LIVE REPORT

ROTH BART BARON

Tour 2020-2021 『極彩色の祝祭』

2020.12.5 

in 京都磔磔

 

おそらくはみんなわかっていた。

『極彩色の祝祭』のツアーだから、1曲目は「Voice(s)」であることを。そして観客が1曲目を予感していることを。アメリカ国旗があしらわれた、紺色のニット生地のトップスを着た三船雅也自身も感じていたはず。そのための歌い出すまでの沈黙だった。数秒後、透き通った高音で、《嵐が去って》という歌詞が言霊として吐かれ、ライブが始まった。

今年の恒例行事のようにポジティブに捉える方が得だろう感染対策についての事柄。もちろん京都のライブハウス磔磔でも確実に行われていた。マスクと検温は言わずもがな、入場前の京都市新型コロナあんしん追跡サービスの登録又は、住所と氏名の提示、と同時にライブ参戦の同意書の記入。会場の定員数も少なくされていただろうし、フロアには白のビニールテープでバツ印が等間隔に貼られていて、基本的には定位置で観戦することがアナウンスされていた。

序盤にて「000BIG BIRD000」が演奏される。アルバムでは後半部分の始まりを担う曲で、一番サイケデリックな展開があるため、後半で登場するのがベターだと考えていたが、《"そのゲームをやりたくないんだ"》と《新しい色をくれよ》の歌詞の繰り返しが、ライブの流れをつくり、到達点へと繋ぐポイントとなっていた。

中盤には「dEsTroY」が投下され、タイトルとは裏腹に最もポジティブな素肌をもった曲がステージの陽光を増幅させていく。

変化点と言えるものは「ひかりの螺旋」と「King」で、やはりという気持ちもあった。それらは作品のコンセプトを担い、アルバムの核を成す対極的な2曲だからだが、事ライブでは音の側面が有機的に機能して、その先への予兆となっていた。

そして到達した本編のピークは「ヨVE」だったと思う。《もうすぐ僕ら/色を手にして》という瞬間をステージ上で魅せられること自体が、この場所で行う醍醐味であったと思い出し、それを再確認し合う場面だった。

幕間の様に洋楽カバーの差し込みがワンクッションとなり、フラットになったところで佳境へとすすむ。

本作で最もアコースティックで、奇をてらった装飾を纏わない「BURN HOUSE」が、《僕らの街が/壊れてく/どうしたら元に戻る?》という詞を生々しく伝えた後、おそらく今回一番、音源と比べて音数が多彩に変化して、より鋭利な音圧を感じさせてくれた「極彩 IGL(S)」へ続く。言うなれば狂乱のアレンジと言いたい位に、その現場で音を鳴らす事が当然のごとく正しいと、提示しているかの様だった。「君の物語を/絶やすな」と繰り返す歌詞が、寂静だが確実に私たちに伝わってくる。

ついに本編ラストへ。マイクの前に立つ三船雅也が、狂ったロックスターを演じるかのように、瞳を上に向け、眼球の白さを見せ、「NEVER FORGET」を歌い始めた。幸か不幸か、今だからこそ必然的に響く言霊はある。三船雅也は、だから出来た曲だと言うかもしれない。《息をたくさん吸って/小さな肺を/満たしてゆけ》《世界を犠牲にしても/やりたいことがまだある?》と歌われる歌詞は、三船雅也自身と、このパンデミック下の全ての人に訴えかけるものになっていたし、それは可能性という名のロックを有効活用することに他ならない。

――再登場した三船雅也は、"今年の夏は暑かったけど、家の中から外を見ると静かで、涼しげに感じた。そんなこんなで、冬の曲をやります"というようなMCと共にアンコールへ。

ほんとのラストは、"いつもこれが最後だと思ってやっている、今年は本当に最後がここまで(手のひらを顔の横に添えるジェスチャーを交えつつ)近づいていると感じた。また出来て良かった。またねという意味を込めて"という様なMCから「CHEEZY MAN」へ。《おやすみなさいと言おう》という歌詞の末端が、ライブならではと言えるようにファルセットで鳴り響き、終演となった。

――この日のライブを一言でまとめるなら精神的な狂宴だった。

ドラムのメタル感のある響き、実際の鎖を持ち込むという飛び道具(音源完全再現)があったり、ミニサイズギターの生感がある音色だったり。一見アコーディオンのようなハルモニウムの音色なども、この狂宴たらしめている要因だったと思う。

一般的なロックバンドのライブとは異なった色合いを見せてくれたROTH BART BARONのライブ。バンドというよりも、ひとつの何かを成し遂げるための楽団と表す方が正確だろう。サポート・ギターのプレイとエフェクターの間歇使用の妙技は、職人芸といっていいものだった。

楽団が作り出した音世界の意味を考察してみると。金管楽器のトランペットとトロンボーン、電子音と鍵盤楽器や打楽器の狂騒は、ともすれば不協和音に成りかねないものだが、愚かさと共に進化した人間への、祝福の音となっていた。ホーン隊の生音の自己主張は爆音で、狂宴度合いを高めていたと思う。

一般的にホーン隊には祝福のイメージを抱くが、この場所では多幸感と絶望感が同居するようなアンビバレントな音が鳴っていた。またシンセなどの電子音は、愚かな人間がその力により生物界の頂点に立ったこと示す、その悲哀の側面を無機質に表していた。そしてドラムなどの打楽器は、人間の肉体自体が表す喜びを歌う。さらにギターエフェクターが作り出す音からは、刹那的な怒りも感じられた。

こういった音の渦が感情を伴い、ぐるぐるとまわり輪になり、円環が閉じる。

おおよそ、こういった表現をするのがROTH BART BARONのロックなのだろう。

2020年のコロナ禍によって人間本来の生き方を問われたこの状況においては、三船雅也が歌うメッセージと彼らが作り出す音が最も有効に機能していると感じた。

最後にフロントマンの人物像にスポットを当ててみたい。楽団を率いる三船雅也は、率いるといえどもコントロールフリークではないようで、この集団からは自由なムードが漂っていた。

公演を観て、三船雅也は近年稀にみるロックミュージシャンというものを演じきり、それを魅せる表現まで昇華できる人だと感じた。

所謂、職業としてのロックミュージシャンは沢山いる。その中でも優秀な人は、その個人にロックをする意味や必然性や渇望がある人で、これらは自然にロックに選ばれる人となるが、おそらくそれとは異なる人のようだ。

昔の正にロックンローラーは言うなれば、ロックスターを演じながらも、その個人にもロックをする必然性があった。

だとするなら三船雅也は、ロックをする必然性を感じさせない、つまり職業としてのロックの佇まいを持ちながらも、彼自身の渇望が自らの手でロックを掴み取り、それをアジテートする人物だと言えるだろう。だからこそ、メッセージ性を売りにするバンドを軽く超える言葉が彼からは溢れている。そんなことを考えさせてくれた一夜だった。