ROHITOのロカリロロロ

ロック評論家 ROHITOのブログ

LIVE REPORT

OBLIVION DUST

"Us Against Them Tour" 2018-19"

in 名古屋 Electric Lady Land 

2018年12月23日

   1曲目は最新作から“Death Surf”という順当な始まりだった。ツアー・タイトルから、今回のライブがファンのために行うツアーであることを窺わせる。KEN LLOYDSNSの発言から察するに、ファンとオブリが対峙する的なツアーのようで、この名古屋での彼等のファッションもいつもよりラフ、会場との一体感を重視する姿勢が見られた。

    オブリは作品毎の色合いや、音楽的な変化が大きいバンドだ。だからライブの中で各アルバムの曲が数曲続き、異なる情景を見せてくれる。もちろん今回もそうだった。

   ミクスチャー・ロック“NO REGRETS”の演奏が始まり、4thアルバム『BUTTERFLY HEAD』のモードがライブの世界をまた変えていった。RIKIJIがそこでベースを弾きながら、ダックウォーク的な動きでステージを左右にゆっくりと移動する、中々のフットワークでノリノリ具合。

    今回改めてサポートを含めたメンバーをしっかりみて感じた事は、オブリの特徴であるハード・ロック寄りのパンクやメロコアのリズムを、ARIMATSUの安定感のあるドラムが支えていること。K.A.Zのギター・テクニックは"When you say…"などのメロディを演奏するときのエモーショナルさにも影響を与えていること。yujiのリズム・ギターとK.A.Zとのユニゾンも今のオブリにとって重要なポイントになっている。そして、フロントマンKEN LLOYDの煽りと動き回るアグレッシブさはロック・アーティストとしての正しさを体現しているだろう。

    KENがMCで、ここのスタッフが用意してくれた水がデカイというのを引き合いに出して、名古屋のみんなは暴れてくれるってことだよね?というくだりから、みんなで歌ってくれと、"DESIGNER FETUS"のシンガロングが会場を盛り上げた。

    このツアーでは新曲も披露されている。"ダンス"というキーワードで紹介された曲はいわゆるダンス・ナンバー。これが今のオブリのモードなのだろうか。前半はお馴染みのダンス・ビートから始まり後半は縦ノリから横ノリに変化する。というか2018年のヒップホップの主流のトラップ的な感じもあり、身体に与えてくるのはハウス・ミュージックにある密室感でもあった。

   ダンス・ミュージックの流れで"Haze"、そして"Never Ending" 5thの『OBLIVION DUST』サイドが展開されクライマックスへ。最後のMCでKENは、バンドがまだ売れてないときから名古屋のライブハウスが一番盛り上がっていた昔話をして、この地への思いを伝えた。

   ヒットするモノは時代の半歩先を行っていると言われる。オブリはほとんど、時代の一歩先を行っていた。だから、どこにも属さないし、時代に乗ることもなかった。それが彼らの立ち位置だった。

    ラストは最新作『DIRT』サイド 。ハイライトはやはりオブリのメロコア、パンク"Under My Skin"だった。現在主流のロックを使い表現する。バンドとしての正しいアプローチであり、彼らの現在地を示してくれた。

   解散と活動休止をした結果、オブリは現在のロックと並走することになった。つまり時代が求めているロックをオブリが奏でることにつながった。それはもちろん健全なことである。ただ私がオブリに惹かれた理由は、なんだ、この音って思った瞬間があったからだ。今回の新曲で、久々にその一端を少し感じられた気がする。やっぱりオブリはアバンギャルドじゃなくちゃいかん!とかおじさん的な思いを抱きつつ会場を後にした。

LIVE REPORT

踊ってばかりの国

「2018年、秋のワンマンライブ」

in 梅田 Shangri-La

2018.11.4

SEは"ocean"  オルガンの調べが鳴り、メンバーが登場した。

2曲目でジャケットを脱いだ下津光史は、白Tシャツをジーンズにインという出で立ちで、ギターのストラップを目一杯左端に伸ばし歌い始めた。その姿はもう往年のロックスター。(これもしかしてベンジーのオマージュ?)さらっと時代を遡ってみせる。その姿を見て、畏怖の念を感じたり、僥倖だなと思ったり、何だか分からなくなった。ロックという古典を受け継ぎつつも、歌っていることが今のリアルをえぐり出し過ぎていることで、このバンドのアップデートを可能にしていた。

"ほんとごめんね"あたりから徐々にギアが上がり始め、最新作からの曲がライブに熱を与えていく。"evergreen"では、下津の擬態と「心を大切に」という歌詞の純真さが生々しく伝わってきて、他のバンドとは少し違ったライブ体験になりそうだと、頭の片隅で感じ始めた。最初の変化点が来たのは「いくとこまでいっちゃう?」という下津のMC後。"SEBULBA"あたりだろう。この曲の無敵感は今持って健在だと再認識した。

