DISC REVIEW

BTS
『proof』


ー白人でも無く黒人でも無い選択肢とは?僕たちは世界の果てまでQという選択肢に逃げ続けるー


相変わらず色眼鏡からは逃げられないなと思う。それはポップ・ミュージックの中でも同じである。「FAKE LOVE」は明らかに革命だった。トラップ・ミュージックに完璧に乗る、ヴァースの韓国語歌詞のウェットな感情とコーラスの英語歌詞のドライな質感は、それ以外の言語ではいけない、ポップとしての完全無欠さを成し遂げていた。私も当時『LOVE YOURSELF 轉 'Tear'』を暫く愛聴していたが、それがビルボードチャート1位獲得を知った後だった事は言っておくべきだろう。

アンソロジーである本作を聴くとこれまでのBTSの音楽的な時空の旅を体験することが出来る。簡単に流れを捉えると、「No More Dream」から「Danger」迄が00sのヒップホップ、ソウル。「I NEED U」から10s的なトラップ、EDMへ移行し、終盤の「Dynamite」「Butter」は時空を遡り80sのポップスの色彩を魅せてくれる。改めて全体を俯瞰して見ると、K-POPアーティストが洋楽をオリジナルと同レベルで体現する新しさから始まり、徐々に加速していく中で韓国語がポップに乗る可能性を結実させ、最終的にBTS≒洋楽をだれも疑わなくなる地点までたどり着いたと言える。

今でも思い出すのは、90s末期にラジオで聴いた韓国語のロック。余りにロックのビートと相性が悪かったのを記憶している。だから未だにBTSの韓国語歌詞が何故ポップに馴染むのか、私自身は答えを掴めずにいる。おそらく、韓国の経済状況も変わった。K-POPへの投資額も増えた。韓国人のスキルも上がった。もちろんアーティストがデビューに至る迄の、血の滲むようなドキュメンタリーも決して嘘では無かったのが理由だろう。

誰も彼も色眼鏡からは逃れられない。日本人サッカー選手の欧州での活躍は、もちろん選手自身のスキルが上がった事が理由であるが、日本人の方が年俸が安く済むという意味もある。白人至上主義やBLMというワードがせめぎ合った近年。実は、私たちはそういったカテゴリーや制約から常に外れる事を本能的に求めていたのだ。そう、BTSはそれに適合する、何処にも属さない、私たちが渇望するクイア(Queer)的な存在であった事は疑いの余地は無い。私たちはこの10年ずっと、その“Q”に逃げ続けてきたのかも知れない。しかし、それはコロナ禍とロシアのウクライナ侵攻により唐突に方向転換を迫られる事になった。まぁ、でも、とりあえず今は何も考えずにこの作品を聴いてみてほしい。これから色々変わったとて、BTSが10sに刻まれた、決して消えないalternativeな証拠である事に変わりはない。“poor”な心も“Fake Love”で満たされるという“proof”を、BTSが体現した記録と言えるだろう。

DISC REVIEW

Ado『新時代(ウタ from ONE PIECE FILM RED)』


ーAdoが素顔を明かすまでの時間ー


Adoがいつ素顔を明かすのか楽しみにしているファンはいるのかな。しかしSNSという匿名世界の始まりからこの形態のアーティストが生まれるのは必然だったはず。でも、19歳の彼女がAdoを被った上に「ONE PIECE」のウタというキャラを被って歌うってなんか、マトリョーシカみたいにややこしくなってきた。

そんなイメージに沿う様に、ウタの歌とピアノの旋律で緩やかに始まるイントロから突然、海賊のおどろおどろしい太鼓の如きドラムビートと、ポストパンクを思わす冷厳なシンセ音が鳴り響き、曲は始まる。それとは対極にあるように歌詞のメッセージはタイトル通り、陽性な情熱が溢れている。

