壊する。構築と破壊を行った彼を、皆はロック・スターと崇め立てた。
 彼は正真正銘のロック・スターだった。彼のギターによって作られたリフレインやメロディ、それらが投入されたロック・ミュージックは、正に神から手に入れたものだったのかもしれない。ヘンドリックスに影響を受けた音楽家達は、また借りしているだけなのかも。彼は、それを受け取った代償として死を選んだ。
 この作品のブックレットを開いていって突如、裸体の女性が一面にこちらを凝視しているページがあった。エレクトリック・レディランドってそういうことだったの。妙に色めき立ってしまった。
 ヘンドリックスが死んだ時、モニカという女性と一緒だったという。ロック・スターにはよくあることだ。でも、どれだけの人と繋がったとしても、いずれ帰るところは同じなのだろう。
 最初の世界との繋がりはたった一つ、母の胎盤から伸びる臍の緒だけだった。そこから、全世界へとリンクしていったのだ。
 長い子守唄、長い魔法はまだ解けていない。何故なら未だにヘンドリックスは神に抗っているから。それがこの世界で音楽が続いている理由の一つだ。

DISC REVIEW

BUMP OF CHICKEN『記念撮影』

―ネガとポジの先に向けて―

 藤原基央は常に物事の両側面を歌ってきた。『FLAME VEIN』は強い自分を『THE LIVING DEAD』は弱い自分を描いたように、光と影、生と死、どちらをも見つめることが誠実であり、真実を捉えることが出来るかのように。
 「リボン」が藤原基央を巣立った後の、新たなバンプの狼煙となる曲だった。つまりこの曲は物事の陽の部分を歌ったものだった。だとするなら、「記念撮影」はその対極にある陰の部分を歌った曲と言えるだろう。
 “終わる魔法の中にいた事”という歌詞の部分にはバンプという魔法のような集合体でも完全無欠ではなく。いずれ必ず終わりは来るという儚さを孕んだ未来からの答えが隠されている。「リボン」と「記念撮影」を対極に見据えれば、今のバンプというバンドの強さと弱さ、どちら側にも思いを馳せることが出来る。
 「Butterfly」以降、バンプの一つの形態となったEDMを取り入れた楽曲ではあるが、サビ以外のヴァ―スの部分は歌詞がシンセの音に乗るように歌われ、さながらトラップ・ミュージックのような印象を与えている。本曲のPVはリリック・ビデオと紹介されていて、歌詞の文字を切って、映像と共に提示していることからも、「記念撮影」の歌詞が特に重要であると感じずにはいられない。
 だから、どうしてもあの「ロストマン」の歌詞と繋がっている“迷子”というワードを引き合いに出してしまう。そう、あの時の旅人はもういない。彼を作りだした藤原基央と一つになり、今現実の世界に存在している。それが歌詞にも出てくる“想像じゃない未来に立って”という部分にリンクしていくのだ。
 「ロストマン」で仮想空間を旅していた旅人は“迷子って/気付いていたって/気付かないフリをした”、そして「記念撮影」で藤原基央は“迷子のままでも大丈夫/僕らはどこへでもいけると思う”と歌った。
 おそらく、この二つの場面は同じ時間軸上で繋がっている。「ロストマン」の“僕らが/丁寧に切り取った/その絵の/名前は/思い出”という部分、その切り取った絵の一つが、「記念撮影」で描かれている過去の思い出なのだ。
 最後の歌詞は“今僕がいる未来に向けて“で閉じられる。そのいまが2017年の藤原基央バンプだ。始まりがあれば必ず終わりがくる。どんな魔法もいつか解ける。そうなのだ、BUMP OF CHICKENポートレートとして記念撮影をした、その瞬間がこの曲に刻まれている。いずれロストマンのあの瞬間のように、この思い出が切り取られ、幾億年も旅することもあるかもしれない。 ”終わる魔法の外に向けて“とあるが、まだ魔法は続く。僕達はこれからあと何回季節を繰り返すことができるだろうか。楽しみで仕方がない。

DISC REVIEW


BUMP OF CHICKEN『リボン』

―新しいバンプの始まり―

 『Butterflies』でバンプというバンドは藤原基央を巣立った。「アンサー」はその後の藤原基央側の物語だとするなら、この「リボン」は旅立った後のバンプ、その物語の序章と言えるだろう。
藤原基央の元を旅立ったバンプは今、彼の物語の登場人物だった“旅人”と入れ替わるように、仮想空間(未知の領域)に存在している。(あの旅人は現実の世界で藤原基央と一つになった)
 “ここはどこなんだろうね/どこに行くんだろうね/誰一人わかってないけど”
 新たに旅立ったバンプは今こういった気持なんだろう。新しい景色を見ようとする人はいつだってそういう場面に出くわす。
 偶然か意図してなのか、この曲が起用されている某CMのストーリーもタイムスリップによる、異次元への旅が描かれている。まさにこの曲はそういう意味を持つ。
 何もない休日での心臓のリズムにも似た速さで曲は進み。この4人のメンバーのつながりを確かめるような歌詞が乗っていく。最も印象的な歌詞は、曲の中盤にくる“僕らを結ぶリボンは 解けないわけじゃない 結んできたんだ”という部分。藤原基央の、自身のバンド、メンバーに対しての強い思いが滲みでていると感じた。
 そして、藤原基央の思いに増川弘明のギターのメロディ―と直井由文のベースのリズムが共鳴するかのように響き、終盤の升秀夫のスネアドラムの打音が高まっていく部分は、4人がリボンで強く結ばれていく様を体現しているかのようだ。
 今作の繰り返されるドラムの音からは、どうも原始的なリズムを感じてしまう。陳腐な言葉かもしれないが、音楽は魔法だ。その音で、過去とか未来に繋がってしまう恐れだってある。今のバンプはどこにだっていける。 
「リボン」はその始まりにはもってこいの曲になった。いつかまた、公転周期の巡り合わせで、藤原基央本人と出会えることもあるかもしれない。それまでは、このリボンをぎゅっと結び続けるしかないだろう。