現体制なって。髪の毛も短くした下津は、ギターを弾きながら身体を動かし、ボディーランゲージやらアクションも交えて、表情も豊かに色々と変わる。

そしてみんなも踊ろうぜと笑顔でオーディエンスを煽ったりする。

これは喜劇を観るようにだし、アーティスト?ロックミュージシャン?どんな言葉を持って来ても不足じゃないかと思うくらいに、一線を越えたまま表現し続けていく下津。彼の、一線を越えるというはダークサイドに徹するのではなく、あくまでも陽性に振り切る、どこまでいっても陽。こういう人はアーティストの中にもそうはいない。

楽屋での話の続きというくだりで、ライブ前にでっかい鼻クソが取れたらいいライブになると屈託のない笑顔で話す下津は面白過ぎて普通じゃないし。

今のバンドメンバーとの親和性も増しているようで、どこまでも柔らかなアンサンブルが続く。"!!!"のノイジーなギターさえ、"Boy"のサイケなエンドロールの狂演さえも陽に徹されているように感じた。

おそらく下津は究極的に陰を理解し咀嚼しているからこそ、結果的に極限まで陽に徹した表現を続けられるのだと思う。

2回目の変化点は、ライブがピークへと向かおうとして、下津がMCで「見たことない景色見えるきいする」と言い放ち歌われた"僕はラジオ"辺り。もっともサイケデリックな瞬間が訪れる。

新曲もやってくれた。ストレートなロックで、音楽だけはあなたの味方だと普遍的な歌詞で僕らを揺さぶる。

本編ラストは"言葉も出ない"下津が目を見開き、一点を見つめ歌いきる姿。その形相で、また会いましょうと死ぬんだからのワードが繰り返される。そんな生と死の反復横跳びを見せつけられ、ありふれた言葉だがカタルシスに包み込まれた。つまりそれは、生と死が表裏一体であることの意味を知っているからこそ、生の尊さを叫びつつ、死ぬんだからとも叫べるのだ。

ほど無くして、ロックの古典を体現するように上半身裸になった下津、そしてメンバーが再登場した。彼のMCにも登場したイギーポップばりだろうか。"ジョン・ケイル"のモータウンビートの勢いにのり、ロックを現象的に表現し続け、ラストは"それで幸せ"。汗に濡れた上半身裸の佇まいで、一点を見つめ、本編ラスト以上の形相で、"明日あなたに会う/あなたに会う/それで幸せ"を溜めに溜め吐き出し歌い、リフレインし続けた。

終焉はダブルアンコールにて。下津はギターをかき鳴らし、ついには弦を毟り取った。ほんとリアリティのある瞬間だった。

終わりがあるから、笑顔でまた会おうというのだ。笑顔と泣き顔を使い分ける社会で、また一つ踊ってばかりの国に教えられた気がする。

DISC REVIEW

上坂すみれ『ノーフューチャーバカンス』

 

-ロックは本当に死んだのか?-

 

    “あなたがもう忘れてしまったとしても、きっと、次の未来でまた出会える。

わかってしまった世界のことも、きっと散々だって、笑い飛ばすことができる。

だから、思い出して、少しでも前を向いて。

日が沈む前に、こんな夏の話を、終わらせに行こう。”

 「Summertime Record」/『Mekakucity Records』/Jin

 

 もう正直に認めた方がいい、AKB48のメンバーの水着姿はオカズになると、男子諸君は。いや、認めなくてもいいんだが、少なくとも、AKB48は嫌いだけど欅坂46は好きとかいう人を、私は認めない。そもそも欅坂はAKBあってこそのグループなのだ。例えば、AKBがロックだとした場合、けやきはオルタナティブ・ロックみたいな立ち位置だ。だからAKB聴かずして、欅好きを語る方々は、ロックンロールは嫌いだけどオルタナティブ・ロックは好きと言っているのと同じなのだ。(もちろんオルタナティブ・ロック発祥以降の音楽リスナーである私はオルタナ大好き)欅坂がAKBに比べ、アートで前衛的に見えるのは分かる。ただそれはAKBという対象物があってこそのリフレクター。けやき坂の方は音楽として分かるという人は、そもそも錯覚に惑わされているのでは無いか。


   そうそう、2018年7月6日に麻原彰晃の死刑が執行されたらしい。人々はこういう、これでオウム事件が終わった訳では無い、遺族の怒りは収まっていない。またオウムのような事件が起きるのではないかという不安があると。確かにそうだろう。事件はこれで終わりじゃないし、遺族の怒りは一生収まらないのかもしれない。ただ、オウムのような事件はもう二度と起こらないと思う。彰晃の洗脳によって、高学歴の人々が操られて、起こされた事件の数々。もちろんその洗脳の陰には麻薬が使われていたという事実もあるが。バブル景気の真只中に社会人の扉を叩こうとした才能ある若者たちが、全く才能を活かせる舞台が存在しなかった此の時の浮かれた日本に絶望し、その逃げ場としてオウムという所謂宗教団体を選択してしまった。そういう人たちだったのではないかと私は思う。何故こういう事件がもう起こらないと思うかというと、もうそんなある意味で天才たちは2018年には存在しないからだ。