Adoが素顔を見せない事がお笑いに取り上げられるくらいに社会現象化した。その理由はコロンブスの卵だったから。誰もが簡単に出来たはず、でも誰もやらなかった。なぜならみんな始めての事は怖いからだ。そして彼女がAdoになりたいと出てきたら、どうぞ、どうぞ、というダチョウ倶楽部のネタみたいになった。だから、彼女の素顔を見たいというのは転校生の初泣き顔を見たいのと同義語なんだよ。

Adoが素顔を明かすメリットは今は無いだろう。開けても開けても真実が分からない国もあるしね。しかし、ある役者は歌舞伎を被って演じてる時が一番真心で伝えられる、武士の甲冑に近いみたいな事を発言していた。やっぱりそうなのだよ。彼女にもAdoだから言える真実があり、さらにウタを被ったら、それを上回る真実を伝えられたりして。この曲の無敵感が多分そう。でもさ、中田ヤスタカは何故、こういう陰性なシンセ音にしたんだろうね。それの方が新時代っぽいという計らい?でも、私なんかは全然信じてなくて、最後の歌詞がどうしても、信じないんだって聞こえちゃう。

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坂本慎太郎
『物語のように』


ーみんな違ってみんな笑うまで続く楽しい自粛生活ー


明るい作品というコピーにおよび腰になりつつ訪れたが、どうやら違ったようだ。むしろいつもの坂本慎太郎だろう。“フリー・ジャズ×チルアウト”な「それは違法でした」で歌われるのは、コロナ後の世界も加味し、多種多様に加速していく違法化を皮肉る視点である。物語は電子音による“人間味のない情景”から始まった。

明るいという表現の正しさは、古典的なアメリカのポップのドライな愉快さや、サーフ・ミュージックにある西海岸的な楽天主義をベースにしている事に裏打ちされる。しかし、これまでの彼の作品にもこの要素はあった。ならば、明らかに変わったのは、それを見る外側の感覚だろう。つまりこの物語にあるのは、明るい世界の崩壊から始まった明るさ、と言わざるを得ない。

絶望フェチにとっては悲しい事である。なぜならそれは世界の明るさの中でしか生きていけないからだ。その比較対象の楽しい現実社会という世界が揺らいでしまうと、おいそれと絶望もしていられない。もちろん、ポップやロックの役割もそれによって大きな影響を受けた。では彼が描く楽しいと悲しいの対比は何処へ行き着くのか。

その答えの一つは「浮き草」にある。水商売を例えた題で、音楽家の悲哀を歌う。《なぜみんなと違う?》《なぜみんなは笑う?》と疑問を呈しながら、自分が正しいと思うことをやっていればいいと、背中を押す様に歌われる。誰かにとっての悲しいは誰かにとっては楽しいにもなり得るのだ。本作のカーテンコール前と言える「愛のふとさ」は“フリー・ジャズ×ソウル”で、ようやく物語は“人間味のある情景”に戻る。あなたにとっての自粛生活は上がってたの?下がってたの?この際、はっきり言っておこう。

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ゆうらん船

MY REVOLUTION

ー消せない侘び寂びは涙の渦に帰するだろうー


MY REVOLUTION』の意味が彼らのテーマである古き良きロックからの新たな旅立ちである事は、ほぼ間違いないはず。ブリティッシュ・ロックやフォークをルーツとし、70sの日本のロックを参照しつつ、ロックンロール・リバイバルを近接点に歩んできたバンドは、このままでいいという港から錨を上げる事を選んだのだ。

つまりそれはコマーシャルに変化した彼らという事になるだろう。今まで作り上げたスタイルを維持しながらも、日本の90年代末期から00年代初期のロックを彷彿させるサウンドにシフトした部分がある。特に最初の3曲は明らかにリスナー・フレンドリーな心地よさがある。もちろんオルタナとして、ジャズや現代音楽、サイケデリックなどの要素を取り入れ、匠な集団を露わにする楽曲も多分にある。