DISC REVIEW

BUMP OF CHICKEN『アンサー』

―あの手紙への返信―

    今一度、BUMP OF CHICKENの作品を振り返ってみると3つのポイントがある。1つ目は『orbital period』 で藤原基央の詩の世界で歌われてきた弱い自分と強い自分との統合がなされたこと。2つ目は、「ゼロ」でバンプが誰かのための灯台(光)になることを表明したこと。3つ目は『Butterflies』でバンプというバンドが藤原基央自身を巣立ち、蝶の様に旅立った瞬間があったことである。
 それ以降、藤原基央自身のパーソナルな視点の物語と、彼の元を巣立ったバンプというバンドの物語は、クロスオーバーしつつも、お互い異なる二極の道を歩むことになったのだ。
 この「アンサー」は、藤原基央側の物語と捉えることが出来る。おそらく、いや少なくとも、彼の物語にいた“旅人”はもういないのである。それはバンプが彼の元を巣立ったのと、ほぼ同じ時だったはずだ。その最初の一歩が「ファイター」であった。あの瞬間、旅人=藤原基央となったのだ。つまり、彼の仮想空間にいた旅人は、遂に現実世界にいる彼自身を描いた藤原基央と出会った。この邂逅が彼自身を現代の“ファイター”へ導いたのだ。
 だとすれば、この「アンサー」は何にむけてのモノなのか。「ファイター」へのアンサーソング?ではない。藤原基央と旅人、お互いに向けたアンサーソングでもない。
 これは、「宇宙飛行士への手紙」へのアンサーソングと言える。この曲は藤原基央と旅人の邂逅を予言する歌だったと思う。
 “今が未来だった頃の事”という歌詞があるが、これが本当に今のタイムラインと一致した時が「ファイター」。そして、そのもらった未来からの手紙への返事として「アンサー」という曲が生まれたのだ。
    “それだけわかってる わかってる”
    “僕だけわかってる わかってる”
 もらった手紙の予言で、そうなるとわかっていた、でもそこまでたどり着くのにどれだけのことがあったか、その思いを反芻するような歌詞が、坦々と流れるビートに乗り深く刻まれ、最後の決意表明の歌詞と共に閉じられる“アンサー”だ。

ROCK CLASSIC

ザ・ドアーズ『まぼろしの世界』
THE DOORS『STRANGE DAYS』

―それっておかしくないですか~Part 7―

 闘う理由も無いのに戦うって、おかしくないですか?だから、働かなくてもいいんですよ、別に。日本がこれ以上、上昇することはないんですから。
というSNS上のツッコミを横目で見ていた。

 アメリカ西海岸出身のロック・バンド、ザ・ドアーズのセカンド・アルバム『まぼろしの世界』。発売された1967年、その頃はまだ闘う理由があった。世界ではベトナム戦争への反対を掲げたアーティストがいた。戦争を無くせば世界は平和になるという希望を胸に。
でも、戦争は防げず完全な平和が訪れることもなかった。

    サイケデリック・ロックはこの時代を代表するロックの一つである。ザ・ドアーズの作品にもサイケデリック・ロックが溢れている。彼らの楽曲の形式から言うのであれば、レイ・マンザレクのキーボードのメロディーとロビー・クリーガーのエレクトリック・ギターとのメロディーの交差から生じる、覚醒的音楽作用がサイケというものを形作っている一つの要因だろう。結果的にだが、60年代後半のサイケデリック・ロックは、戦いの果てに訪れる心の痛みを軽減する意味を持っていたのかもしれない。だからあの時代にサイケは有効だった。

   しかしながら、私がドアーズを知ったのは「Break On Through」という楽曲で、そこで感じたのはサイケというよりもジム・モリソン過激、コワイという印象だった。だからモリソンのシャウトを伴うボーカル・スタイルから私はハード・ロックを感じていたのだと思う。

    彼の過激でエロティックな表現スタイルとサイケな世界が人々を虜にした結果、モリソンはその時代のロック・スターへと登り詰めた。この2つの部分は日本のロック・バンドの佇まいにも影響を与えているし、本作からの音楽的な引用も多数見受けられる。

 今も本当の意味で闘う必要がある時。つまり、その痛みを和らげる音楽、正にサイケデリック・ロックのような音楽が必要なはず。でも、ジム・モリソンはもういないし、いたとしてもザ・ドアーズの音楽が今の時代にそのまま機能できるわけではない。あの時代にあった音と音との行間に潜むコクーンはもう無いのだ。

 だから、どんな音楽が必要なのか。今風のサイケか、ブルースやハード・ロックか、いやレゲエ?やっぱりヒップホップなのか。その答えは1つではないと思う。 正しいことのために闘う意味があったあの時代に、勝者への賛美歌にも、敗者のための鎮魂歌としても『まぼろしの世界』は何処までも有効であった。

   でも、戦うことの正しさもなくなって、もちろん負けることの正しさなんてあるはずもない状態で、戦争を続けるなんて、おかしくないですか? もう、戦いはやめだ…ザ・ドアーズの音楽なんて必要ない!っ世界はこれからも望めそうにないのだろう。 僕たちが常に求めているのはサイケデリックという名の蜃気楼か?いや、まぼろしのように消えた、その向こうにある世界だろう。