先日オウムの特番がTVで放送されていた。「オウムを終わらせた男」と題して、地下鉄サリン事件の実行犯で唯一死刑判決を受けなかった林郁夫をクローズアップしたドラマだった。林被告は取り調べで、地下鉄サリン事件の実行犯たちの名前を自供し、結果的にそれが彰晃らを逮捕できるきっかけになった。


この取り調べを担当した警察が、このドラマのもう一人の主人公。取調べには長い長い時間がかかり、林被告の告白に辿り着いた。そこに辿りつくまで、この警察は林被告も実行犯の一人だとは全く思わなかったという。それ程、林被告は人間味のある全うな人物だったのだろう。そんな人も少しの過ちで罪を犯す。


林被告を死刑に出来なかったことで警察はこのとき批判を受けたらしい。取調べで手柄を上げた警察は、裁判の前に上司から「初めから林が実行犯だと疑っていたと証言するんだろう」と言われ、それに対して「あんたもオウムと一緒だな!」と答えたという。裁判でこの警察は、林被告が実行犯とは全く分からずに取調べをした、そんな人物には見えなかったと正直に答えた。その証言と、林被告の裁判での罪の告白は遺族の怒りをさらに強めるものでは無かったらしい。結果、林被告は無期懲役の判決を受けた。この警察官はその後、出世をする事無く職務を終えたという。


私は別にこの警察官の行動が正しかった事を提示したい訳ではない。ただこれがまさに日本だ、ということは言えるだろう。社会という集団から除け者にされて入ったオウム。そこから疎外される事をおそれ、起こされた事件の数々。反対に警察という集団から疎外されることになっても自分の正義を押し通した警察官。おそらく日本では前者が多いと思う。

思い返してみると日本という国では「集団からの疎外」をおそれて実行された事柄が沢山あると思う。戦時中に起きた自爆を厭わない特別特攻隊、高度成長期にkaroshiなんて気にせず働き続けた人々、そして、オウム事件の犯人。いじめの加害者たち。昨今話題の働き方改革を訴える一般市民に、話題の、監督からの指示で危険なタックルを行った大学生。


これらは全然違う事に見えて、実は一つの相似形になっている。すべてに共通する因子は、「集団心理への恐怖から起こった事例」なのだ。世間からの疎外、団体からの疎外、友達からの疎外等、集団へ帰結することへの安心感と村八分になることへの恐怖心。日本人が元来持っている特性が悪影響を及ぼし、これらの事象を生み出したと思う。


オウム事件がここまで混迷を極め、今だに解決できないしこりを残したまま終わってしまった。その要因の一つに、この事件の本質的な部分を解決しようとして、奥深く追及しようとすればするほど、人間が本来持っているどす黒く、悪い部分に向き合わないといけなかったからだろう。それは警察、メディア、被害者を含め、すべての人たちがそう思ったのではなかろうか。オウムの悪い奴らを追い詰めようとすればするほど、その裏には私達が常に抱えている人間の弱さという異物がほろりと転がり出てしまったりして、それに目をそむけたくなる。きっとだれもが信じたくないのだ、自分がどれだけ汚れているかということを。


    その解決の糸口として、どうしても、戦後以降の高学歴主義がとか、高度成長期以降のとか、バブル以降のとか、言い訳がましくなる、私自身そう思ってきた。でもなんだか最近そういい難くなってきた。というのもそういった恩恵を受けながら30年以上生きてきた身としてはどうしても申し訳なさが後を引くようになってきたのだ。なんだかなぁ。もちろん集団心理によって引き起こされた事件の首謀者全員を否定するつもりは無いし、集団心理は使い方を間違えなければ、それによって日本の良さが存分に発揮されることも理解している。しかし、日本のいつ頃からか分からないが、“どす黒い渦巻くソレ”が存在して、今もってそれが何なのか分からないみたいな状態が続いている。もちろん目を背けて、見ないようにすれば、別段生活に支障は出ないのだが。でもやはりそれは戦後以降に生まれたものでは無いかという強い確信、戦前も戦争直後も知らない私が言える身分ではないかもしれないが。そういった得も言われぬ違和感のようなものを、色んな著名人の方が言葉にし、表現の中に含めたりしている。


例えば、養老孟司氏が著書で言っていたが、オウム事件が起こる少し前位から、養老氏が相手していた大学生の様子や発言がどうもおかしいという違和感を持っていたという。オウムの事件が発覚して、その犯人たちが何れも高学歴の大学生だったことを知って、その違和感の理由が分かったというようなことが書かれていた。