それにしても、ソウルの蜃気楼を今だに探すJ-POPとか、もうそろそろクールに決め続けるのは限界なのでは。本当にすべきは涙のキッスをもう一度と言い続ける事、それの方がよっぽど正しいような気がしてきた。意味通りのエモさが最終的に必要になってきている。日本的なわびさびだよ。

ゆうらん船のわびさび革命とでも言おうか。本作で最も特筆すべき点は、本来の意味のエモさと重なる泣きの視点だ。簡単に言うとブルースへの接近である。本作での革命とは、泣きの琴線に触れる為にブルージーに表現することにあった。アップデートしていく日本のロックとの融合によって、ブルース感の顕在化に至ったのだろう。今後船は、消せない涙の渦を持つ日本のバンドとして舵を切るのかもしれない。

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山﨑彩音
『 魂のハイウェイ』


ー世界がもし100人の村だったとき。そんな場合に必要な音楽とは?ー


山﨑彩音が自身の弾き語りの価値に意識的であれば、今作には到達しなかったかもしれない。つまり無意識にロックの偶像感を表出させた才能がその後のストーリーを変えてしまった。もちろん意識的である事だけが正しい訳では無いが、表現者として受け手側にどう伝えるかというプロセスがあって、それが正しい時に商業的な成功がある。矛盾した言い方だが彼女の弾き語りがファンタジーに実在しそうなDIVA像を体現出来ているからこそ、現実の世界でのリンク点を見つけ難かったとも言える。

おそらく、アンビエント・ポップと彼女の歌が交差する事は時間の問題だったと思う。何故なら最もリアリティを感じられて、それがロックだから。ドリーム・ポップやダブの電子音楽によって神秘的な楽曲になるのは当然なのだが、そこに彼女の歌詞が乗ったとき、ポップとしての批評性が弾き語りよりも確実に増していると思う。シガー・ロスを彷彿させる47秒の“Sweet Planet ”から、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドな音世界の“引きあう”では、《アイフォーンと夢を見たあなたは冷たい大人になり》と、クールな視点の歌詞で突然に肝を冷やされる。

いやはや、一向に解けない問題というのはあるもの。千年の一滴の出汁の存在意義は計り知れないのだか、音楽としてのソレの存在意義はどうだろう。本作に存在する空白を強調する歌詞やスペースを空け続ける無意識なる律動。何かを生み出すための千年の月日をこの作品は渇望している。つまりは意識的である事の拒否がこの作品のアバンギャルドさを支えているのかもしれない。

まっしろでいたいまっしろでいたいという漂白観念の旅の果てに辿り着きたい無意識なる園が本作の終着点となる。そこは人口100人の村。ショウビスの世界とは無縁で、ただそこにいる人へ直接音楽を伝えられる場所。そんなところでは、この歌は確実に伝わっていく。もちろんポップの魔力を否定している訳ではないが、この場合、重要なのは答えでは無く、そこに行き着くまでの過程に意味があったりする。魂のハイウェイ上で抜き去りたい、抜き去るべき景色があるんだよ。それはポップの常習性を禍々しく私たちに見せつけてきた張本人。そう、過去のシティーポップに他ならないのだ。

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米津玄師
『 M八七』


ー米津玄師がすべての人に向けたレクイエムを歌う。それは何れ心のふるさとで鳴り響くだろうー


ポップ・スター米津玄師誕生の分岐点は『STRAY SHEEP』だった。ポップとして消費される事の覚悟の果てに彼は新たな旅に出る事となったが、以降の彼の楽曲は、正義と悪に向き合い、その両極端に振り切る事によってポップミュージックを生み出してきたと言えるだろう。簡単に言えば、「Pale Blue」では正義に、「POP SONG」では悪に向き合っている。楽曲としては正義はよりシリアスに、悪はよりコミカルに描くのが、今の彼の方法論だ。もちろん正義と悪は時に反転の意味を持つことは言うまでも無い。