また、日本のバブル景気の時、小澤征爾氏が海外の飲食店で日本人に会った時の話が新聞に掲載されていた。その当時の海外に居た日本人は自分の自慢話をする輩ばかりだったという、彼はその時このままでは日本はヤバいぞと思ったらしい。


こういった方々の体験からも“ソレ”の存在を感じることが出来る。さらに、“ソレ”自体を表現しようとした作品もあると思う。

まずは、言わずと知れた庵野秀明監督の「エヴァンゲリオン」、また浦沢直樹氏の「20世紀少年」そして、宮部みゆき氏の「ソロモンの偽証」。

これらの登場人物を順に見ていくと。

エヴァそのものが実態の見えない“ソレ”に対しての怒りの象徴のようなものだろう。

20世紀少年に出てくる“友達”というモノ自体が彼等に付きまとっていた訳の分からない闇であり、具現化できない“ソレ”だったのだろう。

ソロモンの偽証の冒頭で自殺した少年、この物語で唯一答えが示されずに残っているのが、この少年の自殺した理由である。それこそが日本が戦後以降ずっと解決できていない問題であり、“ソレ”そのものなのだ。

この三者はいずれも、戦後以降に生まれた、ほぼ同世代の表現者であることも特筆すべき点だろう。この3人が作品で提示した“インテロゲーションマーク”こそが、今も私たちの周りに浮遊している“ソレ”に対しての、表現者としての小さな抵抗、石つぶてだったのではないかと思う。


 “ソレ”に惑わされずに生きればいい。そもそも、“ソレ”は存在しないのかもれない。と思ったりもするが、それでも私は“ソレ”が存在すると思っている。そして、それに対峙するための武器がロックだったらいいなと思うが、そんなきれいごとが通じる世の中はもう存在しないのだろう。特に日本では。

もちろんそれに対峙できるのはロックじゃなくて別の音楽だとは言わない、どこまでいっても、その閉塞感を打破できるのはロックだと思っている。かといって、今の閉塞感を打破できるようなロックが日本の中に存在して、機能しているかと聞かれれば、答えに困る。でも悲嘆はしていない、何故ならロックは何処まで行っても自由であることがロックの大前提だから。今の状態がロックとしてはごくごく普通なのだ。


 冒頭のAKBの水着が云々という発言が今更ながら恥ずかしくなってきたが、もう戻れないだろう。男の性でしょうかという発言するとACのCMか?絶滅危惧種の発言か?と思われてしまうのがオチだろう。そこにLGBTの権利がとかが入ってくるともう訳が分からなくなる。絶滅危惧種の発言として言わせてもらうが、私はリケジョというキャッチコピーがすきじゃない。また林先生が驚く初耳学のコーナー「初耳ピーポー」での新たな女性像的な紹介の仕方も好きじゃない。そもそも女性という部分にフォーカスを絞り過ぎていることに違和感がある。もちろん男女平等であることは正しいのだが、今の状態では日本はまだ男性優位社会であることがまるわかりだからだ。昔、谷川俊太郎氏が言っていたように「本当の平和は平和って言葉が疎ましくなるくらいになってやっと平和と言える」平和にしようと宣言しなくも良い世界が本当の平和だというのだ。だから敢えて女性をクローズアップしなくてもよくならないと本当の男女平等は実現しないだろう。


AKBの話に戻るが、女性にとっての同性のアイドルはどういった位置づけになるのか分からないが、男にとってアイドルとはいつの時代もそういう位置づけになってしまうのではないかという通念が頭の中にこびり付いている。

例えば、戦隊モノを男の子は好きだ。そして、大人になっても観る人はいる。でも成人してずいぶん経つ私はもう観ていない。それにはきっかけがある。大人への階段を上る途中で、ふと、女性の悪役を女として観てしまった時が来た。私はそれが戦隊モノ卒業の契機になったと思っている。もちろん大人になっても全然観て良いものだし、子供と一緒になってみるのは正しい。ただ、漠然としてあるのだ、私の中では。戦隊ものはこういう視点で見るべきだという基準が。

男にとってそういった視点は絶対に消えないし、だからアイドルに対してもそういった視点は消せないと思う。これが芸術性と男の性との戦いでもある。だから私はアイドルの音楽を100%芸術作品としてしか見ていないという男を信じていないし、私は絶対そうなれないと思う。だから、ロックの代りをアイドルは出来ないし、アイドルの代りをロックはしちゃいけないのだ。(ビートルズは最初アイドルみたいなものだったという話は置いといて)ロックにはロックとしての可能性があって、アイドルにはアイドルとしての可能性がある。決してロック=アイドルにならない。弁証法的にロックでも正しくて、アイドルでも正しいなんてことにはならない。


 弁証法的。そういえば弁証法唯物論とか小難しい歌詞を歌っている、上坂すみれの『ノーフューチャーバカンス』という作品を先日聴いてみたのだが...


2018年の日本の音楽シーンには、アイドルと女性声優、アニソンがクロスオーバーしたアーティストの市場がある。その中の一人、上坂すみれの本作は、コンセプトとしては「未来形少女」といったところだろうか。

近年の日本の音楽シーンとつながっている点としては、中田ヤスタカが仕掛けたテクノ・ポップ グループ Perfume以降を感じさせる「POP TEAM EPIC」。初音ミク以降のボカロ、歌い手シーンを、声優という本業色を最大限にマッチングさせた「恋する図形(cubic futurismo)」などだ。

それにしても、語弊のある言い方になるかもしれないが、彼女のようなアーティストは他にもいるはず?と思った。それでもなぜ、上坂すみれでないとダメだったかを考えてみた。


1つ目は、上坂すみれが1991年生まれという点から考察してみると。昔ネットで知り合った17才の女子高生(1992年生まれ)に、平成生まれイイよね。と言ったとき、彼女は「よくないですよ。昭和の方がいいです。平成生まれやからな〜って言われるんですよ、結局。」みたいな返され方をした事を思い出す。

おそらく、個人差はあるだろうが、平成なりたて頃の生まれは、そういう皮膚感覚を持ち合わせているのかもしれない。最近の若者の中には昔の歌謡曲を好んで聴く人が多くいるらしいし。そんな価値観が「平成生まれ」の歌詞にうまくリンクしてしまっている。作詞の松永天馬はそれを知ってか知らずか…

2つ目は、アルバムの全体的な基調になっているダンス・ミュージック。10年代のコンテンポラリーな色を出すためのEDM、トラップなどへの傾倒はあえて避けて、80年代を思い起こさせるようなビートを使うことで、いわゆる昭和的な匂いを彷彿させている。おそらく、そのように狙ってプロデュースしているのだろうが、これが自ずと上坂すみれの昭和への憧れとマッチングしている。

3つ目は、今作の、アイコンとしての上坂すみれのコンセプトは「未来形少女」と言った。しかし蓋を開けてみれば、"昭和育ち"やら古典を好む歌詞やら、80Sのビート感、ニューウェーブなど。歴史的なものへの恋慕に溢れた作品になっている。


近未来の少女という佇まいと倒錯し続けた結果、おぼろげに「ノーフューチャーバカンス」という言葉がステンシルシートを使って書いた文字のように浮かんでこないだろうか。つまり未来に希望を抱きまくっているからこそ近未来少女は生まれ、だけど、もう終わろとしている平成の世に本当の希望は見えなくて、だから昭和に憧れて。でも、そんな自分の時代を愛したいからこそ…

"私たちに明日は無くとも。だから、今こそバカンスなのだ!"

と、そんなことを言いたいのではないか。

ラストのシティーポップなタイトルソング「ノーフューチャーバカンス」は上坂すみれの作詞。そこには彼女の内面の吐露も見られるような気がする。

 

"光 窓辺に 身をゆだねたら

本当の自分が 見える気がするmoonlight  "

" ha 綺麗な時間だけを集めて 閉じ込めたい…

すべては消える砂糖(シュガー)の幻想(ドリーミン)"

 

闇の中だからこそ、光が見えるなんて、耳にタコが出来るほど聞いてきたかい?

歴史上からは昭和も消えない、平成も消えない。       

でも次の未来は、もっと希望が見える世界だったらイイね。

 

DISC REVIEW

シャムキャッツ

『Friends Again』

 

シャムキャッツシャムキャッツでいるために―

 

 シャムキャッツってバンド名になぜ決まったのか、私は知らない。どこかのインタビューでメンバーが質問されて、答えているのかもしれないが…。それをいいことに勝手に考えてみた。“キャッツ・アイ”や“Cats”など、猫がタイトルになることは少なくない。かわいい動物の代表格である名前をバンド名につけるという案は100点満点だろう。ロックバンドのイメージから考えて尚良。


 シャムキャッツが“猫”という名前にギャップを感じる程のロック×2な人達かといえば、そうは感じない。むしろ猫っぽい4人の男と例える方が納得し易いだろう。じゃあ猫みたいなヤツらだからシャムキャッツって名前でいいじゃないか?という風にバンド名が決まったと、私は思い込むことにした。


 2015年のミニアルバム『TAKE CARE』では、さほど猫っぽさは感じなかった。ただ、猫の目線で彼等の物語は紡がれていると感じた。そのスピード感と音楽自体のテンポも含めて、同世代のバンドとはズレている。寧ろ、ずらしていることが彼等のアイデンティティであり、世間に対してのアンチになっていた。その並々ならぬ努力の結果、シャムキャッツは存在しているのだと思う。


 今作では「Funny Face」の歌詞に猫が登場した。正に猫々しい作品。シャムキャッツというバンド名に相応しいアルバムになったと思う。でも、これから猫っぽさ全開で突き進んでいくわけでもないだろう。かわいい娘を可愛い猫と喩えることは言わずもがな。彼らはいずれ、バンド名の本当の意味を語ってくれるのかもしれない。少なくともそれまでは、作品を片手に想像してみるのもいいだろう。