シン・ウルトラマンの主題歌である事を表す点をこの曲から探してみると、スリリングなストリングスや効果的な飛翔音、そしてカラータイマーを彷彿する心拍音が映画の印象と同期している。歌詞では“痛み”というワードが映画にある戦闘と表面上はリンクし、正義と向き合うシリアスな地点をポップの役割で表現している。

福島原発廃炉について自分事として考えて欲しいという学者がいた。一体どうやって?まずその方法を教えて欲しい。先程、表面上と言った意味を理解して頂けるだろうか。米津玄師が戦いと痛みを安易に紐付けはしない。ではなぜ《痛みを知る/ただ一人であれ》という歌詞が歌われたのか。それについては3分間の意義について考えねばならない。私たちはウルトラマンが3分間で帰ってしまう事を無責任だとは言わないだろう。それを過ぎれば死に直結すると理解しているから。つまり地球にいる3分間はウルトラマンがこの戦いを自分事として考えられる、その限界なのだ。廃炉に人間が向き合う事は明らかに、ウルトラマンに3分を過ぎた戦いも自分事として考えて欲しいと言っているのと同じである。本曲が3分過ぎに一度フェイドアウトする意味。3分を過ぎても戦う是非、正義と悪に引き裂かれ、ヘヴィな沈黙を余儀なくされる瞬間だと捉えられないだろうか。それに向き合う事で生じる心の痛みが、ここで歌われる痛みの根源である。歌詞に“心根”というワードがある意味も必然と言える。

今ここにある危機について考える必要があるのだろう。ゴジラでもウルトラマンでもなく、あなた自身が自分事として考えることが。きっとそれは痛みを伴うだろう。だから米津玄師は、心のふるさとに戻り、痛みの元を鎮魂するために、この曲を生み出したのだと思う。でも私自身は、彼以外の人がこの歌詞を歌っていたら、嘘くさく感じたはずだ。ふと「WOODEN DOLL」の歌詞を思い出す。《痛みを呪うのをやめろとは言わないよ/それはもうあなたの一部だろ》《でもね、失くしたものにしか目を向けてないけど/誰かがくれたもの数えたことある?》こんな事を教えてくれた米津玄師だから信じられるのだ。痛みの意味と、喪失の先を描き「WOODEN DOLL」のJ-POP的な解釈した事で「M八七」は生まれたとも考えられる。

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鉄風東京
『 遥か鳥は大空を征く』


ー音楽に選ばれた未来予想図ー


東京で鳴るパンクなアンサーソングとなった。このオルタナティヴ・ロックには未成熟な声音とパンクなアティテュードが混じり合っている。国道や街、ビルという歌詞は新たな東京での始まりを告げる意味も持つのだろう。

仙台からの4人組ロックバンドの1st SGで大黒崚吾(Vo,g)は《誰だって1人になれる世界で僕は》という歌詞で2020以降の新たな普通という感覚を呼び起こさせる。仙台で彼が1人だったかは知らないが2019年より1人の時間は多かっただろう。さらに東京でより1人がクローズアップされるというロジックは成り立つ。

鉄風”からナンバーガールをイメージさせる意味はあるのかなと考えるとやはり地方出身が感じる東京の皮膚感覚だろうか。《焼きついては消えない音楽よ》の焼き付くと鉄風の関連性を感じつつ。そこからの連想で、バンド名を端的に表した初手曲になっているんだろうなと思う。

結果的に本曲は音楽に選ばれた未来の自分からのアンサーソングを今歌うという視点と、1人だった自分は音楽を選び音楽にも選ばれたという二つの意味が含まれる。そして、この俺を選んだ音楽よ!という思いを陽性に響かせ、それをこの瑞々しいバンドサウンドと混ざり合わせている。今の彼らだからこそ出来るロックだ。