 “もう一回 ふざけたら ただじゃ おかないよ”と去勢された元オス猫は言う。でも彼は「元ではなく今もオス猫だ」と言い張っている。それは当たり前なんだが…。男が男でいることの難しさを抱えた同世代の想いを、このバンドは代弁できているのかもしれない。そんなシャムキャッツの戦いは終わらないし、これからが本番なんだろう。

 

DISC REVIEW

踊ってばかりの国

『君のために生きていくね』

 

―消えた玄人と増え続ける素人―

 

日本では玄人が消えていき、素人が増えてきている。それは色んな職業の人の現状を見ればわかる。汚職刑事や教師の犯罪。本来プロでなければいけない人たちが、プロとしてあるまじき行為をする。そういうのが日常の出来事になってしまった今日この頃。そしてロックミュージシャンもご多分にもれず、玄人が消えてきているようだ。職業としてのロックミュージシャンが増えてきていると思う。それも正しいし、間違ってはいない。職業の選択肢が増えることはいいことだ

 

そんな中であくまでも、生々しいロックミュージシャン像を体現し続ける一人が、踊ってばかりの国の下津光史だ。

 

今作で生々しいロックミュージシャン像が顕著に表れている曲が何点かある。まずM1「Boy」で描かれる古典的なロックの価値。“パパとママにはずっと内緒だぜ”の代名詞が消えて、幾年が経つだろう。ロックの持つ懐かしい風景を見せてくれる。M15「プロテストソング」はロックの根源的なパワーを象徴する曲だ。下津のシャンソンのような歌い出しから、一気にバンド・アンサンブルが渦巻いていく。ここで歌われている政治的抗議は、社会によって奪われた“友”への悲哀と捉えることができるだろうか。それに対して「無償の愛」をささげられるのもロックの醍醐味である。最後はボーナス・トラックでもあるM16「美しい春」。ワルツの調べと共に、ロックの究極のスタンダードであり、今なお色あせることの無い“半径5m以内に存在する人への愛”を提示する曲で締めくくられる。

いかれた奴が正しい奴だとは言わない。でも『君のために生きていくね』のような本当のロックを歌えないロックミュージシャンは、即刻リングから降りてもらいたいとも思う。

 

まあ、でも、これを書いている私も素人なので、即刻退場の憂き目に遭うことは火を見るよりも明らかだろう。

 

 

DISC REVIEW

ART-SCHOOL『In Colors』

 

―パラダイス・ロストの次の景色―

 

ふと3rdアルバム『PARADISE LOST』を思い返す。本作は、これの次に鳴るべき音だったんじゃないかと思った。2005年はアートが自身のバンド・サウンドに、音響系やダンス・ミュージックを取り入れた転換期だった。以降その側面は、オルタナティブ・ロックの一つの色として、ずっとアートに息づいてはいたが、その音楽的な傾向を活かすような、陽性でポップな作品は生まれてこなかったと思う。

 

それが、バンドが現体制なって数年が経ち、木下理樹以外のメンバーが徐々に作曲に参加し始めた結果、失われた楽園の向こうの景色が見えるような本作を生み出せたのだろう。特に作曲が共作の楽曲を見てみると。M1,2,5は戸高賢史との共作で、ポップでテンションの高い楽曲。M3は藤田勇との共作で、ダンスロックな楽曲。それに後押しされたか、元々持っていたか、木下理樹単独の曲もロックの持つ陽性なポテンシャルが感じられる楽曲となっている。

 

先日見たツアーでの演奏でも、その傾向は、はっきりと出ていた。ライブの中で、アートのメタルな部分、音響系な部分とダンス・ミュージックな部分が明確になり、バンドに多彩な色を与えていた。

まさにカラフルな楽園を描けたのだと思う。

 

COLUMN

『ネットの恩恵と代償が、僕たちと音楽の繋がりをどう変えたか』

ー 2015年6月28日 ー

先日、美容室に髪を切りに行った。その時、RADIO HEADを好んで聴いていたという店長が、「あの頃と(90年代)比べて、今の音楽って全然変わりましたよね~」とそれに対して僕は、とりあえず「そうですね、やっぱり90年代後半にロックにヒップ・ポップが取り入れられてから、ロックの形も変わってきたんじゃないですかね。」と切り返した。帰ってから、ふとその会話を思い出してみた。なんかしっくりこないのだ。何か、ロックが変わる、それ以上に音楽に変化を及ぼした何がしか。

そうだ、インターネットか…。Windowsが日本に上陸して、ヒジネスや人々の暮らしに入り込んできたのも90年代だった。僕の場合、その時期は小中学生の時期と重なる。小学校の卒業文集に将来の夢はパソコンを使う仕事とか適当なことを書いていたのを思い出す。それは、予言なんかじゃなく、単にそういう時代の始まりだっただけで深い意味は無かった。
そんな僕は社会人になり、ある人生先輩の言葉を聞くことになる。いわゆる、団塊の世代の方で、彼は、「Windowsに日本が侵食されたんや」と言った。まぁ、オヤジの単なる愚痴に聞こえるが、妙に僕の心に引っかかるものだった。

インターネットの普及はYouTubeを含め、音楽ビジネスに大きく影響を与えたのはもう承知の事実。そこを開けば、どんな時代のどういうジャンルのどこの国の音楽だって聞きかじることが出来る。なんて便利な時代なんだ!最高だね。
でも本当にそうなんだろうか。莫大な量の曲が詰め込まれた、おもちゃ箱とも言えるネット。その中では、ロックやポップやクラッシック、ジャズ、レゲエetc.全てが同じ枠の中に並べ連ねられている。さぁどれを聞こうか?

でも、やっぱりガイドラインが必要なってくる。選択肢が多すぎるからだ。その充足は満足に繋がらず、寧ろ満たされない、無機質感を与えてくる。昔はラジオのDJが曲を伝える一瞬が大事だった。聴き逃したり聴けたり。それは瞬間の事柄。また雑誌などは、ディテールに踏み込んだ考察。知識。その媒体は通常、月一に読者に伝わる。そんなメディアが音楽を伝えることを担ってきた。
でも時代は流れ、乗り物は電車から新幹線へ、電話はアナログから光へ。全てのスピードは速くなり、それは便利を追い求める人間にとっては当たり前の進化だったのかも。情報も遅くては意味を無くして行った。

音楽の情報サイトもネットでは次から次へ新しいものが。その中で最もネットの音楽サイトで勝者というべき、アクセス数が多いのが「音楽ナタリー」だという。最新の音楽関連情報を最速でアップする行為、それがネット上では一番有効だったということだろう。言うなれば、そこには、音楽アーティストの個性や、優秀かハイプかというニュアンスや切り口は存在しない。そのミュージシャンの情報を知りたいというニーズさえあれば、そこにニュースを流す価値があるのだ。つまりは受け手側の特異な趣味趣向やこだわりには一切配慮はしない。ある意味ボーダレスなのだ。一つの枠にアーティストとニュース内容が時系列的に流れていく。情報という無機質感、ただ知りたいことを得られるならそれで十分だとは思う。ある音楽ファンも、ナタリーには情報以外のそれ以上のものは求めていないと言っていた。

そのアーティストのディテールを深く知りたければ、ロッキング・オンを熟読すればいいのだ。そこまで探求する気が無ければ、それ以上深入りしないだろう。おそらく今は後者の人が多いのではないかと思う。でなければ、もっとロックをロックらしく捉えようとする人が増えてくるはずなのだが。
音楽ナタリーの方法論は、Amazonに似ていると僕は思っている。
Amazonがネット販売サイトで一番勝っている一つの理由は、注文してから届くまでの速さである。それを可能にしているのが、保管している棚での商品の並べかただという。通常の分類の仕方であれば、家具は家具でまとめて置くだろう。でもここでは、A、B、C…とアルファベット順に並べているのだ、例えるならアンティークでもあんこ餅でもAだから同じ列に並べるのだ。
これ、ナタリーに似ていますよね。
アイドルだろうがゴリゴリのデスメタルだろうが、自然破壊撲滅を訴える似非宣教師の歌でさえも、同じ枠の時系列の中の一行の情報として落とし込まれ流れていく文として成り立っていくのだ。

このようなネットを使用したビジネスで勝利しているシステムは、およそ海外的な方法論によって成り立っている。ISO(国際標準化機構)9001という品質マネージメントシステムがあり、今の大企業は殆どISO9001の認証を取得している。簡単に言えば、これに認定されている会社は、しっかり品質管理のされた工場から商品を出荷出来ているといえるのだ。このISO9001はヨーロッパから発祥したもので、管理方法はヨーロッパ的な思想から生まれたものだ。実はこの方法論は日本人的な感覚とは少し違っている。それがよくわかる一つの話がある。まず、ここに”牛”と”猫”と”草”を描いた紙があります。この三つをどうグループ分けしますか?という問いに対して、ヨーロッパ人と日本人では区別の違いが出てくるという。ヨーロッパ人は”牛と猫は動物だからこの2つをくっ付けます。”という。でも日本人は”牛は草を食べるからこの組み合わせだ”と考える。管理という面から考えたとき。前者の考え方がシステムとしてうまくいく。これがISO的な考え方だ。日本人が後者のような考え方をするのは、元々僕たちはそこに物語性を作り出す、日本人的な感性、侘び寂びのようなものを含め物事を捉える。それが時にビジネスの中ではネックになることがあるのだ。

何故この話を引き合いに出したかというと、僕が考えるに、ヨーロッパ的な思想の元にしたのが現在のネット音楽サイトだとするなら、日本人的な思想を含んでいるのが、ロッキング・オン(アーティストの深層に踏み込んだもの)だと言えるのではないかと思ったからだ。世間では、今ネットの音楽サイトは商業的に見て成長株だ。逆に詳細な見解や物語性を内在した雑誌は、古株扱いといえるかもしれない。
確かにそうなんだ、僕たちには時間がない。そんな悠長なことを言ってる暇もないから懇切丁寧な文に目を追わせることも億劫になるのだろう。いつの間に社会はこんなにも先を求めて速さを競い、成果主義が闊歩するようになったのだ。

でもネットという最大級のおもちゃ箱が生まれたことによる恩恵もある。音楽を演る側にとっては膨大な音楽ライブラリーは平等に与えてられているのだ。そこからの抽出する音楽エキスの組み合わせも無限だ。
またボーカロイド音声合成技術)によって、音域の範囲なども不可能を可能にした。そこから音楽活動を開始した、じん(自然の敵P)や米津玄師は、正に既存の音楽ジャンルの垣根を全く気にしないアプローチで、日本の音楽シーンに一石を投じている。つまりはネットから選びだす感性によっては、摩訶不思議な音楽を生み出すミュージシャンだって生まれておかしくないのだ。
もちろん僕はミュージシャン達の物語を、これからも深く追い続けたい。ネットの恩恵と代償を受けた音楽シーンがどの様に変わっていくか不安と楽しみがない交ぜになった状態。2015年にそんな思いに駆られている。

杞憂かもしれないけど3.11以降、音楽ビジネスの形も大きく変わった。ポップ・ミュージックは芸術的な側面ももっているが、やっぱりモンキー・ビジネスであり、人間の関係性無くしては、いずれ何もかもが枯渇してしまうだろう。音楽だけは残るだろうが。
僕は憂いているのだ、馬鹿だからかもしれないけど。ロックのあり方、ポップ・シーンの未来とかに不安を感じている。
今僕達は、音楽といつでも繋がれるYouTubeなどを通して。友達にいつでも連絡出来る、LINEを通して。知らない誰かといつでもコミニケーション出来る、SNSを通して。
いつでも…だからこそ遠くに感じてしまうこともある。

昨年、村上春樹の『ノルウェイの森』を初めて読んだ。登場人物に主人公のワタナベ君と、直子、緑という二人の女性が出で来る。簡単にいうと複雑な恋愛を主軸に置いた物語だ。時代背景的に、そこにネットは無い。携帯電話も無い。話の中には、寮の電話にかけてくるというシーンがある。彼女の話を聞くために電車を乗り継いでまで行く。そこには繋がるために必要な圧倒的な距離がある。だからこそ、それを乗り越える意味があるとも言える。今なら、LINEで24時間、嫌でも繋がれる可能性だけは落ちているのだ。
僕たちと音楽の関係もそうなってきてるんじゃなかろうか?ネットを開けば1日中音楽と繋がれる。でもそれが本当に自分にとって必要なのかはわからないわけだ。無い物ねだりだとあなたはいうのか?
”僕は今どこにいるのだ。”ワタナベ君がラストシーンで心の中で呟く言葉。正に僕たちは今この主人公と同じ状況じゃないだろうか?
ネットという音楽の樹海に僕たちはただ立ち竦むしかないようだ。少なくとも、飽きるほどに聴ける音楽は泉のように湧き出ている。それはあなたが望むポップ・ミュージックであるかはいざ知らず。

ネットが与えた恩恵は選択の自由だ。僕たちは沢山ある音楽の中から自分の感性で、選び聞くことが出来る。だからこそ人に合わせるのでは無く、自分で選ぶことが一番大切なのだ。一方でネットが与えた代償は莫大な量の音楽を一つのハコに入れジャンルや有効性の区別などせず、横一列に並べ、平準化し区画整理したこと。その中から自分だけの希望を見つけださないといけないことだ。

どんな音楽とでも、ずっと繋がっていられる、確かに嬉しいことだ。でも音楽だろうが何だろうが、瞬間の巡り合わせっていうのも大事だと僕は考える。人との出会いだってそうだ。出会い系サイトというのがあるが、それについてアホなことを想像したことがある。この人工的な出会いが増えることによって、超自然発生的な出会い少なくなる説を唱えていたのだ。若気の至りだと思うが、それと同じようなことを音楽との出会いにも当てはめて妄想してしまうのだ。
いつでも出会えるなら、ずっと出会わなくてもいい、そんな選択肢だって出来てしまう。
でも、どんな状況になろうと音楽が好きなら、その運命的な出会いを模索し続けるだろう。この人間味のない密林地帯で。そうするしかない。

あなたはこう言うかもしれない。「音楽だけは生き残ると」
それだけが救いなのかもしれない。